3.5話『good vibrations』
「暇だー」
プラチナ・ブロンドの少女は、天井を見上げながら、つぶやいた。
ログハウスの狭苦しい一室に閉じ込められて、気持ちが落ち込んでいる。
せめて、この部屋なりとも歩きまわりたいが、足を怪我しているため、それもかなわない。
恨めしそうに、自分の足を見つめた。足には包帯が巻かれ、煎じた薬草で作られた湿布が、独特の芳香を放っている。
イレーネは、意外にも甲斐甲斐しく、少女を看病してくれた。行くあてのない自分を拾ってくれたし、現在進行形で命の恩人をしてくれている。
とても嬉しいし、有り難いのだが、かといって、暇な現状が変わるわけでもない。
魔女は人里離れた山奥に、一人で住んでいた。
当然の帰結として、生きていくための食料を自分で生産しなければならない。
泉まで日々の生活用水を汲みに行き、鶏に餌をやり、トマトやジャガイモ、タマネギ、カブ、豆類、さらには魔法植物を育てる。
ここでは生産できない塩や、牛乳などは、近くの村へ行って、魔法薬と交換するのだという。
かといって、大変すぎることはないらしい。イレーネは錬金術士でもあって、色々便利な魔法具も使っている。総じて、気楽なスローライフであるようだった。
いずれにせよ、午前中は、そのような仕事にかかりきりになるので、少女についてやれないのである。
ゆえに、昼食を食べるまでは、イチノセは暇を持て余していた。
先日、イレーネに読み物でも、持ってきてほしいと頼んだのだが、
「本なんて、高価なものを、どこの馬の骨とも分からない人に貸せるわけ無いでしょうに」
とすげなく、断られてしまった。
この世界では、印刷技術がまだ発達していないらしく、すべて手で書き写す写本が基本であるとのことだ。
つまり、それだけ手間がかかり、本も高価になるのだろう。
イチノセは、精神を昂らせて魔力を生み出し、指先に集めた。
指が魔術の光で輝いている。
イレーネに魔術について学んだのだった。それ以来、暇があれば、魔力の操作や、魔法陣を構築している。
というか、午前中は暇で、《念動》の魔術を練習するくらいしか、やることがない。
***
魔女イレーネが、魔術を教えてくれたのは、ごく初めの頃である。
彼女は、教え子のイチノセを前にして、最初にこう総括した。
「魔術は、マナを励起して、魔力を導き、魔法陣を描く。基本はこの三段階ね」
イチノセは、イレーネに渡された書字板でメモをとっている。
書字板とは、表面に蝋が塗ってある黒板のことである。それを尖筆で引っ掻いて、文字を書くのだ。蝋板とも呼ばれる。
この時代の紙はパルプ紙ではあるのだが、それなりに高価であるため、このような物品が普及しているのだ。
「マナとは、空気中にある目に見えない埃のようなもの。 これが精神の昂ぶりに感応することで、マナが励起して、魔力が宿るわ…。すなわち、魔力とは、精神の力。 精神を強く持つ者ほど、魔力も強いのよ」
そして、イレーネは諳んじてみせる。
「『この天地に遍くただよう魔素よ…。強く深き望みもて、秘中の業をもたらさん』…古謡の一節にはこうあるわ…。そして、これは魔力を生み出す『呪文』にもなっているの」
「魔法を使うのに、『呪文』が必要なのですか? イレーネさんは、使ってないみたいですけど…」
「必要なのは、あくまで『心を震わせる』ことなの。ただ、必要なときに、心を震わせることは意外と難しいのよ。だから、大抵の人は精神を昂らせるために、『儀式』を行っているわ」
魔女は、指を三本立てた。
「たとえば、さっき言った『呪文』。それに『歌』を吟じる場合もあるわ。『儀式』と言っても魔術的な意味は無いの。ともかく、マナを励起できる精神状態に切り替えることができれば、それでいい」
魔女は『呪文』、『歌』と、指を折っていき、最後の一本になった。
「ただし、魔術師で世の中を渡っていくつもりなら、『印』を結ぶことを『儀式』にしたほうがいいわ。声を出さなくてもいいし、すぐに出来る」
そういうとイレーネは、片手で印を結び、マナを励起させた。その魔力を片腕に纏わりつかせて、少女の方に差し出した。
「触ってみて。マナが励起すると、ある種の振動を感じるわ」
少女は、腕に触った。 バッハ 無伴奏チェロ組曲を聞いたときのような、重厚な心の震えを感じる。
「これがマナの励起……」
