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10話『天下無双の槌使い』

 やにわに、魔女は忙しくなった。

 ここ数年の時間を貯めていた堰堤ダムが決壊し、一気に流れ出たようだった。


 イレーネ・シャーリリオと、その弟子イチノセは、未だ『岩塩窟』に滞在している。

 そればかりではない。

 城代騎士ヘスメン・サルザーリテの要請を受けて、イレーネは、『岩塩窟』の防備を一手に引き受けていた。


 アイヴィゴース家が、ここ『岩塩窟』を狙っているという情報を、ヘスメン卿は、全面的に信じたのである。

 その背景には、イレーネの達人魔術師としての実力、冒険者としての声望、シャーリリオ男爵家の威光、そして、イレーネ自身の交渉の上手さが挙げられる。


 イレーネは、狼狽するヘスメンに向かって、こう述べたのである。


「今や、王都は”領主連合派”が幅を利かせているのは、周知の通り。王家に仲裁を求められる状況ではございません。

 さらには、塩の販売は、教会が専らにするところ。教会もまた、岩塩窟を領するサルザーリテ家を、援護しないでしょう」


 サルザーリテ家が孤立無援の状況であることを、イレーネは晒してみせたのである。

 ヘスメン卿も、それは承知していたのだろう。顔を青くした。だが、それでも、抗弁を試みようとする。


「だ、だからといって、アイヴィゴース家が攻めてくるとは……」


「……アイヴィゴース家の次男、フォルケルは教会騎士です。

 むしろ、当主アゲネは、フォルケルのために、岩塩窟を教会に寄進するつもりではないでしょうか」

「……」

「もちろん、根拠となるのは、我が弟子イチノセの証言だけです。信じようと、信じまいと、そちらの自由ですが……。

 もし、仕事にありつきたいだけの山師だと、疑っておいでならば。

 我々は、無償で協力してもいいと、お伝えしておきましょう。むろん、このまま、帰っても結構です。お金には困っておりませんので」


 イレーネは、城代騎士ヘスメンをじっと見つめた。

 理や利を量れない頑迷な人間もいるが、城代騎士ヘスメンは、ちゃんと計算のできる人間だと、イレーネは見ている。


 果たして、しばしの沈黙の後、ヘスメンは長い息を吐き出した。


「ただし」

 ヘスメンが口を開こうとした機先を制して、イレーネは追い打ちをかける。


「勝つためには、200人の冒険者や傭兵の雇用。岩塩堀りを動員しての岩塩窟の要塞化。そして、冒険者ギルドへの調査依頼。この三つは最低限、必要です。その旨、約束していただきたく存じます」


 城代騎士ヘスメン・サルザーリテは、いったんイレーネたちを下がらせたが、さほど時間を置かずに呼び戻し、防備に協力してくれるよう、頼み込んだのであった。


 イレーネは、半ば望んだ形で、岩塩窟の軍事顧問となったのである。


 ***


 その日、イレーネは岩塩堀りたちを動員して、築城を指揮していた。

 傍らには、弟子であるイチノセが、侍従のように従っている。これは、イレーネが求めたささやかな特権であった。


 イレーネは、岩塩窟の周囲に、土塁をめぐらし、その上に防柵を立てることで、高い防壁を実現させていた。

 その外側には、拒馬を張り巡らせている。

 拒馬とは、障害物の一種で、木の杭を組み合わせたものだ。先端は焼いて固く尖らせてある。

 これで敵兵は、防柵に取りつくことさえ困難になるだろう。


 ここまでは、すでに完成しつつあったが、イレーネの構想では、さらに、その外側に、空堀を作るつもりだ。

 空堀の底には、やはり先端を尖らせた木の杭を埋め込み、容易には近づけないようにする。

 さらに落とし穴を掘ることや、また、ほとんどの者に秘密の、ある土木工事も考えていた。


 岩塩掘りたちは、もともと土木作業は得意である。さしたる混乱もなく、熱心に働いていた。

 彼らが熱心に働くのには、ちょっとした仕掛けがある。

 岩塩堀りを少人数ごとにチームに分け、築城をそれぞれに競わせたのだった。そして、優秀な成績を収めたチームには、一日の休みと、酒場での食べ飲み放題を、約束したのである。


