34話『森人』・下
(速い! 『神速の』二つ名は伊達じゃない!)
レイミアは驚愕した。
足場の悪い森のなかで、自在に動ける技量と敏捷さ。
(まさか森の中で、自分と同等のスピードを出せるなんて…)
『神速の』イングレッドも、『赤毛の森人』レイミアも、木の影から木の影へと、移動する。
しかし、膠着はしない。
レイミアが木の影に隠れても、その一瞬で回りこみ、あるいは接近して、礫を打ちこむ。
レイミアも涙滴状の『牙』を、走りながら撃つ。
イングレッドとは、およそ30歩ほどの距離がある。この距離で走りながら、同じく走る標的に当てるのは至難の業だ。
もっと近づかなければ、互いに当てることはできないだろう。
だが、近づきすぎれば、被弾する可能性も高くなる。
(イレーネさまと合流しなくてよかった……。合流に時間をかけてたら、すぐに山賊に発見されていた……。そうなったら、皆が危なかった……。
けど、今は、森に笛がたてつづけに鳴り響いてる。イレーネさまも、きっと危険が近づいていることに気づいてくれる)
「やるな! 俺と同じ領域に立てた人間は、お前で二人目だ!」
「それは、どーも」
小さな声で、レイミアは呟いた。
(私は、イングレッドが初めてだよ…)
レイミアは『森人』として、ほとんどの時間を森で暮らしてきた。森の中では誰にも負けない自負があった。
だが、これも井の中の蛙だったのかもしれない。
投げる。避ける。走る。
幾つもの礫と『牙』が投射されたが、決着はつかなかった。互いに革鎧を着込んでいるため、その隙間を狙わなければ、効果は薄い。
互いに人並み外れた軽捷さゆえに、有効打を与えられなかった。
(まずいなー)
レイミアは焦ってきていた。あまりに時間をかければ、山賊たちが集まってくるだろう。一対一で膠着状態を続けることは、レイミアにとって不利だった。
だが、ここに集まっているということは、イレーネさまやアマロからは離れていくことに他ならない。
囮になった目論見は成功だと言えた。
(追跡能力があるのは、たぶん、この『神速の』イングレッドだけ。彼を倒せば、逃げることもできるかなぁ? でも、どうやれば倒せるんだろう?)
レイミアは木の陰で呼吸を整えつつ、逃げることから、倒すことへと意識を変えていった。
もし『神速の』イングレッドの追跡能力が低かったり、速度が遅かったりしたら、逃げつつ潜伏して、弓で狙撃するつもりだった。
だが、イングレッドは速い。振りきって逃げることは不可能だろう。
逃げようとすれば、背中に攻撃されるだけだ。
(ごちゃごちゃ考えるのはやめよう。どうせ私は頭悪いしー。速度はイングレッドの方が上みたいだけど、森での経験は私の方が上。真っ向から戦う!)
「イングレッド!」
木の陰から、レイミアが飛び出す。
互いに攻撃しながら移動した場所は、木がまばらに生えている場所だった。ここでは木の陰に隠れにくい。
さらに昨日の氷雨のせいで、地面はぬかるんでいる。
「……来い!」
レイミアは、闘気法の体構えの一つ、『三方の構え』を取った。
左右の足のどちらにも重心をおかず、腰を落として、手も自然におろしている。
この三方の構えは、正面左右のどこからの攻撃にもすぐ対応できるものだ。手をおろしているのは、素早く『牙』を投げるためである。
防御ではなく、回避と攻撃に振り切った構えであった。
「…互いに礫が当たる距離で、戦うつもりとは……。さすがだッ! その勇気に応えようッ!」
『神速の』イングレッドが一歩ずつ、歩いてくる。
緊張感と集中力が高まっていく。
歩くという動作は、どうしても重心が揺れがちになるものだ。
泥濘み、足を取られる湿地では、ただ重心を揺らさずに歩くだけでも相当に難しい。
重心が揺れれば、回避の行動が一瞬遅れる。その瞬間に『牙』を投げつけるつもりで、レイミアはいた。
だが、イングレッドの重心は…崩れなかった。
「なるほど…ただの草地ではないな…、これほど泥濘んでいるとは……。だが、泥濘での運足を知らぬわけではない!」
(強い…)
一流の武人は、相手の歩き方を見ただけで実力がわかるという。武の基本とは、まさに重心移動であるからだ。
ぬかるみの中にもかかわらず、イングレッドの運足は、重心をまるで揺らしていない。
予想以上の流れるような足捌きに、レイミアは『牙』を握りこみつつ、容易に投射することが出来なかった。
(23…22…21…20歩!)
