17話『戦争の足音』・下
ラヴェルヌは、家に戻ってすぐに、空気が異なることを敏感に悟った。
軍勢が迫っているというのに、どうやら、それとは別の揉め事らしい。
「私は、師匠が好きです。でも、『愛される』資格はないんです」
このイチノセが発した一言で、娼婦は推移を見守ることにした。この件については、自分も関わりのないことではない。
「イチノセ……」
「師匠が、イレーネさんが、私を気にかけてくれるのが分かります。何の義理もないのに、私の傷を治療してくれて、魔法を教えてくれている…。でも、私は、それが怖いんです」
「私は…あなたに、何もするつもりはないわよ」
イチノセは、首を振って言う。
「そうではなく。私は、信じ切れないんです」
イチノセの頭がズキズキと痛む。懐かしい感覚だった。
「私の両親は、ろくでもない人間でした。酒に酔い、暴力をふるい、子供を育てるということをしなかった……きっと、ソーシャルワーカーが見つけてくれなければ、私は死んでいたでしょう」
「……」
イレーネは自分の弟子が初めて、過去を話したことに気がついた。
あの世の知識については、よくしゃべっていたが、過去については話そうとしていなかったことに、今さらながら気がつく。
「その後、義理の両親に引き取られて、私は『愛』を受けることが出来ました。けれど、その時に気づいたんです。私には…、愛を信じる心が欠けていることを」
「……」
「両親は、実子が生まれた後も、養子の私を邪険に扱うこと無く、大事にしてくれました……。それは私には恐ろしいことだったんです」
「……どうして?」
イレーネは、弟子の表情を見た。本当に思いつめている顔だった。
「だって、もう私には、利用価値が無かったんですよ! 老後の面倒を見たり、家を守るために、私を育てていたんだと思っていたのに。そうではなかった! 両親が言ったんです。私を愛しているからこそ、育てているのだと!」
イチノセは、大きく息を吐きだした。
「どうして、私が怖かったか、分かりますか? 私は『愛されたかった』。けれど、それ以上に『愛を失う』ことが怖かったんです。もし、打算があれば、その間は、愛を失うことがないから…」
少女は、両手で顔を覆ってしまっていた。
「イチノセ…」
「自分の精神構造が歪んでいるって、わかるんです。『愛情』があるのは、分かります。でも、信じ切れないんです! なにか保証がないと、消えてしまいそうで……」
イレーネは口を開いたが、出すべき言葉を見つけられなかった。
感情が渦巻いて、うまく言葉に出来ない。
「……」
代わりに、弟子のそばに座り、抱き寄せた。そして、やさしく背中をさすった。自身でも分からない何かが、イレーネをそうさせた。
***
どれだけ、そうしていただろうか。
ラヴェルヌが、不意に声をかけた。
「まずは、お食事にしませんか? 色々話す事はあるでしょうけれど、お腹が満たされていた方が、良い知恵も浮かびましょう。それに、迫っているアイヴィゴース家の軍勢についても、相談する必要がありましょうに」
いつのまにか、食卓には、料理が並べられていた。
エビや白身魚が散りばめられたパエリアに、ルリチシャのサラダ。作りたてのマッシュドポテト、果汁で割ったワインに、シナモンとバターで味付けした洋梨のデザートまでついてきた。
「ご飯…」
この世界に来て、初めての米料理だった。
日本人だからだろうか。温かいご飯を食べると、それだけで心が癒やされていく。
インディカ米ではあったが、イチノセは日本を思い出した。
作りたてのマッシュドポテトは、ふわふわで温かく、ルリチシャの花を使ったサラダは、見た目にも美しい。
さわやかなワインで喉を濡らし、甘い洋梨のデザートまで食べてしまうと、やっと人心地ついた気分になった。
甘いものは、心が慰められる気がする。
「ごちそうさまでした」
イチノセは礼を言った。最初は、無理に料理を口に運んでいたのだが、いつの間にか夢中で食べていたのだ。
「美味しかったですか?」
ラヴェルヌが、鈴の音のような声で訊いてきた。
「ええ、とても。美味しかったです。特にパエリアで、故郷を思い出しました」
「まぁ。それは…」
ラヴェルヌは、顔をほころばせた。
「偶然ですけれど、故郷の料理を、お出しできたのでしたら、なによりでしたわ」
パエリアは日本料理とは言い難いのだが、ラヴェルヌの心尽くしを無碍には出来ない。改めて感謝を述べる。
ラヴェルヌは、ふわりと微笑んで、話し始めた。
「私は、愛を売る仕事をしておりますけれど、どうしてなのかイチノセ様は分かりますか?」
「え? えーと…。お金の入りがいいから?」
「人を、愛することが好きなんです。私の”言葉”や”料理”や”音楽”や、もちろん”体”で、誰かが幸せになってくれるのが嬉しいのです。『愛』とは、誰かを幸せにしたいと願うこと。そして、『愛する』とは、私の力で、誰かを幸せにすること。誰かを幸せにできれば、私も幸せですから」
もちろん、お金の入りが良いのもありますけどと言って、ラヴェルヌは笑った。
「それは…」
愛される資格云々を受けた話なのは、イチノセにも分かった。
だが、押し付けがましくしたくないのだろう。それ以上、ラヴェルヌは話を続けようとはしない。
(私は…誰かを幸せにしたいと、願ったことがあっただろうか…?)