 イチノセは、師匠イレーネの手腕を、感嘆の思いで見守っていた。

 ヘスメン卿に約束を取り付けた交渉術に、人を使う上手さも、自分の師匠は持っている。

 もともと、イチノセは、社会科学全般についての興味と知識があった。ただ、足りないのは、知識と実践の間に架ける経験という名の橋であったのだが、師匠イレーネのそばにいることで、イチノセは、その橋を急速に建設しつつある。


 そのイレーネは、築城指揮が一段落すると、傍らのプラチナ・ブロンドの弟子に、今回の基本戦略を、語って聞かせていた。

 この弟子は戦略を理解できるし、意外だが、的外れではない意見を、しばしば話したりもするのだ。


「今回、これほどの防備を固めたのは、もちろん、攻撃を足止めするために必要だったからだけど、もう一つ、示威効果をねらったものなの」

「そもそも、相手に戦おうという気持ちを起こさせない…ということですか?」


「ええ。戦いは起きなければ、それに越したことはないでしょ。

 敵方のアイヴィゴース家は、国に5つしか無い騎士団の一つを擁しているの。正面から戦っても勝てないわ。

 難攻不落であると印象づけて、もし攻め込んできたとしても、相手に被害を与えて、『割にあわない』と思わせることが基本よ」


 イチノセは頷いたが、思案気な表情を崩さなかった。そして、やや唐突に、こんなことを言った。


「その発想は正しいように見えて、間違っています」


 あからさま過ぎる言い方だった。

 思考に溺れるあまり、斟酌しない物言いをしたことに、はっとして、イレーネを見る。

 だが、師匠は、気分を害した様子はなく、むしろ、先を続けるように促してくる。

 密かに、胸をなでおろして、イチノセは考えを披瀝ひれきした。


「ギリシアとペルシアの戦い……と言っても、異世界の話なのでわからないでしょうけど…。

 これは、巨象とアリの戦いです。巨象が、アリを踏み潰せなかったとしても、それは単に運が悪かったとしか捉えられません。

 たとえ、巨象の皮膚がアリにたかられようと、さほどの痛痒つうようは感じませんし、行動を変える必要性も感じないでしょう?」


「まぁ、一理あると思うわ。でも、これしか無いんじゃないかしら?」

「今回の軍師的な役回りから言えば、防御を固める以外の策はないと思います。ただ、私が、サルザーリテ家の立場であれば、もう少し方法はあると思いますよ」

「うん……? なるほど、『暗殺』ね?」

「そうです」


 イチノセは、にっこりと笑った。

 イレーネは最近気づいたのだが、この弟子は話題が剣呑になると、偽悪的に微笑むくせがある。


「巨象の行動を変えることが出来るのは、巨象の脳みそだけです。

 ギリシアのテミストクレスは勝ちましたが、結局ペルシャを止められませんでした。ペルシャが止まったのは、ペルシャ王クセルクセスが暗殺されたからです」


 イチノセは自分の思考の軌跡をたどるようにして述べたのだが、これが異世界の歴史であることに気づいて、言い直した。


「だから、この場合はアイヴィゴース家の上層部ですが、当主が死ねば、状況が変わる可能性は大きいでしょう。

 他にも、別の餌を用意してやるなどの方法や、巨象が意識を向けざるを得ないような敵をぶつける……なんてことも、考えられますけど、まぁ、机上の空論ですね」


 銀髪の少女は、腕を組みながら、もっともらしく言った。

 どうにも、その様子が可愛らしく映ってしまうのは、師匠の欲目だろうか。


「でも、そうね……外交や戦略上、そういう策があるのは理解できるけど、今回の場合、難しいわね」

「そうですね…師匠から聞く限りは」

「サルザーリテ家は、王家にも、教会にも頼れない。頼れそうな親類縁者もいない。孤立無援の状況で、取れるは、さほど多くない…残るは、やっぱり『暗殺』かしら」

「殺さなくても、重病になれば、もう戦争はしてられないでしょうし…あるいは、一手に取り仕切っている重臣を狙う方法も考えられますけど」

「問題は誰がやるか、そして、相手も暗殺を防ぐ用意をしていないはずはないということね」