距離が20歩になった瞬間、『牙』が風を切って、イングレッドの顔面を狙う。
イングレッドは上半身を横に反らせて避け、同時に、鎧の肩の継ぎ目を狙って礫を投げる。レイミアは横に飛んで躱しつつ『牙』を投げる。
レイミアほどの目を持てば、投げる時の予備動作で、どこに礫が飛んでくるのかは分かる。そして、むろん、イングレッドも同じだろう。
軌道を読み合い、投げた後の一瞬の硬直を狙って、こちらも投げる。
礫も、『牙』も、数に限りがある。無駄撃ちをする訳にはいかない。
それなのに、投射し続けるのは、相手の重心を崩すためだからだ。重心が崩れれば、バランスを取ろうとして本能的に体勢を戻す。
つまり、避けられない体勢のときに、『牙』を当てることができるのだ。
「くぅ!」
礫を、『牙』で弾き返す。
『牙』で防御したために、一手遅れてしまった。すぐに『牙』を投げることが出来ない。その間にも、次の礫が襲い掛かってくる。
いまや10歩の距離にまで両者は近づいていた。投げながら、避ける方向を読み、そこへ先回りするようにして、互いに距離を縮めてきたのだ。
当然、読み合いは難しくなる。
イングレッドの顔に、笑みが浮かぶ。
彼の頭の中では、すでに喉元に礫を突き刺すまでの戦略が組み立てられていた。
(この速度の領域で戦ったことのない経験不足……それが、この差を生んだ。『赤毛の狩人』とは違い、俺は、この速度で訓練して『慣れ』ている! 捕まえられなかったのは残念だが、ここで倒す! 手加減して倒せるような敵ではなかった。見事だッ!)
イングレッドが礫を投げつける。
レイミアはすでに重心を崩しつつある。だが、俊敏に腕をふるって『牙』で礫を弾き落とした。
(かかった!)
弾き飛ばした礫の後ろに、もう一つの礫があった。一投で二つの礫を投げる『二連投げ』の秘技を、今まで温存していたのだ。
避けきることは出来ない。レイミアは肩を前に回して、革鎧で受ける。だがそれは、さらに体勢を崩すことになった。
前日の雨でぬかるんだ土壌のために、踏ん張ることは出来ない。
レイミアは体勢を戻そうとはしなかった。ことさらに体勢を崩し、背中から地面に倒れこむ。
足先をイングレッドに向けて倒れこんだため、礫を急所に当てることができない。
(そうなることも織り込み済みだ! 確かに狙いはつけられん! が、もはやお前は倒れこむだけ! 一気に距離を詰めて、片をつける!)
最後の一投を投げるために、イングレッドはレイミアに走り寄った。
「なっ!?」
その刹那、イングレッドは自分が体勢を崩したことに気づいた。
思いがけない出来事に、たたらを踏む。
まずい、と思った時には遅かった。背中を丸めて一回転したレイミアが、『牙』を投げつける。
ももの内側と肩の付け根に『牙』が食い込み、イングレッドは倒れ伏した。これは機動力と、攻撃力を奪われたことを意味する。
「なぜだ! なぜ俺は倒れた!」
イングレッドは、無事な方の足で必死に距離を取りながら、叫んだ。
距離をとったとはいえ、片足を怪我していては、レイミアの速さにはついていけない。
もう、勝負はついていた。
「水はけが悪いと木は根付かないんだよ。ここに、あまり木が無いのもそういう理由。……で、水はけの悪いところだと、木の根っこが地面から飛び出してくることがよくあるんだよねー」
レイミアは、伸びている葦を踏みつける。
草が取り払われ、瘤のような木の根が、地面から飛び出しているのがわかった。
「その木の根に躓いたのか、俺は…」
「正確には、踏んづけて転んだんだけどねー。そうなるように仕向けたんだよ。
……私が地面に倒れ込んだら、イングレッドはとどめを刺すために、私の近くに来なくちゃいけなくなるでしょ? 寝ている人間は、遠くからじゃ角度がついて狙いにくいからねぇ」
「それは…、分かる。だが、なぜ俺がその木の根を踏むとわかった?」
「私は森に住んでいるから、木の根の場所は分かるんだよ。イングレッドは草で分からなかっただろうけど……。私が転んだら、イングレッドは急いで、しかも、重心を揺らさない運足でこちらに来る。歩幅がどのくらいかは、観察して予想がついたからねー」
「そこまで……計算していたのか…。場所の選定から、倒れるところまで…? 森に慣れていなかった俺のほうが、経験不足だったか…」
レイミアは肩をすくめた。
「いいや、実はてきとーなんだ。なんとなく、そうなるんじゃないかなーって気がしただけ」




