21話『囚われの君』・上
フンボルトは、『魔女の庵』から、東北におよそ二、三日ほどの旅程でつくことが出来る。《飛翔の翼》を利用すれば、さらに短く数刻ほどでつく。
その『魔女の庵』の近くに、赤毛をゆるく麻布で巻いた人間がいる。
『赤毛の狩人』レイミアであった。彼女は、岩塩窟の兵として雇われているが、岩塩窟にいることはまず無い。
哨戒任務と称して、森を回っている。
彼女にとっては街や村より、森を散策している方が気楽なのだ。木々を巡り、狩りをし、薬草や堅果を採集する。それが『赤毛の狩人』の日常であった。
「どしたー、ルーシェン」
レイミアが間延びした声で、自らの相棒である耳長狼を呼ぶ。耳長狼のルーシェンは、彼方を見据え、警戒した声で吠えていた。
何かに気づいたようだ。
「んー」
レイミアは長い手でするりと木に登ると、購入したばかりの遠眼鏡を目に当てた。港湾都市フンボルトの方角だ。
「煙が上ってるねぇー。あそこは、港湾都市フンボルトかー。さすがに遠眼鏡だとよく見えるね」
そうひとりごちて、レイミアは木から音もなく降り立つと、耳長狼の首もとを撫でてやった。
「よーしよし。よく見つけたねぇ、ルーシェン」
耳長狼が気持ちよさそうに眼を細める。その首元に、レイミアは事情を書き付けた紙を結びつけた。
「ルーシェンは一足先に、『霧の魔女』さまにご報告して。私はひとっ走りして、もう少し様子を見てくるよ」
ルーシェンはお安い御用とばかりに一声吠えて、さっそうと駆け出していった。
***
耳長狼のルーシェンが、岩塩窟の執務室の扉を前足で器用に開けると、ヘスメン卿と『霧の魔女』イレーネは、互いに渋い顔をして向かい合っていた。
「人質のカードをここで切れば、これ以上の戦争を食い止めることが出来るでしょうに」
「しかし、当家とウェークトン家は、さほど親交がありません。 そのために重要な人質を使うというのは、どうも……」
ヘスメン卿は、渋った。
「アイヴィゴースの騎士団が、ここ岩塩窟を狙うのは、それを教会への取引材料として、より大きな獲物、つまり港湾都市フンボルトを狙うためなのです!
だからこそ、大元であるフンボルトへの侵攻を食い止めることができれば……ひゃぅ!」
岩塩窟を統括するヘスメン卿に向かって、イレーネは変な声を出してしまった。こちらに気付かないことに業を煮やしたルーシェンが、イレーネの手を嘗めたのである。
「あ、あら、ルーシェン…。なにか見つけたのね」
イレーネは誤魔化すように、そそくさと首元に括りつけた紙片を解いて、文章に目を走らせた。
そこには、『フンボルトにて戦あり。煙が上がっている。不確かながら、アイヴィゴース騎士団の軍旗が、すでに掲げられているかも知れず』と汚い字で書き付けてある。
「ヘスメン卿、どうやら、すでに戦闘が始まったようですね」
イレーネはそう言って、紙片をヘスメン卿に渡した。
「これによると、アイヴィゴース騎士団がすでに占領を終えた可能性も示唆されてますな。もし、そうなら、こちらにも軍勢が差し向けられている可能性が……」
紙片を凝視しながら、ヘスメンが言いさした時である。
カンカンカンと甲高く気に障る鐘の音が、あたりに響いた。岩塩窟の物見櫓の警鐘が打ち鳴らされたのだ。
「可能性が、現実化したようですわね…」
イレーネが、言葉を引き継いだ。
***
イレーネ・シャーリリオは、軍事顧問のような立場にいる。
俸禄を得ているわけではないが、岩塩窟の事実上の軍師だといえよう。
それに加えて、イレーネは数少ない達人魔術師の称号を持っている。達人魔術師を名乗るための条件の一つは、大規模魔術を行使できることだ。
つまり、イレーネは軍師としても、また戦力としても重要視される立場にいた。
そのイレーネ・シャーリリオは、軍勢を発見したという物見櫓にて、軍旗を確認していた。間違いなく、アイヴィゴース騎士団の軍旗である。
振り返って見渡せば、戦闘教練を入念に行った甲斐あって、雇った冒険者たちが、所定の位置についている。
