32.5話『ゼノミオの新しい日常』
上から下に斬り、下から上へ斬り返す。薙ぎ払い、薙ぎ返す。
騎士の剣術は、一所にとどまってする素振りではない。絶えず動き回りながら、呼吸と動きを合わせていく。
どんな動きであっても、体の軸を揺らさずに出来なければ、騎士の剣術を収めているとはいえなかった。
フンボルトの城館中庭で、ゼノミオ・アイヴィゴースは剣を振るっている。
中庭は、ゼノミオを始めとする騎士達の練兵場と化していた。
「お見事です。ゼノミオ様」
一息ついたところを見計らって、いまや宮廷魔術師となったゼファー・エンデッドリッチが声をかけた。
傍らに女中を連れている。
「ゼファー殿か。ありがたい」
冷たい水が満たされた杯を受け取って、ゼノミオは感謝を言った。
魔術師でもなければ、氷を浮かべた冷水を用意することは出来ぬ。一般に、騎士は闘気法を能くするが、魔術は不得手であった。
「このくらい、なんでもありませんわ。 多くの地位と名誉を頂いたのですから」
「ゼファー殿が優秀であったためだ。礼には及ばぬ」
女中に汗を拭き取らせながら、ゼノミオが言った。
史上、『フンボルト内乱』と呼ばれる一連の戦いによって、ゼノミオとゼファーの境遇は、大きく変わっていた。
ゼファー・エンデッドリッチは、もはや旅の魔術師ではない。
ミンヘル王太子の亡命宮廷の宮宰にして、アイヴィゴース家の家宰である。また、宮廷魔術師にして、騎士団つきの魔術師長官でもある。
宮中伯の称号も得た。
一方、ゼノミオ・アイヴィゴースも、騎士団長の地位はそのままに、ナッツォリー侯爵、アイヴィーゴース騎士伯を襲爵している。
この中で、騎士伯の称号こそが、貴重なものであった。
アイヴィゴース騎士伯とは、王国に5つしか無い騎士団の長であることを示している。
王都騎士団、双頭騎士団、大公騎士団、ブリコシオン騎士団、そして、アイヴィゴース騎士団。
この他に教会が擁する教会騎士団、北西部辺境の開拓騎士団があるが、それぞれの事情で、王権に関わることはないだろう。
騎士団は王国屈指の軍事力組織であり、それを保持しているゼノミオは、今や国内有数の権勢を誇っている。
ゼファーもゼノミオも、位人臣を極めたと言って良い。
しかし、それは未だ砂上の楼閣であることを互いに認識していた。
「ゼファー殿。わざわざ来られたのは、何かよい報告があってのことではないかな?」
「ご明察ですわ。ゼノミオ様。実は……」
そう言いかけた時、暗がりからゼノミオに勢い良くぶつかって来る者があった。
「ゼノミオ兄さま!!」
ゼノミオは、体を開きつつ突進をかわし、剣の柄に手をかけた。が、すぐにそれが、最愛の妹フェデリであることに気づいて、抜きかけた剣を収める。
フェデリはたたらを踏んだが、宮宰ゼファーに受け止められた。
「ゼノミオ騎士団長。せっかくのサプライズに、無粋ですよ」
ゼファーが笑いながら、フェデリの体勢を直した。
クリーム色の髪に、緑碧玉のような愛らしい目をしている。ゼノミオの記憶のままの妹であった。
「む……。フェデリか」
「ええ、そうですわ。ゼノミオ兄様。びっくりさせようと思って、待っておりましたの。ゼファーさまにも、協力していただきましたわ」
にこやかに笑って、ゼノミオの妹は完璧な淑女の礼をしてみせた。
「フェデリ。危ない真似はするな。『悪事をなすまいと思う者は、類することもしてはならぬ』という言葉があるだろう。そのような振る舞い、刺客に間違われて斬られても文句は言えぬぞ」
にこやかなフェデリと対称的に顔をしかめて、ゼノミオは言ったものであった。
実際、ゼノミオにとって、それは杞憂ではない。つい先日、膨大な執務の合間に気晴らしも兼ねて、フンボルトの港を視察していた時のことである。
港の端にある小屋で、入出港記録を確認し終えて外に出たゼノミオは、男たちに取り囲まれていた。
常ならば従騎士がそばにいるのだが、ちょっとした用事を申しつけたため、折悪しくゼノミオは一人であった。否、男たちは、ゼノミオが一人で居るときを見計らって襲ってきたのに違いなかった。
刺客たちは剣を構え、ゼノミオを逃さぬように包囲している。
ゼノミオは怯える様子も見せずに、拳をつきだした。
「言え!」
