26話『フンボルト港での戦い』・上
「むー。しっぱいしたなー。これじゃ袋のネズミだねー」
そう独りごちたのは、『赤毛の狩人』レイミアである。
彼女の任務は、軍船に火をかけて、敵兵をここに貼り付けにすることであった。
消火のために、兵はここに集まらざるをえない。その間隙を縫って、イチノセを救出するというのが、イチノセの師匠イレーネの作戦であった。
実際、半ばまでは、予定通りうまく出来ていた。油樽に布を突っ込んで火をつけ、すでに4隻ほどは、燃えている。
油樽を用意出来たのは、8隻の軍船だから、予定の半分は達成したことになる。
「それにしても、これほど早くやってくるなんて……騎士って、働き者だなぁ」
自分の生死に係る状況でありながら、レイミアはどことなく、のんびりと見える。余裕からではない。のん気を装うことで、平常心を維持しているのだ。
ここに至っては一気に突破して、海の中に逃げ、息の続く限り泳いで、沖にいくしかない。
沖には、漁民に借りた漁船が停泊している。
あそこまで逃げきれれば、金属鎧を着込んだ騎士たちは、追ってこれまい。
それに、漁船は小さい分、小回りがきく。万が一、船を出して追ってくるにしても、逃げきれるだろう。
すなわち、ここでやるべきことは、敵中を突破して、海に逃げこむこと。その一事のみである。
為すべきことが決まったゆえに、じたばたしても、どうしようもないとレイミアは覚悟を決めた。
「よーし」
息を整え、不要な装備をすぐに捨てられるようにし、機会を見計らう。
精神を一本の針のように、鋭くしていく。
そこで、奇妙な事が起きた。
明らかに戦闘音がするのである。爆発の音。喊声。金属が打ち合う音。
(まさか…、『霧の魔女』イレーネさまが助けに来てくれたとか?)
イレーネは、城館の近くで機会を伺っているはずである。
フンボルトのおおよそ中心に位置する居館からは、東にある港の煙が見えても、自分が窮地に陥っているとは分からないはずだ。
どういうことかと訝しむ前に、レイミアの鋭敏な感覚は、船室のすぐ外に誰かがいる気配を感じ取った。
腰を落として、自ら『牙』と呼ぶ、鋭い涙滴状の礫を構える。
船室の扉が開かれた。
「ちっ」
現れた人影の顔を目掛けて、レイミアは『牙』を投げつけた。
人間は、顔に一撃を喰らえば衝撃を受けるし、とっさに、かばう本能がある。
その隙に、横を通り抜けて、逃げるつもりであった。
十分な威力をこめて、投擲された礫は、しかし、見えない壁にあたったように弾かれた。
否、本当に、壁があったのだ。魔術の壁が。
《不壊の障壁》という魔術があることをレイミアは知っていた。物理攻撃を弾く結界を展開する魔術だ。
高位の魔術師でなければ、使えない上に、その高位魔術師でさえ、長くは保ち続けられないという難度の高い魔術であったはずだ。
それこそ、『霧の魔女』さまでなければ、できないほどの魔術である。
「あら、ご挨拶ね。確かに招待されたわけじゃないけど、石を投げるなんて、あんまりじゃないの?」
「……何者なの?」
無意味な質問をしてしまった。見覚えのない魔術師。ならば、敵でしかない。
「私を知らないのね?」
場違いにも、黒髪の魔術師は、楽しげに笑った。
「やっぱり、あなたはゼノミオの手の者じゃないのね。この戦いは、父子の、アゲネとゼノミオの骨肉の争い。他の勢力が、しゃしゃり出てくるものじゃないわ」
そういって黒髪の魔術師は、一歩、足を運んだ。レイミアは、それに応じるように、一歩後ずさる。
(時間稼ぎをしないと…)
レイミアは冷や汗を背中に感じながら、そう考えた。
《不壊の障壁》は、魔力を大量に消費する。長い間、展開していられないはずで、時間を稼げば魔術は消え去るだろう。
その時こそ、自ら『牙』と呼ぶ礫を投げて逃げ去る好機だろう。
「私は、敵じゃない…。…ただ、友達を助けたいだけ……」
