26話『フンボルト港での戦い』・下
(あれが死霊術…)
レイミアは身震いした。レイミアも冒険者であるから、人の死に耐性はある。
だが、一度死んだ人間が、虚ろな目をして蘇ることの恐怖は、その比ではなかった。
(に、逃げないと…)
自失から立ち直り、レイミアは急いで船室を出る。そして、外の光景に愕然とした。
火が、炎が、燃え盛っている。
船という船が、凄まじい火勢で焼かれ、その役目を全うすること無く、崩れていく。
「貴様、なぜ生きている!」
指揮官らしき男が叫びが、レイミアの耳朶を打った。
その方角を見やれば、港の上では、不死者の軍勢が、生ある者に襲いかかっていた。
ともかくも、これは好機に違いない。レイミアは素早く、海に飛び込んだ。
その素早さが、レイミアの命を救った。
先ほどまでいた船が、轟音とともに燃え上がったのである。油に引火したのだろう。船は一気に炎に包まれた。
レイミアは見つからぬように、なるべく深く潜り、なるべく遠くに泳いでいった。
そして、しばらく進んで、彼女は後ろを振り返った。
フンボルトの海が、水の海から、炎の海に変じたようだった。熱波と瘴気が、ここまで伝わってくる。
まさに地獄とは、このようなものかもしれない。
レイミアは、そのように感じた。
水の冷たさばかりではない身震いをして、レイミアは、仲間のアマロが待つ沖合の漁船へと泳いでいった。
***
「貴様、なぜ生きている!」
騎士団副団長のパースシーは、叫んだ。
彼は城門で指揮を取っていたからわかる。この女は、無謀にも一人で城門を通ろうとして、今朝、射殺された人間ではないか。
その女が、いつの間にか蘇り、そして、死者の軍勢を率いて、今、パースシーの前に立ちはだかっている。
「なんとか言ったらどうだ!」
誰にも怯んだことのないパースシーが、初めて、敵に飲まれていた。
かつての仲間が、奇妙な唸り声をあげて襲ってくるのだ。
中には、ともに酒を酌み交わした部下もいる。
おぞましい死霊術は、まず、パースシーの肉体よりも、精神に痛恨を与えていた。
「……」
黒髪の女は、答えない。しかし、凄惨な笑みを浮かべた。例えるならば、獲物を食い殺そうとしている猛禽の笑み。
言葉を発すること無く、死者の軍勢を率い、軍船を焼く女。
歴戦の騎士といえども、言いようのない恐怖を、抱え込まざるをえない。
ましてや、こちらが攻撃しても、死者はいささかの痛痒も感じぬ様子なのだ。
パースシーが剣を一閃し、敵の首を刎ね飛ばす。
だというのに、敵は、首のないまま、すぐに起き上がり、またも剣を振りかぶってくる。
「クソ!」
パースシーは悪態をついた。
よく見れば、死者が動ける時間に限りがあることや、死者の太刀筋が優れたものではないことに気づけただろう。
また知識があれば、これが教会から禁止された死霊術であることも、知り得たであろう。
だが、パースシーは気づけなかった。
死霊術師は、巧みに死者の軍勢を動かし、パースシーの手勢を半包囲している。
港湾に詰めていた兵士までも、手元に集めたのが仇となった。
次々と増えていく死者の軍勢に対し、生者の側は防戦一方である。
いつの間にか、突破しようにもできぬほど、包囲の厚みは増していた。
「くそ! 畜生! こんな、訳がわからないまま死ぬのかよ! あと少しで騎士団長にもなれるってのに……」
それが、パースシーの辞世の言葉となった。
最後まで、抵抗したが、剣を当ててもすぐに、死者は起き上がってくる。包囲は狭められ、四人の死者に、同時に四カ所を突き刺され、剣と命を、パースシーは取り落とした。
「最後まで、戦い続けるとは、ね…」
黒髪の死霊術師ゼファーは独りごちた。さも余裕そうに振舞っていたが、実際のところ、危うい場面も多かったのだ。
早朝、ゼファーは、城門の前にて目立つ行動を取ることで、人々の目を《幻影》に釘付けにし、その隙に、城壁を《飛翔の翼》で飛び越えた。
魔術の中には、光の伝わり方を変えるものもある。《鏡》の魔術。いうなれば、ゼファーは鏡を身にまとい、鏡に空を映して、上空を飛んだのである。
さすがに長い時間を、騙し通せるわけではなかったが、ほんの少しの時間、城壁を飛び越える時間さえあれば、十分だった。