空堀、土塁、柵、拒馬が張り巡らされ、防備はイレーネの見たところ、万全といって良い。
かき集めの冒険者を入れて、総兵数はおよそ二百人。戦闘教練を受け持つリェンホー殿のおかげで、士気も高い。
物見櫓から確認した兵数は、千人ほどであるが、最初の一撃くらいは簡単に耐えきれるだろう。
「まずは堅固であることを見せて、その上で、人質のジーフリクがいることを示す。そうなれば、攻め手は止まらざるを得ず、あとは外交の問題となる」
イレーネは、かつて弟子にそう語ったことがある。
これは統括者である城代騎士ヘスメンも承知するところであった。
騎士団は、矢の届く寸前の場所で止まった。予想以上の防備に驚いたらしい。一気に進軍すること無く、様子を見る構えである。
(斥候に見つかる前に来たということは、野営陣地すら築かずに、進軍を急いだということ。こちらの戦力を侮って、一気に襲撃、略奪するつもりできたんでしょうね……。けれど、その当てが外れた、というところね)
そうであれば、これは、血を流さずに事を収める良い機会かも知れぬ。
(少なくとも、こちらにはジーフリクという人質がいる。それを示せば、無血かつ有利に講和を結べるはず……)
イレーネがそう考えていると、騎士団を前に、岩塩窟の統括者ヘスメン卿が名乗りを上げた。
「私は、ヘスメン・サルザーリテ! この岩塩窟の兵を取りまとめる城代騎士である!アイヴィゴース騎士団よ、いかなる謂あって、この地を侵すのか!」
鈍く輝く甲冑の群から、一人の騎士が前に出た。
ミスリルの兜の面頬を開いて、口髭を生やした壮年の男が、声を張り上げる。
「聞け! アイヴィゴース騎士団が千人兵長ヤゴン・リクスブイである! 乱れた世を直す第一歩として、この地を併合せよとの、我が君アゲネ・アイヴィゴースによる達示である。我らに従えば、無用な血は流さぬと約束しよう! 返答は如何に!」
「愚かな! この地に住まう者の誰も、お前たちの支配など望んでおらぬ! この地は、古来よりサルザーリテ家のもの。頼まれもせずに、しゃしゃり出てくるお節介は、疎まれ、叩き出されるのが落ちだぞ!」
歓声が岩塩窟の冒険者から湧き上がった。よくぞ言ってやったということであろう。
アイヴィゴース騎士団からも、地鳴りのような鬨の声が響く。
戦いの幕が、切って落とされた。
千を越す軍勢が濁流となって、攻めこんでくる。
岩塩窟の冒険者や守兵達は、土塁に身を寄せて攻撃を躱し、柵の隙間から魔術を放つ。弓兵が弦を鳴らして、矢を撃ちこむ。
アイヴィゴースの兵卒達が大挙して、唯一、柵に囲まれていない門に取り付いた。しかし、それは罠であった。
《投擲する雷霆のラプチャー》
イレーネの励起したマナが、雷撃の舌となって、辺りの人間を舐め尽くす。この大規模魔術によって、一度に十数人の兵士たちが地に倒れた。
間髪入れずに、魔術教練を施した冒険者たちから、魔術の矢が発射される。
千余りの軍勢であるが、岩塩窟周辺は天険の地であり、騎馬での行進には向かない。100人ほどの騎士のほかは、すべて歩兵であった。
そして、歩兵には、対魔術装備であるミスリルを装備しているものは少ない。鋼の鎧を着ている兵士でさえ少なく、多くは革鎧である。
魔術を防ぎようもなかった。
炎の矢によって、体が焼かれる。直撃せずとも、熱せられた空気が喉と肺を焼く。バタバタと、兵士たちが死んでいった。
むろん、敵からも矢の応酬がある。飛来した矢に直撃した冒険者が、次々と倒れこむ。
魔術によって現出した炎の矢が、柵を焼く。
だが全体として、戦闘は岩塩窟の優勢であった。激烈な戦闘の後、結局、騎士団側は有効な攻め手を得られぬまま、波が引くように撤退した。
遅まきながら、野戦陣地を築くのであろう。
「どういうことだ! あんな拠点に、あれほどの防備があるとは! 大規模魔術まで使える奴がいるとは聞いていないぞ!」
ヤゴンはわめき散らした。
簡単な戦いと思えば、この有り様である。
そもそも、守兵は五十人足らずであるはずだったのだ。だからこそ、千の大軍をもって一蹴するつもりであったのに。