「友達ねぇ。船に火を掛けることが、友達を救う役に立つとでもいうの?」
優雅に、黒髪の魔術師が笑った。唐突に、レイミアは、それが嘲弄だと気づいた。
レイミアの頭に血が上る。
「ここに、あいつらを呼び寄せている間に、もう一人が囚われている友達を救うつもりだった」
黒髪の魔術師は、首を傾げた。
「そう…。アゲネのいる城館に、誰かが囚われているのね?」
「どうして、それを…」
「ふふふ…。私には、人には見えないものが見えるのよ。…と、残念ながら、お喋りの時間は終わりのようね」
《貫く火炎のクォーレル》
火炎が尾を引いて伸び、扉を開けたばかりの兵士の頭を焼いた。
そして、連続して、炎が発射され、船室の狭い出口に殺到していく。兵士は、中に入ることが出来ない。
「共同戦線を張りましょう。赤毛の方。私が、魔術を完成させるまで、時間を稼いでくださる?」
レイミアには、他に選択肢がなかった。
油断できない人間だが、ともかくも、逃げ出す機会を見つけなければ。
レイミアの視界の端で、黒髪の魔術師が、頭の焼け焦げた死体を引っ張っている。何をする気なのかと訝しむが、そのような場合ではない。
弓に持ち替えて、引き絞る。
一瞬の判断で、弦を離す。矢は敵の顎の下を貫いた。血を吐いて、兵士が倒れこむ。だが、一人だけで済むはずがない。
すぐに、後続の兵士がなだれ込んできた。
「くそぅー」
レイミアが、剣を鞘から抜き放つ。レイミアは剣もそこそこ使えるが、どうにか兵士一人と渡り合えるほどの腕前でしか無い。
黒髪の魔術師と共同戦線を張っているが、今のところ、その利点は何もない。
この稼業を選んだ時から、死は覚悟をしていた。
(けど…それでも、死にたくはないなぁ)
レイミアの纏う空気が、静かに変わる。
兵士たちは、その本能によって、レイミアが死兵と化したのを知った。死兵、すなわち死を覚悟した兵士は、何をするかわからない。多勢といえども、思わぬ逆襲を受ける可能性がある。
かといって、引き下がりはしない。兵士たちは、じわりと距離を詰めてきた。
レイミアは、ふと、兵士の数が増えていることに気づいた。6人から8人に増えている。
「袋の鼠も、中に入ってきた猫には、噛み付くというところかしら」
柔らかな声が聞こえた。黒髪の魔術師だ。
「何を言ってるの! 魔術はどうしたの!?」
レイミアは、ほとんど悲鳴のように叫んだ。
こんな得体のしれない、信用できるはずもない人に、一縷の望みをかけてしまうなんて。
「もう、済んでいるわ」
そう魔術師が言ったと同時に、二人の兵士が倒れた。
別の兵士に斬り殺されたのだ。
「仲間割れ…?」
「違うわ。彼らは、死んで私の下僕になったの」
見れば、兵士の一人は頭が焼け焦げ、もう一人は喉元から血を流している。
「死霊術!?」
「そう。彼らに呪縛をかけたわ。ほら。二人から四人になったわよ」
斬りつけられた兵士が、むくりと起き上がる。表情が抜け落ち、虚ろな目をしている。
「う、うぅ…」
うめき声をあげて、以前の仲間へと剣を振りかぶる。
それでも、パースシーの兵士たちは、一度は踏みとどまった。
しかし、さらに一人が斬られ、四人から五人に不死者が増えると、もはや、とどまろうとするものは誰も居なかった。
「うぅ…わあぁぁぁ」
数の上でも劣勢となった兵士たちは、悲鳴を上げ潰走した。
不死者の兵士たちも、また、彼らを追って船室を飛び出していく。黒髪の魔術師も、不死の兵士たちの後を追って、船室を出て行った。
……レイミアは、ただ一人、船室に取り残された。
・死霊術
…屍体や霊魂に関わる魔術全般を指す。『死』を扱うため、人々から忌避され、教会からは異端視される。
それゆえ、私塾や大学で学ぶことは出来ず、学者ですら、確かなことは何も語れない。
古代の教書を見つけるか、密かに生き残っているとされる死霊術師より教えを受ける以外に学ぶことは出来ないだろう。