38話『poor child』・中
温泉郷は、リゾート地であるだけあって、料理屋も数多い。
中でも『彩雲の壺亭』は、比較的値が安く、美味しいものを食べさせてくれると評判の店だった。
イレーネとミーシャの魔術師師弟が店に入ると、中央にある大きな暖炉があかあかと燃えているのが目に飛び込んできた。
山間の地ゆえ、冬も早くやって来る。昼時ではあるが、中央の温かな席はまだ埋まっていない。
だが、女給に声をかけたイレーネは、わざわざ隅の席へと案内してもらう。
「どうしてこんな隅っこの席なんです? もっと、暖炉のそばとか、いい席があったのに……」
「店内を一望できる、いい場所じゃない?」
不満気な弟子を軽くいなしておいてから、イレーネは椅子に座りなおした。ちゃんと説明はするつもりである。
「今、ミーシャは人目を忍ぶ状況でしょう? 目立たないほうがいいわ。それに、壁を背にしたここの席なら、不審な人間を、常に目に入れておくことができるの」
「あぁ…。用心のためだったんですね」
「ええ。ついでだから言っておくけど、宿や、料理屋に初めて行くときは、最低限、玄関、裏口、トイレを調べておいたほうがいいわ。火事や、喧嘩に巻き込まれたり、盗賊に襲われたりしたときの用心にね。
できれば、間取り全体を調べられれば、言うことないわね」
「…なるほど…」
雑談をしていると、女給が注文を取りにきた。
二人で相談して、鶏肉のハーブ煮と、|バジリコソースのスパゲッティを頼む。二人分の量にしては少ないのは、お腹に余裕を持たせて、デザートを楽しむつもりだからだ。
一人分のスパゲッティと鶏肉のハーブ煮を、二人で取り分けて食べたあと、デザートに、『ジャムつきビスケット』と、『焼き花梨のバラ水かけ』を頼んだ。
ビスケットは、シナモンの香りが付けられ、砕かれたヘーゼルナッツが混ぜ込まれている。リンゴジャムをつけて食べるようだ。
焼き花梨は、砂糖で煮た後でグリルしたもので、バラ水がかけられて、芳香を放っている。
この世界のお菓子は、香りは強めで、重い口当たりの物が多い。お茶請けとして少しずつ食べるのが作法であるようだ。
その辺りに、ミーシャは和菓子との共通点を感じなくもない。
紅茶を飲みつつ、菓子をつまみながら、雑談をしていくうちに、治療師ルイスの事に話が及び、そしてミーシャの中の『ジーネ』の話になった。
「……つまり、『ジーネ』が、以前、薬種を扱ったことがあるってこと?」
「はい。イチノセの方は、医療に関しては教養以上のことは知りませんし、ましてや、蒸留器なんて見たことなんてありません。でも……、『蒸留器』なんて専門器具を知っていたし、触ってみて使い方がなんとなく理解できたんです」
ミーシャは、治療師ルイスの施療院にいた時に、そのような器具を触る機会があった。
その時に、ふと懐かしさを感じたのである。
錬金術士でもあるイレーネの庵にも、そのような専門器具はあったのだが、今回初めて、懐かしさを感じたのは、あの死霊術師に会って『ジーネ』の記憶が刺激されたからであろう。
香気の強い”焼き花梨”をフォークに刺しながら、イレーネは思案気な表情を浮かべた。
「そう…『ジーネ』の記憶ね…」
ミーシャの中には、二つの人格がある。
異世界の魂であるイチノセと、この世界の体の魂であるジーネである。
死霊術師ゼファーによって、イチノセの魂は、ジーネの肉体に埋め込まれたらしい。
その結果、ジーネの人格は封じ込められ、イチノセの意識が前面に出ているというわけだ。
「だとしても、ジーネの生家が治療師や薬種商というのは、ちょっと考えにくいわね。普通、薬種商なら、文字は早くから覚えさせるものだし……」
ミーシャは、イレーネが教えるまでは、文字を読み書きできなかった。すなわち、ジーネも文字を読み書きできなかったはずである。
どことなく腑に落ちない顔で、イレーネは、紅茶の入った陶器の杯を両手で抱え込んだ。
「死霊術で、そのような道具を扱うということは、考えられませんか?」
はっとして、イレーネは紅茶の杯を取り落とすところだった。
たしかに、考えてみれば、あり得ないことではない。