分隊を任された誉れも、失敗すれば大恥となるであろう。
「おそらく、どこから情報が漏れたのではありますまいか」
そう答えたものがいる。
魔術師のフェリアンである。騎士団付きの従軍魔術師として、長年働いてきた男だった。
「土塁が築かれ、あれほどの数の兵士が雇われていたとなれば、情報が早い段階で漏れていたとしか考えられませぬ」
「では、どうするというのだ!」
投げやりに、ヤゴンは吐き捨てた。
(それを考えるのが指揮する者の役目であろうに……)と、従軍魔術師は不満気に考えたが、騎士に口答えはできぬ。
素早く頭を回転させて、ひとつの策を具申した。
「戦いにおいて必勝の策とは、背後を突くこと。背後に回り挟撃すれば、たやすく勝利を得ることが叶いましょう」
「と言っても、岩塩窟は絶壁に寄り添っている。とても背後に回れるものではないぞ」
「そこは、それ。我が魔術の冴えを披露いたしましょうぞ」
「……詳しく聞こう」
その日、騎士ヤゴンと魔術師フェリアンは、長い間話し込んだ。
***
一方、岩塩窟の冒険者達は、ヘスメン卿の演説を聞いていた。
もともと冒険者達は、大規模な山賊に対する備えとして雇われたのである。騎士団と戦うことへの説明はどうしても必要であった。
壇上にあるヘスメン卿を見つめる冒険者に、動揺の色は少ない。
リェンホーなど、主だったものに事情を話していたこともあるが、冒険者たちも、薄々勘づいていたからである。いかに、大規模な山賊が狙っているとしても、この人数が過大なのは、明らかであった。
「……故に! 悪逆非道なる騎士団との戦いにて、手柄立てし勇者には、誉れとともに、片手で掴み取れるだけのミスリル貨を与えん!」
ヘスメン卿が、戦功による報奨金を確約することで、冒険者たちは歓声を上げ、演説は終わった。
「ヘスメン卿、お時間をいただけますか」
壇上から降りてくる城代騎士ヘスメンに、イレーネは話しかけた。
今こそ、人質のジーフリクを活用すべき時である。そのことを促そうとしたのだが、ヘスメンは、奇妙に後ろめたい表情をしたのだった。
***
「なんですって!」
ヘスメン卿の執務室で、イレーネは大声を上げた。
人質であるジーフリクが、領都コモーポリに移送されたというのである。
「なぜ、ジーフリクを拘留したままにしなかったのです。今こそ、人質を使うべき時なのに!」
「今日、攻めてくるとわかっていれば、そうした。だが、領都コモーポリに人質を移送するようにと、領主に言われては、臣下として従わざるを得ぬ」
「……それでフンボルトに対して、人質を使うということに反対されたのですね。人質を移送したということを、私に悟られぬように」
ヘスメンは、直接には答えなかった。
「……あくまで、人質のジーフリクを使いたいということであれば、領主と直接話し合うがよかろう。そも我が一存で、たやすく決められるようなことではないのだ」
(嘘だ)
イレーネは、そう断じた。冒険者の大量雇用、糧食の確保、金貨200枚もの謝礼金などを、ヘスメン卿は、領主と相談せずに一存で決めていた。
それだけの権限と信頼が、この城代騎士に与えられていたということである。
「……ジーフリクの存在を証明するような、物品は残していないのですか」
「それも、全部、持って行かれたよ」
言葉に悔しさがにじむのに、イレーネは気づいた。
(……『葡萄が酸っぱい』ことへの悔しさかしら? 確かに、人質が移送された直後に襲われるなんて、いい面の皮だわ。けど、アイヴィゴース家にとって、あまりにも時宜が良すぎる。最初から、ジーフリクが移送か解放されると同時に、『岩塩窟』を攻めるつもりだったんだわ)
なんにせよ、この辺が頃合いだろう。イレーネは決断した。
溜息を吐き出しつつ、言う。
「此度の戦いは、協力させていただきますわ」
「……その後は、協力せぬと?」
「私は、サルザーリテ家の禄を食んではいませんもの。 善意の協力者として、行動するのみです」