ゼノミオの言葉はいつも短く、直裁的である。そのために、意図を察せぬ者も多かった。このときの刺客たちも、何を聞かれているのか分からなかった。
ゼノミオは再び口を開いた。
「お主らは闇討ちをせず、白昼堂々、吾に闘いを挑んだ。その振る舞いは、名誉ある騎士のものだ。騎士ならば、己が拠って立つべき名分があろう。それを話せ!」
そこまで言われては、刺客たちも黙っていられぬ。騎士道精神を刺激されたのだろう、一人の青年が一歩前に出た。
「わ、我こそは、ビーゴヴァイス士爵家のファゼア! 王家に逆らいし父殺しの大逆人め! 亡き兄の無念を、は、晴らしてくれる!」
威勢よく名乗りを上げようとした青年は、その意図に反して、声を掠らせてしまった。
「そうか。是非もなし」
ゼノミオは無造作に距離を詰めて、青年ファゼアを殴り飛ばした。
刺客達があっと思う間もなく、ミスリルの大剣『大だんびら』を抜き放ち、一閃させる。
恐ろしい膂力であった。
三人が一度に切り裂かれ、地に倒れる。さらに、ゼノミオはすっと身をかがめて、刺客の懐へと入り込んだ。
三人が倒れたことに拠って、包囲は破れている。その破れた端にゼノミオは肉薄したのであった。
「うわぁ」
あわてて刺客は剣を振り下ろしたが、伸びきった体で力がはいるものではない。
ゼノミオは体当たりをして男を撥ね飛ばしつつ、大剣を引き戻して、もう一人の男の剣を手首ごと切り離した。
血煙が辺りに舞う。
刺客は初め11人だったが、そのうち6人が瞬く間にやられてしまった。
とくに首謀者であるファゼアが倒されたのが、刺客たちに動揺を与えた。
「悪鬼……ッ!」
そう誰かが呟いたかと思うと、生き残った刺客たちは我先にと逃げ出した。辺りには生臭い血の池ができている。
ゼノミオは、彼らを追わなかった。異変を察知した近衛騎士たちが駆けつけてきていたからである。
小狗を追うなど、主君たるものの仕事ではない。
ゼノミオ自身が剣を取らねばならなかったのは、この一件のみではあったが、大小様々な謀略が企てられていたのは確かである。
神経を尖らせておかねばならぬ事情がゼノミオにはあったわけで、フェデリへの苦言は決して無意味なものではなかったのだが、きつく言わなかったのは兄妹としての情ゆえにであったろう。
その日の朝食は、ゼノミオとフェデリ、それにゼファーが加わったものとなった。
最初、ゼファーは辞退したのだが、フェデリに強く勧められたため、家族の団欒に加わることにしたのだ。
朝食は、オートミール、マフィン、オムレツ、じゃがいもとベーコンのガレット、ソーセージ、トマトサラダなどが並んでいる。
加えて魚介類のオイル漬けがあるのが、港湾都市フンボルトを感じさせるところだろうか。
「それでミンヘル王子さまに、お会いしたのでしょう? どんな方でしたの?」
興味津々といった様子で、フェデリは尋ねた。紅茶が、香り高い湯気を立てている。
王族に見えるなど、騎士伯令嬢フェデリの身分でさえ、そう多くはない。
「長年の監禁生活で体は弱っておいでですが、利発そうな面差しの方でしたよ」
ゼファーがそう答える。実際のところ、ミンヘル王子は、王族ということもあって、丁重かつ慇懃に扱われてきた。
つまり、それほど過酷な環境であったわけではない。体が弱るわけもなかったのだが、フェデリは心をいためて「お可哀想に…ミンヘル王子」と呟いた。
「見えたいか?」
ゼノミオは微笑みながら、彼らしく短く問うた。
「いいんですか? ゼノミオ兄さま」
「ミンヘル殿下に許可をもらわねばならぬが、吾の身内ならば、謁見くらい許してもらえるだろう」
「ありがとうございます! お兄さま」
勢いこんで、フェデリは礼を言った。
礼を失するため、中座はしないものの、そわそわと目に見えて落ち着きがなくなっている。
ゼノミオは妹を見やって再度、微笑みを浮かべた。
「それほどまでに会いたいのなら、吾もすぐに殿下に掛け合うことにしよう。…それと、まだ対外的には発表していないが、ミンヘル殿下は今後、王太子を名乗ることになる。承知しておいてくれ」
王太子とは、最高位の王位継承権を持つ人間のことである。単なる王族である王子とは、重みが違う。
