37話『lose my way』・下
朝、日の出とともに、イレーネは起きた。寝起きが良いことも冒険者としては、必須技能の一つである。
手早く朝食を調理して、イレーネはレイミアとアマロと共に食事を始めた。
腹をこしらえてから、ミーシャを抱えて『温泉郷』に行くつもりである。
レイミアが口を開いた。
「これから、イレーネさまは、王都に行くつもりですよねー?」
「えぇ。どうして分かったの?」
「王都まで行けば、騎士団が守ってくれますし、人混みに紛れられますしー。それに、そもそもイレーネさまは王都で活躍してたからー」
「へぇ。すごいわね。レイミア」
「えへへ。で、昨日話していたんですけど、アマロは、うちに帰りたいんだそうです。それで、アマロの実家は王都の北にあるんですけど、そこまではアマロと一緒に行ってもいいですか?」
「……ということは、仲間にはならないけれど、同行するってこと?」
イレーネはアマロに向かって、そう問いかけた。
「え? えぇと…そう、ですね」
アマロは頷いた。一晩中、火守をしていたせいで、頭がよく働かないままに返事をしてしまった。
言ってしまってから、それでもいいかという気持ちになる。どちらにせよ、イレーネさまも王都に行くというのなら、便乗させてもらおう。
改めて、頭を下げる。
「お願いします。王都までになりますけど…」
(そうね……。アマロを信じないわけじゃないけど、王都まで同行するとなれば裏切られる心配はしなくていいわ……。これから、別行動をとるけれど…レイミアがついているなら、大丈夫…かしら)
一瞬で、イレーネは思考をめぐらして、アマロの同行に許可を出した。
「ええ。こちらこそ、お願いするわ。それじゃあ、これからの事を話し合いたいのだけれど…いいかしら。まず山賊の砦に向かってもらって……」
イレーネは、これからの計画を話し始めた。
アマロとレイミアが居てくれたおかげで、ずいぶんとこれからの計画がやりやすくなったのは確かだった。
***
イレーネは、病身のミーシャを抱えた。
フンボルトの城壁を飛び越えた時は、さほどの距離ではなかったが、今回の『温泉郷』はイレーネが全力で飛んでも、何回か休憩を挟まなければならないだろう。
荷物は少なくすべきだった。
武具と、いくつかの魔法薬の他には、高額貨幣のみを携える。
「後をよろしくね」
レイミア、アマロ、ルーシェンにそう言い残して、『霧の魔女』イレーネは、《飛翔の翼》を構築して飛び立つ。
しばらくして、イレーネは自分のものではない魔力振動に気づいた。
胸に抱えたミーシャがマナを励起していたのだ。
イレーネと目があったミーシャは、苦しげに息を荒げつつも、笑みを浮かべた。
「ありがとう…ミーシャ。二人分の魔力なら、きっと休まずに温泉郷につけるわ…」
***
病身のミーシャを抱えたイレーネが、温泉郷に降り立ったのは、まだ午前中のことであった。
「僧侶か、治療師ねぇ…。ここ数日は、領主様がいらっしゃるってんで、ここの司祭様はお会いにはなってくれないだろうねぇ」
「それじゃ、治療師はどうなんです?」
「落ち着きなよ、魔女さん。一応、いるにはいるんだが…」
イレーネは苛立った。番兵に足止めを食っている場合ではないのだ。
「いいから、教えなさい!」
「…わかったよ。だが、金にがめつい男だぜ?」
番兵のニヤケ顔に苛ついたが、そんなことにかまっている場合ではない。
ミーシャを抱えて、教えてもらった治療院に向かった。
そこは外装のないレンガ造りの平屋だった。一応、周辺に花壇が備え付けれれて、無骨さをいささかなりとも薄めている。
治療院の中に入ると現れたのは、無精髭の男だった。壮年の男性だが、体は引き締まっていて、若く見える。
ミーシャを見るなり、無精髭の男は、あごで寝台の上を指し示す。
「そこに横たえてくれ。 症状は?」
「発熱、悪寒、頻脈、それに頭痛と、関節痛も少しあるそうです」
男は薬種棚から薬を取り出し、天秤で分量をはかってから、水に溶かした。
「鎮痛の効果がある薬だ。飲めるか?」
「……はい。大丈夫です」
ミーシャは体を起こして、茶色く濁った水を飲んだ。
「いくつか質問に答えてくれ」
治療師の男は、症状が起きた時期、その前の出来事、詳しい症状などを聞いてきた。
「左足のふくらはぎ辺りが、痛いんですが……」
ミーシャがそう言うと、男は、いきなり、少女のズボンをおろした。
そして、脚絆を切り剥いでいく。
「ちょっと! なにをしているの!」
イレーネは憤慨して、治療師の腕を掴んだ。
この時代、治療師であっても、女性に触れることは礼儀上好ましくないとされていた。有無をいわさず、服を脱がせるなど許しがたい行為である。
だが、治療師は一歩もひかなかった。
「やかましい! 診療のためだ! 一刻を争うときに、礼儀なんか気にしてられるか!」
治療師はイレーネの腕を振りほどく。ミーシャも「大丈夫ですから」と、師匠をなだめた。
「赤く腫れているな…触ると、どうだ?」
「くっ…」
痛みでミーシャは呻いた。
「赤く固い腫れ…。切り傷を受けてからの発症…。症状から鑑みても、敗血症になりつつある蜂窩織炎だろう」