「ただ、ひとつ言えることがあるわ。恐怖によっては、マナは励起しないということ。逃げる気持ちではなく、求める気持ち、すなわち勇気が、マナを震えさせるの」
魔力振動を消して、イレーネは続ける。
「心を震わせるほどの勇気……それがマナを震わせ、魔力を生み出すことになるわ。魔術を使う大前提が、マナを励起させることよ。あなたが魔力に触れて、感じたこと。それがとっかかりになるわ…」
イチノセは、両手の指先を合わせた。
心を震わすこと。
バッハの音楽の感動…。
イチノセにとって、心を震わすのは、いつも音楽だった。
Foo Fighters が、頭の中に流れる。心が震え、マナが震え、魔力が高まった。
「すごい…。始めてで、これほどの魔力振動……!」
イレーネは驚嘆した声を上げた。
少女は、達成感に満たされて、笑った。灰色の目が、喜びに輝いている。
「それじゃあ、次を教えてもらえますか?」
魔女イレーネは、このとき以来、魔術を熱心に教えてくれるようになったのだった。
***
イチノセが、暇にあかせて、うつらうつらとしていると、魔女イレーネが、扉をノックしてきた。
昼食を持ってきてくれたらしい。
農作業などは、主に午前中に済ませ、昼食を食べてからは、魔法の使い方や、この世界のいろんなことを話してくれる。
イチノセにとって、それは新鮮な楽しみであった。
「…それで、本当のことを話してくれる気になったかしら?」
魔女が冗談交じりに言う。イレーネは、異世界(あの世)からの転生を、ヨタ話だと思っている。
「ええまぁ…」
イチノセも苦笑することで、ごまかすしかない。
少なくとも、イチノセの主観では真実であるのだが、イレーネが信じられないのも無理はないだろう。
この日、イレーネの持ってきた食事は、トマトとチーズのお粥だった。
荒く挽いた小麦粉のお粥にして、煮詰めたトマトペーストと、熱でとろけたチーズがのっかっている。溶けたチーズの匂いが食欲をそそる。
マッシュドポテトに豆類を混ぜたものと、ベーコンエッグもついてきた。
以前、イレーネに料理が趣味なのかと聞いたことがあった。だが、この質問は奇妙であったらしい。
この時代、料理はよほどの上流家庭でない限り、自分で作るものである。
料理は趣味ではなく、日々の生活そのものであったのだ。とはいえ、料理は好きであるとのことだ。
おいしく料理を平らげたところで、イレーネは「それじゃあ、魔術の使い方について、続きをしましょうか?」と言った。
***
「じゃあ、魔法陣を構築して見せて」
「はい」
イチノセは、両手の指先を合わせ、心を昂ぶらせて、集中する。そして、魔力を集めて、空中に光の軌跡を描いた。
その後、少女は、魔力の操作や、魔法陣についても教えてもらっている。
魔法陣は、一種のプログラム言語に近い。魔法円のなかに、魔術文字を書き込むことで、望む事象を引き起こすことができるのだ。
イチノセは、《念動》の魔法陣を描いて、木の皿を浮かべた。
これも、木の皿に、重力と同じだけの力を反対にかけて、それを見えない魔力の棒で動かしているのである。
《念動》と一言で言っても、その魔術文字や魔導線を変えることで、千差万別の挙動を起こすことができる。
この場合、魔法円に書いた魔術文字で、重力に反する力と、魔力の棒(より正確には、力の伝わり方)を生み出しており、その力が働くポイントを、魔力の操作でおこなっているのである。
この世界の魔術は、イメージひとつで、どうとでもなるような簡単なものではない。
だが、それだけに、工夫のしがいがある。
イチノセは、生来の凝り性を発揮して、教えてもらった魔術文字をどう使うか、研究に余念がなかった。
「……本当に覚えが早いわね。精神を昂ぶらせることでマナを励起し、集中することで魔力を操作し、事象を象形した魔術文字を論理的に配置することで魔法陣を構築する。
これが、魔術の基本にして奥義よ。ゆめゆめ忘れないようにね」
「はい、師匠」
「師匠はやめなさい。まだ、あなたを弟子にはしていないわ」
イレーネは嘆息した。このプラチナ・ブロンドの少女は、最初こそ、イレーネさんと呼んでいたが、今では師匠と呼ぶようになっている。
正直、もう、弟子を取るつもりは、イレーネにはなかった。
「それじゃあ、今日はもう少し実践的なことをやりましょうか」
「はい、ししょ…イレーネさん」