そして、現女王であるインヴェニュートの許しを得ずに、王太子を名乗るということは2つのことを意味していた。
第一に、現役のインヴェニュート女王に対して、その権威を認めないということ。
第二に、ミンヘル殿下が公然と、王権を狙うことを表明したということである。
理の当然として、現在のインヴェニュート女王と、女王を裏で操る黒幕『領主連合派』に公然と対立することになるだろう。
そのことをゼノミオは説明したのだが、フェデリは王子様に会えるというだけで舞い上がり、心ここにあらずといった様子であった。
食後の紅茶を飲み終えると、慌ただしくもフェデリは立ち上がり、兄ゼノミオにキスをして部屋を出て行った。
王太子に会うときのドレスの試着や、髪結などを試してみるのだろう。
「…ずいぶんと、明るくなった。これも、ゼファー殿のおかげだ」
フェデリの後ろ姿を視線で追いながら、ゼノミオは呟いた。
「いいえ。私がしたことは、ほとんどありませんわ。……おそらく、フェデリ嬢は、彼女なりにゼノミオ様に気を使っているのです」
「吾に気を使う?」
「ええ。父殺しのために、兄君が落ち込んでいると察して、無理に明るく振る舞っておいでなのですわ。
ことさらにミンヘル殿下に言及したのも、…もちろん、王族に興味があったのもの確かでしょうが…、大義ゆえであることを念押ししたかったからだと思います」
「ふむ…」
ゼノミオはやや曖昧に頷いた。父殺しに対しては、彼はいささかの罪悪感も抱いてはいない。
自分は、ゼファーの命に従って悪を断罪したのであって、大義と正義をなしただけだと思っている。むしろ、晴れ晴れとした気持ちであった。
とはいえ、ゼファーに忠誠を捧げたことは、周囲に秘する事柄である。
『竜下の刀礼』によって、王太子ミンヘルに、忠誠を誓ったことになっているからだ。いや、ミンヘル殿下にも忠誠は捧げているが、それはゼファーの王道楽土をこの国にもたらすという理念を通じた間接的なものであった。
「ゼファー殿。公には出来ぬが、吾は今でも、卿に忠誠を誓っている。悪を滅し、王道楽土を築くという志は常人には持てぬものだ。ゼファー殿は主君として仰ぐに足る」
「ありがとうございます。ゼノミオ様の忠誠は、この部屋一杯の黄金よりも価値がありますね」
ゼファーは、にこやかに微笑みながら、話題を転じた。
「それにしてもミンヘル王太子に妹を会わせるのは、なにか腹案がおありなのですか?」
「それが、フェデリとミンヘル殿下を政略結婚させるつもりなのかという問いならば、否だ。
むろん、フェデリとミンヘル殿下が恋仲になるなら、嬉しい事だが、な……」
「お優しいのですね。貴族の中には、娘や妹を政略結婚の道具としか見ない方もいらっしゃるのに」
「ああ…」
ゼノミオは、短く相槌を打っただけで黙った。
フェデリは、もう十分につらい目にあってきた。これからは幸せにしてやりたいし、少なくとも、幸せを妨げることはしたくない。ゼノミオはそう思ったが、なぜだか口に出すことではないと感じたのである。
***
「そういえば…追跡者のコットゼブエを、貸してほしいということだったが」
ゼノミオが、その話題を持ちだしたのは、人事権の相談が一段落したところであった。
王太子の亡命宮廷を開いたからには、それに伴う役職を割り振らなければならない。
軍事に限っても、ゼノミオ騎士伯が首座を占めるのは当然としても、軍務卿、海軍卿、侍従騎士長などを選出しなければならない。
また、パースシー副団長の後任も必要であろう。
政治面でいえば、宮宰たるゼファーの他、大法官、大蔵卿、内務尚書、外務尚書、諮問会議長などを選出しなければならない。
さらには、教会との折衝を行う宮廷司教も必要であろう。
当面の戦後処理も並行しつつ、将来への布石も行わなければならない。テルモットの家臣団が到着したとはいえ、忙しさは減ることはなかった。
「ええ。イングレッド・コットゼブエですね。行方不明になっている私の弟子を探してもらいたいのです」
「弟子を大切にしているのはわかるが……、今は、一人でも有能な人間が欲しいところだ。コットゼブエの姉弟は、どちらも優秀だ。なるべくなら手元に置きたいのだがな」
「……そうですね…」