思い起こせば……育ててくれた両親には、感謝していたし、『恩返し』もした。だが、親を幸せにしたいというよりは、「いい子」にして『愛されたい』という感情が強かったかもしれない。
(『愛する』……)
この時、イチノセには愛されたいという気持ちと、裏切られたくない気持ちの両方があった。
そして、そのどちらも選べずに、ふらりふらりと綱渡りをしていた。どこにもいけない、綱渡りを。
「そうですね…。覚えておきます」
イチノセは、そう言って、ラヴェルヌの話を打ち切った。心配そうな師匠の視線を感じるのも、辛かった。
この告白をしたことが正しかっただろうか。正しいにしても、別のタイミングがあったのではないか。
(詮ない、か…)
頭を小さく振って、話題を転じる。
「…それで、アイヴィゴース家には、どう対処しますか?」
「…そうね」
ぎこちなく、そう尋ねたのに対して、師匠もどことなく、表情の欠けた声で返事をした。
とはいえ、アイヴィゴースの軍勢が、もうすぐ城門に迫ろうというのだ。
今のうちに、対策を練っておかなければならない。
そして、イレーネとイチノセは、こういう話題であれば、驚くほど話が噛み合うのであった。
「まずは、情報収集ね。本当に、アイヴィゴース騎士団が攻めてきているのか、兵数はどれくらいか、ジーフリクという切り札を、どう切るか」
アイヴィゴースが攻めてくる可能性はすでに考えていた。ただ、ここフンボルトだとしても、今このときだとは思わなかったのだが。それ以外は想定内である。
「まずは、城壁を挟んでの睨み合いになると思うわ。フンボルトの兵数は、諸々(もろもろ)含めて、2500といったところよ。
対するアイヴィゴース騎士団が1万の兵を連れてきたとしても、攻城兵器の作成や港の封鎖をしなければならないから、一朝一夕で城壁が破れるということはないはずだわ」
「ジーフリクがこちらの手にあることを示せば……」
「悪くはないけれど、嘘と断じられたら、どうしようもないわ。騎士団の面子もあるしね。実際にジーフリクを見せられなければ、騎士団は止まらないでしょうね」
「とすると、ジーフリクというカードを、いつ切れるか、そして、痛み分けの形にうまくもっていけるか、ということになりましょうか」
娼婦が言った。
イチノセが頷く。
「ラヴェルヌさんの言葉は、正しいと思います。戦いが膠着して、厭戦気分が高まった時に、ジーフリクを持ち出して、講和を持ちかけるのがいいでしょう」
「そうね。何にせよ、岩塩窟のヘスメン卿にも、了解を取る必要があるでしょうけれど。心配なのはむしろ、あなたよ。ラヴェルヌ」
イレーネは、娼婦ラヴェルヌに視線を向けた。
「私…でしょうか?」
「嫌なことを言うようだけれど、戦時になれば、治安は悪くなるわ。そして、そういう時に、まっさきに被害に合うのは…」
「われわれ娼婦たち、なのですね」
ラヴェルヌは寂しげに言葉を継いだ。
「愚かなことだけれど、人は悪を為すにしても、自分の中で言い訳を作るわ。 『春を売る女』だから、略奪しても構わないはずだって」
「前の世界でも、そうでした。たとえ相手に、何か問題があろうとなかろうと、自分の行為が正当化されるわけでもないのですが」
イチノセが実感を込めて頷くと、イレーネ師匠から、思いもよらない言葉を聞かされた。
「ええ。そこでイチノセには、私が岩塩窟に赴く間、娼婦たちの家々を守ってほしいの」
「私が?」
イチノセは、狼狽えた。
「あなたが適任なのよ。あなたは娼婦だからと、色眼鏡で見ることはないわ。
常に、自分の流儀で物事を見、考え、行動するのは、あなたの利点よ。
そういう人でなければ、安心してここを任せられないもの」
「でも、私は……」
「自分が己を一番知っていると思うのは、うぬぼれよ。 それに、他に人が居ないわ」
実は、まったく人が居ないわけではない。娼婦たちが金を出し合って、護衛の女性冒険者を雇っているが、それをここで言う必要はなかった。
ラヴェルヌが、付け加えた。
「私からも、お願いいたしますわ。イチノセさま。他に頼る人が居ませんの」
「…わかり、ました」
イチノセは、ようやく、それだけを言った。