「まったく。…魔術を使うだけなら、今言った基本だけでいいわ。でも、実践で魔術師を名乗るには、他に気をつけておくべきことがあるの」
そこまで言って、イレーネはプラチナ・ブロンドの少女をじっと見据えた。
「そうね、イチノセ。 あなたは、何に気をつけるべきだと思う?」
イレーネがこう訊いたのは、この少女の知性を量りたいと思ったからだった。十代半ばの若さにもかかわらず、イチノセは、少女らしからぬ見識を示すことがある。
「……第一に、この魔術を描くときの光。この光は、闇夜では致命的に居場所を知らせてしまうことになるんじゃないでしょうか。隠れて行動するときにも、見つかると大変ですね」
「正解よ。魔術光というのだけれど、魔力を一箇所に集めると、光を発するようになるの。魔術師のローブの袖が長いのも、魔術光を隠すためよ。……他には?」
「第二は時間です。心を昂らせてマナを励起するのにも、魔法陣を描くのにも、時間がかかります。練習次第で早くなると思いますけど…それでも、接近戦では、致命的でしょうね」
「それも正しいわ。強力な魔術ほど、魔力が必要になるし、複雑な魔術ほど魔術文字も多く書き込まなければならない。一方で、戦士は一瞬で剣を振りきれる。
魔術は魔術文字の組み合わせで、幾通りもの事象を引き起こすことができるけれど、『万能』が、常に『最善』ではないことを覚えておいて」
「なるほど……」
「…それで、他には?」
「他ですか…? うーん」
イチノセは、しばらく悩んだが、降参した。
「魔術に頼りすぎて、体を動かさなくなるとか?」
「そんなに魔術を使ったら、魔力が枯渇して倒れるわよ。……つまり、『魔力疲れ』も、気をつけないといけないの。最初に言ったように、魔力は精神の昂ぶりによって、高められる。でも、精神をずっと張り詰めたままではいられないでしょう?
走り続ければ、いつかは息が切れるのと同じように、心も使い続けると疲れてしまう。恐ろしいのは、人間は肉体の疲れは感知しやすいけど、精神の疲れは感知しにくいものなの」
「精神が疲れてくると、どうなるんですか?」
「魔術が使えなくなるのはもちろんだけど、最悪の場合、錯乱するか、気絶するわ」
「うへぇ。怖いですね」
「そうよ。怖いの。肉体と同じに、精神を鍛えることはできるけど、それでも万が一があるわ。だから、魔術師はつねに、精神に余裕を持っていなければならないのよ」
一気に説明して乾いた喉を、木の杯に注いだ乳清で癒やしながら、イレーネは少女を眺めた。
イチノセはメモをとって、時には書字板を睨んで考えこみ、さらに書き付けている。
(ちょっとおかしな所があるけれど、悪い子じゃないのよね。それに優秀だわ。ただメモするだけではなく、自分のものにするために、ちゃんと考えている)
イレーネは、波打つミルクティー色の髪を掻きあげた。夏の暑さが、長い髪にこもるのだ。
(…足もまだ治ってないみたいだし、少しだけ、譲歩しましょうか)
「そういえば、イチノセ。あなた、午前中退屈だから、本を読みたいと言ってたわね」
「あ、はい」
「これを貸してあげるわ」
そういって、魔女は、一冊の本を手渡してきた。革で装丁された高価そうな本だった。中の紙には、羊皮紙ではなく、パルプ紙が使われている。中世ヨーロッパの世界のようで、所々違う。
イチノセはタイトルを見て、血の気が引いた。
「これは魔術説話集『つぎはぎの海図』よ。ただのお伽話だけど…魔術学的にも、わりと勉強になるわ」
「あ、えと…。すごく嬉しんですけど…」
「あ、もう読んだことがあった?」
「いえ、その…」
イチノセは逡巡したが、思い切って言った。
「私、文字、読めないみたいです…」
「あなた、さっきまで書字板に文字書いてたじゃないの!」
「これは、異世界の文字で……もしかしたら、読めないのかなーとは思ってたんですけど、実際、タイトルみても分からなくて…」
ハハハと少女は、乾いた笑いを漏らす。
イレーネは呆れた。
「あなた、本当に何者なのよ…」
ともあれ、このときから、イレーネの授業に文字の読み書きが加わることになったのだった。
・魔術文字
…ひとつの文字が、ひとつの概念を表している。漢字と同じような表意文字。
このシジルを魔法円の中に書き入れることで、どのような魔術が発現するかが決まる。
例えば、《浮遊する炎のクォーラル》の魔術は、《浮遊》+《炎》+《矢》の魔術文字を繋ぐことで生み出される。