ゼファーが追っているのは、魔術実験の被験者にして最初の成功例であるジーネ・イチノセである。
それ以前の被験者は、発狂するか廃人となるか、あるいは死ぬかであって、ゼファーにとって、満足いく成果とは決して呼べないものであった。
だからこそ、逃げ出してきたジーネを発狂したものと思い、軽視していたのだが……。
フンボルトの城館で遭遇したジーネは…いや、「ジーネだった者」は、驚くほどに、ほとんど完璧な成功例だった。
ジーネの人格はなく、移植した魂が完璧に定着していた。
(『魂の移植』は、ロウソクを継ぎ足すようなもの……。土台となる人間の魂が”太い”ものでなければ、成功はおぼつかない…。その意味でジーネは稀有な『不死の素体』だわ…)
「イングレッドは、私の弟子を実際に見かけていますから」
ゼファーは、艶やかに笑いかけた。
「私の弟子は…重要な魔術の知識を盗み出したのです。それが無いからといって、今すぐどうこうなるわけではありませんが…」
「わかった、かまわない。コットゼブエを使うといい」
即断即決の見本のように、ゼノミオは了承した。
これほど簡単にコットゼブエを借りられるとは、ゼファーは思っていなかった。
「よろしいのですか?」
「なにを驚く?」
「いえ。もっと渋られるかと…」
「ゼファー殿は、吾の主君だ。その主君が必要だと判断したのなら、吾に否やはない」
「……全き忠誠に、感謝を」
いささか複雑な表情で、ゼファーは礼を述べた。
ともあれ、こうして、ミーシャス・ジーネ・イチノセは追われることとなったのである。
***
(王太子か……)
ひと目で豪奢と分かる自室にて、ミンヘルは剣を見つめていた。すべてが高級な拵えの中で、この剣だけが一見して粗末である。
このごろ心に迷いがある時、ミンヘルは剣身を見つめて、自分を省みることが多い。
今も、ミンヘルは、剣身に映る自分の瞳を見つめていた。
ゼファーが宮宰となり、ゼノミオが騎士伯となって、位人臣を極めたのだとすれば、ミンヘルもまた、大きな地位の向上を得ていた。
数日前までは、保護という名目で閉じ込められていた囚人に過ぎなかった。しかし、今やミンヘルは、アイヴィゴース騎士団が戴く『若き王太子』である。
(確かに余は、自由の身になり、王太子となったが、この地位は一時的なもの。自らの頭上に王冠を戴かなければ、蜃気楼のように地位も生命も失われるだろう)
今、ミンヘルの地位を保証してくれている存在は、アイヴィゴース家とその騎士団しか無い。
王都の『領主連合派』は、当然、これを良しとせず、討伐のための軍を差し向けるだろう。
(余が生き残るには、王都の騎士団に勝ち、自らが王にならなければならない、か…)
ミンヘルが持つ剣身が揺れた。
震えているのだ。
沸きあがる恐怖が、ミンヘルの手を震えさせていた。
ミンヘルは初めて、自らの意志で、覇道を歩もうとしている。そして、それはもう後戻りの出来ない道であった。
そのミンヘルの決心すらも、ゼファーによって仕組まれたことであるのだが、ミンヘルもゼノミオもそれに気づいてはいない。
(…飛竜は、余を襲わなかった。あれほど近づきながら、飛竜は王家の血にひれ伏した。…神は、余に『トロウグリフの王たれ』と望んでいる)
刃のさえざえとした輝きを眺めている内に、いつの間にか、恐怖が収まっていく。
(イチノセは、死んでも悔いがないように生きろといった。ならば、余は、力が欲しい! 武力、権力……言いなりにならずに済む力が!)
この剣は、イチノセによって託されたものである。元は従卒の剣でしかなかったそれが、いつの間にかミンヘルにとって、大きな心の支えとなっていた。
控えめなノックの音が聞こえた。
訪ったのは、あらたに宮宰となったゼファー・エンデッドリッチであった。王太子として宮廷を開いたミンヘルの許で、ゼファーは権力基盤を作り上げつつある。
「ミンヘル王太子殿下。忠誠を誓いたいという諸侯たちが集まっております。そろそろ、ご準備をお願いいたしますわ」
「わかった。……ゼファー殿、頼んでおいたイチノセの捜索はどうなっている?」
女中に手伝わせて礼装を身につけながら、ミンヘルは質問した。
「すでに手は打っております。信頼できる追跡者に後を追わせておりますわ」