 ふっと気がついたように、イレーネは空を仰いだ。


「やめやめ。所詮、私達は、サルザーリテ家のろくんでいるわけでもない、無償の、善意の協力者よ。一応、進言くらいはしておくけど、それ以上は、こだわりすぎよ」


 イレーネは、うんざりといった様子で、手を振った。


 権力者は、千人の部下を亡くすより、自分の身辺に危害が及ぶことを、恨みに思うものだ。

 暗殺を試みて失敗でもしたら、サルザーリテ家どころか、イレーネも、不倶戴天の仇敵とみなされるかもしれない。

 薄情なようだが、入り込みすぎて、アイヴィゴース家に恨まれでもしたら本末転倒である。

 ここには、イチノセを守るために来たのだから。


「それより、我が弟子は、冒険者たちとうまくやれているの?」


 気を取り直して、イレーネは弟子に問いかけた。イチノセは、この岩塩窟で冒険者と一緒に、魔術の教練を受けているのだ。


 もともと、イレーネが軍事顧問の職を求めたのは、自身の声望を高めることもさりながら、軍事力によって、イチノセを守るためである。


 イチノセは、『銀色の髪の乙女』としてアイヴィゴース家に追われている。

 イレーネは明言を避けているものの、イチノセは、逃げ出した当主アゲネの情婦であるようなのだ。

 防備の固めた岩塩窟に潜むことで、イチノセを拐おうとする輩は諦めるだろう。


 むろん、時間が経てば、冒険者や岩塩堀りになりすまして、イチノセを拐おうとする輩がでてくるかもしれない。

 そのために、イチノセを侍従として身辺においているのだし、サルザーリテ家の裏切り者対策と平行して、イチノセの誘拐対策を行っている。この二つは、ほぼ同じと言ってよく、労力が増えるわけでもない。



「うーん、一応、ちやほやしてくれますよ。私、美少女ですし」

「相変わらず、謙遜て言葉を知らないわね。イチノセは。 なに、男どもが寄ってくるの?」

「そうです。いや、普通に話しかけてくれるなら、いいんですけどね、おしりを触ってくるんですよね……」

「ふむ……それは一人?」

「とりあえず、髭面ひげづらのおっさん一人だけです。いっつも酒ばかり飲んでて、戦闘教練にも出てこないのに、男どもに人気だけはあるんですよね。

 それだけならともかく、近寄ってくる男どもも、うざくって。守ってやるから自分の女になれと言わんばかりで」


 イレーネは、両手を組んで、しばらく考え込んでいたが、良案が思いついたらしく、机を指で弾いた。


「そうね……じゃあ、こうしたら、どう?」


 ***


 『岩塩窟』は、その岩塩坑道の入り口を中心として、山崖にへばり付くように民家や商店などが並んでいる。その中心部に近い一角に、冒険者や岩塩掘りたちが、集まる酒場があった。

 とはいえ、岩塩掘りと冒険者たちが、一緒くたに酒場に詰めてしまう事のないように、両者の休憩時間はずらしてある。

 つまり、冒険者が教練や見回りをしている時刻に、岩塩彫りたちが酒場で憩い、一方で岩塩彫りたちが働いている間に、冒険者が憩うのである。

 場所がそれほど広くないということもあるが、無用ないさかいを抑えるためでもあった。


 しかし、件の髭面の男は、我関せずというように、岩塩彫りたちが騒ぐ中で、酒を飲んでいた。

 イチノセは、賃金も貰っていないし、冒険者として登録はされていないが、一応冒険者の側ということになっている。なので、この時間帯に、酒場に来たことはなかった。

 むろん、今回は、髭面の男に会いに来たのである。


 イチノセは、見目麗しい少女である。酒場に入ってきた時、岩塩彫りたちが、どよめいた。口笛を鳴らす者もいる。

 このあたり、イチノセがうんざりする所であるのだが、今、気にすることではない。まっすぐに、髭面の男に向かった。

 髭面の男は、中年の男であるらしい。らしいというのは、伸び放題の髭のせいで、年齢がよくわからないのである。背も高い方だが、鍛えてあるせいで横幅も広く、さほど背が高いという印象はなかった。


