27話『城館にて』・上
アゲネは、城館の露台に、立ち尽くしていた。
その目線の先には、港がある。
炎に焼かれ、煙がもうもうと湧き上がっている。
調べるまでもなく、船が焼かれていることがわかった。
港の船が焼かれたことは、3つことを意味する。
すなわち、補給を受ける当てをなくしたこと。軍勢を連れて脱出できなくなったこと。もはやゼノミオに完全に包囲されてしまったことであった。
分からぬことといえば、パースシーの生死くらいであろうか。
(いや、パースシーは、もはや生きてはおるまい。 これほどの火計を受けたのにもかかわらず、報告がないということは、そういうことだ…!)
「進退窮まった」と、アゲネは感じざるを得ない。
魔術師ゼファーに、ゼノミオの暗殺を依頼したが、その結果も分からぬ。
どうすればよいのか。
「どうしたら、宜しいでしょうか」
声をかけたのは、家宰ミゲイラだ。港から出る煙を見て、顔を青ざめさせている。無責任な言葉に、一瞬、怒気を吹き上げそうになったが、どうにかこらえた。
「今は退がれ。ミゲイラ」
強い口調で、アゲネは命じた。
(まだだ。まだ、何か策はあるはずだ)
自らの鼓動をうるさく感じながら、アゲネは考え込んだ。
***
港近くの空き家にて、ゼファーは身を休めていた。
傍らには、血を流した中年の男女の姿がある。ゼファーは、家族を惨殺して、そこを『空き家』にしたのだった。
ゼファーは、窓のそばに腰掛け、烟る港の向こう、水平線を透かし見ている。
先の港の戦いで、想定外の魔力を使ってしまっていた。
魔力は、意志の力によって生み出される。
言い換えれば、何かを成し遂げようとする意志、困難を乗り越えようとする意志がなくなれば、魔力もなくなってしまう。
ゼファーは困難な戦いを経て、魔力を失った状態、すなわち精神力が摩耗した状態にあった。
言ってみれば、やるべき事は分かっているに、やる気になれない状態である。
ゼファーは、腰の革ベルトに取り付けた鞄から、魔法薬『魔力の源』の薬瓶を取り出し、嚥下した。
奇妙に甘ったるく、それでいて青臭い。
この魔法薬は精神力を回復させる効果を持つが、効果を発揮するまでに、四半刻ほどの時間を必要とする。
効果を発揮するまでは、休んでいるつもりであった。
窓の先を眺めると、煙の向こうの海は日光を反射して煌めいている。
(……うん? あれは…?)
ふと、水平線の近くに、光を反射しない影があるのを、ゼファーは見つけた。
しかも、だんだんと、その範囲が広く、大きくなっているように見える。
しばらく見つめて、ゼファーは驚嘆した。
影は、船影だったのだ。
(…ゼノミオの海軍! 早い! いえ、魔力の枯渇で、意識が飛んでいたの?)
ゼファーが、一人でフンボルトに潜入したのは、アゲネを殺すという密かな目的のためである。
アゲネを殺さねば、奴の口から、ゼファーと手を組んでいたことを暴露されてしまうだろう。
そうなれば、ゼノミオに加担し、軍事力を手中に収める計略が、すべて水の泡になってしまう。
(ゼノミオが攻めてくる前に、アゲネを殺さねばならないというのに!)
顔をしかめつつも、ゼファーは立ち上がった。
あと数時間もすれば、ゼノミオの海軍はフンボルトに着岸するだろう。それまでに、城館に潜入し、アゲネを殺さねばならなかった。
***
同時刻、ゼノミオは、甲板に立ち、彼方に見えるフンボルトを眺めていた。
そこに声をかけていた者が居る。
「そろそろ、フンボルトに到着しますね、騎士団長殿」
「そろそろとは、具体的にどのくらいの時間ですか? ノンリィ・ヌアルドヴ卿」
「さよう…櫂を使えば、二時間ほどです」
ゼノミオは頷いた。
「では、櫂を使うとしよう」
日頃の癖で、ゼノミオは、部下に対するかのような言葉遣いをしてしまった。やや忸怩を感じて、咳払いをする。
そして、取ってつけたような礼を述べた。
「このたびは、軍船を用意して頂き、感謝の至りです。 ノンリィ卿が、協力してくれなければ、この戦術は取れなかったでしょう」
ノンリィ卿はオンスラート・ヌアルドヴ副団長の実兄である。病弱と聞いていたが、見た目にはさほど、そのような印象は受けない。
強いて言えば、肉付きが少し薄く、眉毛も薄いところが、病弱と見えなくもない。
「なんの、なんの。愚弟が、世話になっているのです。この程度の協力は、義務というものでありましょう」
ノンリィ子爵は、明るく笑ってみせた。言外に、弟の重用を頼んでいるのだろう。
ゼノミオにも否やはない。アーリンが死んだ今、その後釜にオンスラート・ヌアルドヴをつけても良いと思っている。
ヌアルドヴ家の協力は、それだけの功績があった。
ヌアルドヴ副団長が、協力してくれたからこそ、一万余の軍を城壁に貼り付けることで陽動しつつ、海軍での奇襲が可能となったのである。
軍船もヌアルドヴ家の提供によるものだ。
「ノンリィ卿。港に入港して、兵士たちを全て降ろしたら、停泊せずに、沖へと戻ってもらえますか?」
「それは、造作も無いことですが…どうしてです? 我らの櫂漕ぎ達は、兵士としても、なかなかのものですぞ?」
「一つには、背水の陣を敷くため。また、一つには、退路の安全を確保するためです」
「敵が船に火矢を射掛けると、お考えですか?」
「アゲネなら、やりかねません」
(ふむ…)
ノンリィ・ヌアルドヴは、意外な思いでゼノミオの顔をみやった。実の父であるアゲネに対する怒りや苦悶が、まるで感じられない。
淡々と事実を指摘している様子だ。
(父を倒そうというのだ、多少の苦悶はあると思ったが)
やや奇妙に感じつつも、ノンリィ卿は、ゼノミオ騎士団長の提案を受け入れた。
「そういうことならば、要請通り、事が終わるまで、沖合で停泊するとしましょう」
「感謝致します。海から奇襲をかけると言っても、こちらは三千。兵数で言えば、劣勢ともいえますので」
ノンリィ卿は一礼すると、配下に櫂を入れるように命令する。
ゼノミオは再び、フンボルトを遠望した。
三千の兵士のうち、過半は騎士である。それを一塊として、一気に城館へ攻め込み、アゲネを討ち取る。
それが最も被害を少なく、時間をかけずして勝てる方法であろう。
ゼノミオは、もはや父を殺すことに、何の感慨もなかった。
ゼファーに臣従の誓いを立ててから、驚くほどに心は静まっている。
自分を一振りの剣とし、悪を滅する。ただ、それだけに専心することに、安らぎすらも感じていた。
・背水の陣
…あえて逃げ道をふさぐことで、味方の兵士を死地に置き、死に物狂いで戦わせる戦法のこと。
作中においては、軍船を沖合に出すことで、味方から退路を取り上げて奮戦を要求した。
なお、軍船はいわゆる櫂船であり、櫂をこぐ船員は、いざという時、水兵として戦いに参加するのが普通である。
今回、ゼノミオが沖合に船を置いたのは、背水の陣を作るためと同時に、アゲネからの奇襲を警戒したからであった。