ミーシャには、敗血症という言葉に聞き覚えがあった。この世界の言葉で敗血症を知っていたということは、『ジーネ』が知っていたということだ……。
「敗血症は……聞いたことがある…。傷から病原菌が入ったことによる感染症のことか…?」とミーシャが訊く。
「概ね、その通りだが…。口調が変わったな…そっちが素か?」
「……すみません。初対面の方に失礼でした」
「いや、いいさ。だが、蜂窩織炎なら、治療は急がにゃならん」
そういって無精髭の治療師は、薬種棚からいくつかの薬を取り出し、混ぜ込んだ。
「とにかく、敗血症も蜂窩織炎も迅速な治療が必要だ。この薬を飲んでくれ」
ミーシャは素直に受け取って、粉薬を水で流し込んだ。
「ところで…私も、奉仕活動でやっているわけじゃあない。それなりの治療費を払ってもらうことになるが…いいかね?」
「いくらでしょうか?」とイレーネが尋ねた。
「もろもろ全部合わせて、金貨20枚だ。 前金で金貨10枚。治療後に残り金貨10枚を頂こう」
(……法外だわ)
金貨20枚といえば、一年は遊んで暮らせる金額である。流れ者の冒険者とみて吹っかけているのだろうか。
「…いくら何でも、高すぎるわ! 金貨3枚あれば、僧侶から《平癒の奇跡》を受けられるのに!」
「なら、僧侶にやってもらえればいい。今は領主様が来るってんで、診察してもらえないだろうがな。
それに、高すぎる? 出せない金額じゃないだろう? アンタの篭手…魔法水晶付きのミスリル製だ。ずいぶんと儲けていると思うがね…。それに、もし、このかわいい弟子が回復しなけりゃ、後金は払わなくても構わないってことだ。破格の条件じゃないか?」
「……いいでしょう。後で持って……」
「師匠……二人きりで…話せませんか?」
イレーネの声に被せて、ミーシャは横から口を挟んだ。
***
「どうしたの、ミーシャ。別に治療費のことなら……」
「私は…助からないかもしれません…」
「大丈夫よ。病で気が弱くなっているのかもしれないけど…」
「この世界の医療水準で、敗血症が治る見込みはありません。私のいた世界では、近代が始まるまでは、勘と経験に頼った医療しか行われてきませんでした。科学的根拠に基づいた医療は、それこそ、ナイチンゲールが嚆矢で…」
「ちょっと待って。何を言っているかわからないわ」
イレーネが慌てて口を挟むと、ようやくミーシャは口を閉ざした。
そして、考えをまとめるように少し黙る。
「なんというか…。とりあえず、私の持ってた金貨6枚は治療費の足しにしてください。あの治療師は、私が死ねば後金は払わなくて良いと言いました。なら、金貨4枚の無駄金で済みます」
「もし、お金を払うのが心苦しいのなら…」
ミーシャは頭を振った。
「そうではなく。死んでしまう可能性のことを話しているんです。 敗血症は死ぬ病です。死ぬ前に、師匠にお礼を…最後に、なるかもしれないから……」
途切れ途切れに、ミーシャは話していく。
「アマロやレイミアに会えて良かった。リオンにも、ラヴェルヌさんにも、ミンヘル殿下にも。もちろん、イレーネさんにも……ありがとう……」
「ちょ、ちょっと…」
「この世界に来てから、ずっと不思議でした。イレーネさんや、ラヴェルヌさん、それにミンヘル殿下に私は、なぜか自分の弱いところを、さらけ出していました。前の世界では一度もなかったのに……。きっと…」
ミーシャは弱々しげに笑った。
「きっと…私の中の『ジーネ』のおかげですね…。弱みを晒してもいいというくらい、人を好きになることができたんです……。私は実の両親に愛されなかったから、人を好きになることが怖かったんです。好きになることも好かれることも怖かった…」
イレーネが握ってくれた手を、握り返す。
この温かみが得られたことが、私にとって最良の成果だった。そう思いながら。
「でも、最後に人を好きになることが出来ました。師匠に会えてよかった。命を救ってくれて…魔術を教えてくれて…私に好意を与えてくれて…この数ヶ月、本当に楽しかった…ありがとう」
ミーシャは目を閉じた。そして、自分の胸の裡を確かめるように呟く。
「私は、思うがままに生きたよ。短い人生でも、『心の真実』に従って生きてこれた。皆に迷惑もかけたけれど…『満足』だ…」
そこにノックが響いた。
無精髭の治療師が、戻ってきていたのだ。扉はすでに開け放たれていた。
「雰囲気出しているところ悪いが…ミーシャちゃん。アンタは死なないぜ」
「……いつ戻ってきたんです?」
「ついさっき。もう一人、患者が来ててな。そこの薬種棚の薬が必要なんだよ」
治療師は、薬種棚の中から薬を見繕いながら、ミーシャに語りかけた。
「いいかい。さっきは、ちょいと脅しを掛けるために、敗血症だなんて言ったが…蜂窩織炎なんて、ありふれた病気だ。特に傭兵の間じゃな。何度も治したことがあるし、アンタくらいの症状なら、確実に治る」
無精髭の治療師は、軟膏を詰めた壺をイレーネに手渡した。
「この軟膏を腫れている左のふくらはぎに塗ってやれ。……俺が塗ってやってもいいが、五月蝿く言われちゃたまらんからな」
言いたいことを言って、治療師は出て行ってしまった。
なんとなく、沈黙が続いた後、ミーシャがポツリと呟いた。
「えーと、私、助かるんですか?」
「…そうみたいね」