「おう、嬢ちゃん、こんな時間にどうした?」


 髭面の男の第一声が、これであった。


「私の名前はイチノセだ。お前の名前は?」


 言いながら、イチノセは髭面の男の真向かいの席へと座った。


「さぁ、どこにでもいる腕利きの傭兵だぜ。名前なんて、どうでもいいだろう?」

「人が名乗ったのに、お前は名乗らないのか? 冒険者としての仁義が泣くぞ」

「…リェンホーだ。それが、どうかしたかい?」


 少女は一つ頷いた。まぁ、順調だろう。実際、名乗りもしない人間ならば、『排除』するつもりでいたのだが。


「一つ、聞いておきたいことがあってね。 リェンホーは、ここでの仕事に、何か言いたいことが、あるんじゃないのか?」

「いんや、別に? というか、もっと別の用件じゃあねぇのかい」

「とりあえず、今のところは、これだけだ。リェンホーは、どうしてここにやってきたんだ?」

「そりゃあ、仕事を求めてよ」

「なのに、教練に参加していないし、見回りもしていないだろう?」

「ケッ! アホらしい。おりゃあな、腕っ節一本でやってきたんだ。

 今更ひよっこどもと一緒に、訓練なんざ出来るかい。だいたい、本当に山賊共が襲ってくるか怪しいもんだ。『霧の魔女』といやあ、冒険者の間じゃあ有名だったが、最近は名も聞いたことがねぇ」


 イチノセはニヤリと笑った。


「なんだ。てっきり、臆病風に吹かれたのかと思ったぞ。だから、こんなところでくだを巻いているんだとな」


 そう挑発してやると、髭面の男は、大口を開けて笑った。


「そんなわけあるか! 俺は『天下無双の槌使い』よ。たとえ、ミノタウロスとでも打ち勝ってみせらぁな」

「では、騎士ならばどうだ。たとえ、天下無双の傭兵でも、騎士には勝てないだろう?」

「へっ、騎士なんぞ鎧がなけりゃ、何にもできねぇ唐変木よ。俺の槌の尖ってる一方でやりゃあ、騎士の脳天を兜ごと、ぶちぬいてやれるぜ」


「本当か? 口だけでは何とでも言えるからな。 特に最近の奴らは口ばっかりだからな」

「ヘッ!」


 リェンホーは、髭面の顔をしかめて、つばを床下に吐き捨てた。そして、凄みを利かせて言った。


「俺はな、ああいう口ばかりでかくて、手の短い輩にはうんざりしてんだ。そんな連中と一緒にしやがると、か弱いお嬢ちゃんでも、容赦できねぇぞ」

「じゃあ、ここの岩塩彫りの皆に誓えるか? 騎士が襲ってこようと、逃げはしない、最後まで守り切れると」


 イチノセが言い終える前に、髭面の大男は、おもむろに立ち上がって叫んだ。


「いいか岩塩彫り共、よく聞け、俺は『天下無双の槌使い』リェンホーだ!

 この俺がいるからには、お前らに指一本触れさせねぇ! ミノタウロスだろうと、騎士の一ダースだろうと、俺が全部ぶち殺してやる!」


 突然の大声に、岩塩彫り達は、一瞬静かになった。


 そのときである。

「真の勇者だ!」と、大声が上がった。

 よく通る声の主は、誰あろう、岩塩窟の統括者ヘスメン・サルザーリテだった。

 岩塩彫り達の唖然とする顔の間を縫って、リェンホーの許へと、ヘスメンは向かう。

 そして、同じく唖然とするリェンホーに歩み寄り、手を取って言った。


「よくぞ、よくぞ、仰ってくださった! リェンホー殿。我は、どこかに勇者は居ないかと、我が目は遠方ばかりを、向いておりました。しかし、これほど間近にいた勇者に気付かぬとは、我が不明、恥じ入るばかり。