後は、時機を見計らって軍船を焼き、狼煙とするはずだったのだが、そこにいるはずもない闖入者がいたのである。
『赤毛の狩人』レイミアであった。
彼女が大げさに火を放ったせいで、人を呼び寄せてしまったのだと、ゼファーは考えた。
実際は、アゲネは彼女に関係なく、軍船を焼く計略を見抜いていたのだが。
と同時に、ゼファーは、この赤毛の闖入者が何者か知りたくなった。ゼノミオ側の人間なら、自分が知らないはずはない。アゲネ側のはずはない。
では誰か。
ここで、ゼファーは、自分の悪癖を発揮してしまう。
ゼファーは学者肌であり、疑問に思ったことに、一応の解答を得ないと気が済まないのである。
本来ならば、見えないところから、炎で軍船を焼き、幾人かの兵士を殺してしまえば事は済んだのだ。だというのに、赤毛の闖入者に興味を持ってしまったために、とっておきの《死者の隷属》という死霊術を使うことになってしまった。
パースシーが愚直にも、逃げなかったから良かったものの、逃げ出して自分が死霊術師だと暴露されては、ことが面倒になるところだったのだ。
(私の、こういう知的好奇心は、気をつけなければならないわ……好奇心は猫をも殺すというしね……)
魔術師ゼファーが、ゼノミオに提案した仕事は、これで終わりである。
だが、単独行動を取ったゼファーには、もう一つ、別の目的があった。
(私と通じていた人間…アゲネと、家宰のミゲイラ…この二人だけは、自分で殺さなければ……)
背後には、船が煙を上げて燃え盛っている。もう幾らもしないうちに、他部署の兵士たちが集まってくるだろう。
一つ頷くと、ゼファーは、その場を立ち去った。後には、倒れ伏した死人しかいなかった。
***
港の炎と煙は、多くの人間に影響を及ぼした。
一人は、フンボルトの現城主にして、騎士伯のアゲネだった。
もう一人は、アゲネを打倒せんとするゼノミオであった。
そして、最後の一人は、ゼノミオの末弟であり、アゲネの末息子、ジーフリクである。
「お、おい…何だあの煙は? フンボルトの方角からでているぞ?」
「なにか、あったのかもしれませんね…」
従騎士テオは、冷静さを装いきれなかった。途中から声が上擦っている。
「ジーフリク殿。これ以上、時を浪費すべきではないでしょう。今すぐにフンボルトに急行すべきかと」
付き従っていた騎士が、沈着そのものの声で言った。
「そうだな…なんにせよ、私の身の置所は、あそこだろう」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
ジーフリクは頷いたが、従騎士テオが慌てて制止する。
「あれだけの煙です。火事じゃなくて、あれは戦争です! 戦場にのこのこ、四騎だけで向かうなんて、無謀すぎますよ!」
「ああ…そうかもな」
そう言いながらも、ジーフリクは騎馬の速度を緩めようとはしない。
「何も戦場に突っ込もうなんて、考えちゃいない。だが、親父殿が危難に直面しているのを知って、見て見ぬふりをするのは……そう、『心の真実』に反する行いだからな」
ほんの少しの笑いを含ませて、ジーフリクは言った。
「そんな!」
「テオ・ヴリルワーズ殿。ジーフリク様は、騎士の勤めを果たそうとされているのです。お止めしてはなりませぬぞ」
「ほう」
ジーフリクが関心したように、傍らの騎士を見た。
「初めて、私と意見があったな、プリレオン殿。この旅の間、やることなす事反対してきた貴公とは思われぬ」
「ジーフリク様が、遊興にばかり関心を示すが故でござる。別に反対したくて、反対したわけではござらん」
実直な騎士も、さすがに眉をしかめて抗議する。
一週間ほどの旅程だったはずが、三週間もの道草を食ったのだ。プリレオンならずとも、苦言を申し立てたくなるだろう。
ジーフリクは、ひとしきり笑った。
「ということだ、我が従騎士テオよ。我ら三騎は、フンボルトに急ぐ。だが、テオ卿がいやだというなら、ついて来ずとも良いぞ?」
「ぐ……ついていきます! ついていきますよ!」
慌てて、テオは後を追った。
このとき、日は中天にかかろうとしている。