38話『poor child』・下
女給から紅茶のおかわりが注がれると、ミーシャは、その熱を楽しむように、紅茶の杯を手でくるんだ。
屋内とはいえ、隅の席はやはり肌寒い。
紅茶で喉を湿らせてから、ミーシャは話し始めた。
「異世界の話ですが……ライト・ミルズという学者が『動機の語彙』という言葉を残しています。
『どうして、そうしたのか』を答える時、人は本当の動機じゃなくて、周りの人が納得してくれるような『どこかで聞いたような動機』を話すのが普通なんだそうです」
「それが、『動機の語彙』ってこと?」
「ええ。人間って案外、自分が何をしたいのかすら、他人の言葉でしか話せないものなんです。…でも、私は、私の人生は、他人の言葉を拒否するところから、始まりました」
ミーシャは陶器の杯の淵をかるく弾いた。
紅茶の中に、自分が揺らめいて写っている。師匠には、ミーシャス・ジーネ・イチノセが何から成り立っているのか、知って欲しかった。
「私が、産みの両親に殺されそうになって、孤児院に入ったという話は、以前しましたよね。だけど、保護された時、弟はすでに衰弱死していたんです。当時は、結構大きな噂にもなりました。
それからは……周囲から『虐待された子』だと言われ、施設に入ってからは、『孤児』と言われ、義理の両親に引き取られてからは、周りから『もらい子』だと言われました」
「皆、私を『かわいそうな子供』扱いしました。蔑まれることもあったし、可哀想がられることもありました。
でも誰も、そのままの私を、見てくれることはなかった。
何か問題を起こせば、『両親がアレだから』と言われたし、成功したら『逆境をはねのけて』と言われた。
そのどちらも、私には我慢がならなかったんです。私は私なのに。レッテルで私を見るなと叫びたかった」
「……」
「社会は私に、沢山のレッテルを押し付けてきました。勝手に押し付けて、そのレッテルにしたがって、行動することを求めるんです。
『親が犯罪者だから』『養子だから』……社会的な通念とか、価値観とか、常識と呼ばれるものが、私を傷つけました。
きっと、普通の人や、順風満帆な人生を送る人たちは、社会から与えられた価値観や常識を疑うこともなく、自分の価値観や常識にして、生きていけるんだと思います。
でも私は、まず、それを撥ね退けなければ、生きていけなかった……」
「……この周りから押し付けられる有象無象を知りたいと思ったことが、社会学を学ぶきっかけにもなったんですけどね」
そういって、ミーシャは微かに笑った。
イレーネは、ただ静かに耳を傾けている。
(『動機の語彙』ね……)
人は、自分のことを話す時でさえも、あるいはだからこそ、嘘や欺瞞を混ぜ込んでしまうものだ。時には、話を面白くしようとして。時には、人からよく思われようとして。時には、自分すらも騙そうとして。
だが、ミーシャの独白には、それがなかった。
他人に理解されやすくて、よく思われやすい言葉ではなく、自分の、内から湧き出る想いを、ありのままの想いを言の葉に乗せている。
『動機の語彙』に頼らない独白は、信仰告白にも似て、一種侵しがたい神聖さがあった。
「私は、社会の有象無象のすべてに、否を突き付けました。その上で、ひとつひとつ、本当に正しいと思うこと、本当に望んでいることを選びとって、作り上げていったんです。私は、それを『心の真実』と呼んでます。
そして、『心の真実』が私の誇り、生きていく指針になりました」
今度は快活に、ミーシャは笑った。
イレーネも釣られて笑う。
ミーシャの言葉は、イレーネにとっても深く共感できる言葉だった。
イレーネもまた、自分の性嗜好について悩み、自分で自分の価値観を創りあげなければならなかった。
教会や、周囲の人々が語る『何が正しくて何が間違っているのか』ではなく、イレーネ自身で考え、自分で学び取って作った『何が正しくて何が間違っているのか』が、今のイレーネを成り立たせていた。
自分が女性好きであることを肯定するまでは苦しかったが、その葛藤があってこそ、今の自分がいると思っている。
「ともかく、私は『心の真実』に従って生きてきました。
私はいろんなことを知って、そこから自分が正しいと思うものを拾い上げていきました。
周りの誰かや、伝統や、イデオロギーや、感情に、寄り掛かることなく、なお、自分が正しいと信じられることをやっていきたい。そうして作り上げた『心の真実』こそが私なんです」
静かな誇りに満ちて、ミーシャは宣言した。
この力強さこそが、弟子の本当の美しさだとイレーネは思う。外見も美しいが、弟子の心の強さがイレーネは好きだった。
「それに、もう、この銀色の髪も灰色の瞳も、私だと思っているんです。この声も、姿も。
だから……。ジーネの記憶も、『私』にしたいんです。ジーネを迎え入れることは、ミーシャを成長させるものでもあると思うから……」
「そう…。そうね。あなたの言葉は正しいと思うわ。そして、その正しさを背負えるだけの覚悟も持っている…。それなら、私もその覚悟を寿ぐわ」
「ありがとうございます」
見る人をとろめかすような微笑をたたえて、ミーシャは礼を述べた。
そして、紅茶で喉を湿らせてから、一番言いたかったことを言った。
「私、わりと始めの頃から、イレーネさんを師匠と呼んでましたけど、最初の頃、実はあんまり…、尊敬してなかったんですよ」
イレーネの表情が、微妙すぎる動きをしたのだろう。
ミーシャは、笑って言った。
「そんな顔しないでくださいよ。今は、本当に尊敬しているんですから……。
どこにも行く当てがなくて、どうにかして生きていく場所を見つけようとして、弟子という『立場』になろうとしてたんです。
いいように、こき使われる覚悟もしてたんですけど、良い方に外れましたね」
「本当? ……どういうところが、尊敬できるの?」
「そうですねぇ……」
ミーシャは楽しげに、視線を宙に彷徨わせた。
こんな気持になったのは何年ぶりだろうと、頭の片隅で思いながら。
「『ジーネの記憶』を呼び戻すといった時、師匠は『あなたの決めたことだから、反対はしない』と言ってくれました。今日だけじゃなく、師匠はいつも、私の意志を尊重してくれます。
一人の人間としての私を、見てくれてます」
それが、ミーシャには何より嬉しかった。レッテルを貼り付けずに、ありのままの自分を尊重してくれることが。
「さっきも、『そうすべき』だから、しなければならないと思い込んでいるんじゃないかって、心配してくれました。
師匠は、”私が望んでいること”を、大事にしてほしいと。”私に望まれていること”に、惑わされるなと、言ってくれたんですよ」
「『心の真実』を大事にしているなんて、師匠には話してなかったのに、自然と、そういう心配をしてくれたんです。
そんな優しいところも、私を尊重してくれるところも、いろんな事を教えてくれるところも、美人なところも……」
「全部好きです」と続けようとして、ミーシャは、顔が赤くなるのを感じた。
自分のことを理解してくれて、しかも様々に助けてくれる。自分で口に出してみて、そんな人物を好きにならないはずがないと、改めて気づいたのだ。
「ま、まぁともかく、年上だからとか、師匠だからとかではなく、人間として、本当に尊敬できる人ですよ、師匠は。……って、照れました? ちょっと顔赤くなってますよ?」
「う、うるさいわね!」
ミーシャは照れ隠しに、逆にそう言ったのだが、師匠は図星を当てられたらしく、さらに顔を赤くして一喝する。
それがミーシャには、わけもなく嬉しかった。