ゼファーは『ジーネ』を弟子だと言っていた。にも関わらず、ゼファーはミーシャに対して、『魔術を覚えたのね』とも言っている。
一見矛盾しているようだが、ジーネが『魔術』の弟子ではなく、薬種を扱う別の技術、たとえば『死霊術』の弟子だとすれば辻褄が合うのである。
しかし……。
イレーネは申し訳無さそうに、頭を振った。
「ありえない話じゃないけど、ちょっと分からないわ。死霊術師と対峙したのは、ゼファーを含めて三回あるけど、どれも敵対していたし……。たしかに、特殊な『毒』や『薬品』を使うって噂はあるけど……」
「師匠も言ってましたけど、私が薬種商に仕込まれたんなら、文字も教えると思うんですよね。けれど、ゼファーの立場からすれば、文字は読めないほうが都合がいいんじゃないでしょうか。死霊術の秘密を知られる恐れが減るわけですから」
「筋は通っているわね…」
「そこで…」
ミーシャは小さく息を吸い込んで、居住まいを正した。
「私は、ルイス先生のところへ、お手伝いしに行きたいと思ってます…。私のなかの『ジーネの箱』を開くために。もちろん、治療が終わる一週間後までです。許してもらえますか?」
「それは……ミーシャの中に眠っている『ジーネの記憶』を、引き出すということよね? あなたの決めたことだから、反対はしないけど…いいの?
自分が何者か分からなくなりそうだって、言ってたでしょう?」
ミーシャは自分の胸の内を確かめるように、両手の指を突き合わせた。
「もともと、この体はジーネのものです。なら、ジーネの記憶を取り戻すのは、私の務めでしょうし……。それにゼファーのこともあります」
「ゼファー?」
「ええ。私達は、ゼファーから逃れるために、自治都市フェレチへ行って、そこから王都へ向かうつもりですよね」
「そうね。前にも話したけれど、王都まで行けば、人混みに紛れることもできるし、守ってくれる騎士団もいるからね」
「それはそれでいいんですけど…でも、色々考えましたが、結局、ゼファー自身をどうにかしなければ、私が安眠できる日は来ません」
ミーシャの考えは、こうであった。
安眠するためには、ゼファーが諦めるか、ゼファーを殺すか、ゼファーから追われないようにするしか無い。
そのどれであろうと、『ジーネ』は大きな不確定要素となってしまう。
ゼファーが諦めるのは、自分が成功例でないと思わせることである。
『魂の移植実験』自体が、成功していなかった場合は意味が無いが、もし、移植実験が成功していて、一方の意識だけを残すのが上手くいかなかった場合、『ジーネの記憶』を取り戻せば、ゼファーも拘ることを止めるだろう。
ゼファーを殺すためにも、『ジーネの記憶』は役に立つだろう。なにせ死霊術師の弟子として近くにいたのだから、ジーネの記憶を取り戻せば、ゼファーについても知ることが出来るはずだ。
最後に、追ってこられないようにするには、とミーシャは続けた。
「追われないためには、当面、追跡者のイングレッドを無力化すればいいんです。私の顔を知られていて、追跡能力があるのは、イングレッドだけですから」
「そうね。追跡者は、冒険者の中でも稀有な才能だわ。岩塩窟でも、レイミアしかいなかったし…。イングレッドさえ抑えれば、逃げ切れる可能性は高いわね」
「ただ、”ジーネ”が、追跡者と顔を合わせてる可能性もないとは言えません。そのためにも、ジーネの記憶を取り戻しておきたいんです」
「……」
イレーネは、いつの間にか冷めてしまった紅茶を飲み干すと、ミーシャをじっと見つめた。
一度、弱音を吐いたとは思えないほどに、ミーシャが、どこか他人事のように話しているのが気にかかったのだ。
「確かに、『ジーネの記憶』を取り戻せれば、ゼファーに対して、今よりも有利に立てるわ。それに、もともとジーネの体だから、その記憶を取り戻したいと思うのも、立派よ。
でも…、あなた自身は、本当にそれを望んでいるの? 『そうすべき』だと思っているから、『そうしなくちゃならない』と、思い込んでいるんじゃあないの?」
イレーネは、むしろ厳しい口調で言ったのだが、ミーシャは春の日差しを浴びた時のような、やわらかな笑顔を見せた。
「ちょっと話が長くなりそうなので、紅茶のおかわりを頼んでもいいですか? 」