 さ、さ。こうして、勇者に出会えたからには、それにふさわしい役職を与えねばなりますまい。どうぞ、我が執務室へ、ご案内します」


 感極まったように、ヘスメンは長広舌を振るった。

 まくしたてられ、リェンホーは、事の急変に目を白黒させながら、ヘスメン卿に言われるまま、後をついていった。


 ***


 むろん、統括者ヘスメン・サルザーリテは、偶然に、そこに居合わせたわけではない。

 すべては、『霧の魔女』イレーネ・シャーリリオが、描いた『絵』であった。

 冒険者から人気のある髭面の男と聞いて、イレーネは、すぐに、その男が『天下無双の槌使い』リェンホーであることが、分かったのだ。


 イレーネが、弟子に語った所によると、リェンホーとは

「実力の確かな冒険者であり、傭兵。…なのだけれど、口は悪い、むさ苦しい、礼儀は知らないと、雇い主にはめっぽう評判が悪くてね。勤務態度も悪いものだから、今まで芽がでなかったの。

 でも、鷹揚だし、面倒見はいいし、強いし、で、冒険者連中には評判がいいのよ」

 と、そういう人物らしい。


 そこで、イレーネは、イチノセにリェンホーを挑発してもらい、皆の前で誓いを立てさせるように仕向けさせたのだ。

 その上で、ヘスメンを、さも居合わせたように演出し、リェンホーを戦闘教練長に取り立てさせたのである。


 リェンホーが酒場でくさっていたのは、自分より若かったり、実力のない人間に指図されるのが嫌だったからだ。

 その点、自分自身が戦闘教練長となれば、文句なく働くだろう。


 また、皆に向かって「騎士など怖くない、守る」と誓いを立てたことも大きい。

 公言した誓いを破ることは、面目を失うことになる。

 すなわち、リェンホーはアイヴィゴース騎士団と戦うことになっても、逃げ出すことはない。

 それどころか、初めて得た要職の地位と、誓いを守るために、まさしく一所懸命(・・・・)になって働くだろう。


 現在のところ、集めた冒険者達には、山賊に対する備えとしか言っておらず、アイヴィゴース家と争うことになるとは言っていない。

 現段階では証拠もないことゆえ、外交問題になりかねないからだが、それとは別に、冒険者たちが勝ち目がないと判断して、逃げ出すことを防止するためでもあった。


 人望あるリェンホーが戦闘教連長につけば、冒険者もよく従うであろうし、いざ、騎士団が襲いかかってきた時には、『天下無双の槌使い』リェンホーが、冒険者達をよく纏めあげてくれるだろう。


 ……それが、イレーネの描いた『絵』であった。


 また、戦闘教練長という役職も、言ってみれば、鬼教官をやれということだ。

 戦術や政略に関わることではないし、冒険者たちからのウケが良いのもプラスに働く。


「何より、忙しくなるから、酒場にいることは少なくなるじゃない」


 そう言って、イレーネは締めくくった。

 要するに、出会わなければセクハラの被害にあうことはない、ということである。


「根本的な解決になっていないんじゃ……」

 そう言って、イチノセは渋ったものだが、

「この手の問題に、根本的な解決なんて無理なものよ。 それにリェンホーに限って言えば、きっと解決するわ。みてなさい」

 とイレーネに言われては、頷くしか無かった。


 実際、後日のことであるが、リェンホーがイチノセを呼び止め、こう言ったのである。


「よう、嬢ちゃん、いや、お嬢。あんた、『霧の魔女』さまの弟子なんだってな。なんつーか、悪かったよ。あんなことして……」


 打って変わって、リェンホーは照れくさそうにしている。

 イチノセは、吹き出しそうになるのをこらえた。リェンホーにとって「お嬢」は、丁寧な言葉であるらしい。


「なんだ。『霧の魔女』の弟子だから謝るのか?」

「いや、そういうわけじゃねぇけどよ……。偶然とはいえ、お嬢と話しているときに、ヘスメン様にお引き立て頂いたんだ。

 となりゃあ、お嬢は俺にとっての幸運の女神様だろ、それなのに、悪い事しちまってなぁと思ってよ」


 イチノセは、たまらず吹き出してしまった。

 このむさくるしい男リェンホーは、あれが仕組まれたものだとは、露ほども疑っていないらしい。

 あげくに、私を『幸運の女神』というなんて!

 まさしく、笑うしかない状況というのは、あるものだと思う。


 イチノセが、こらえ切れずに笑っていると、気分を害したようにリェンホーが「笑うことねぇだろ」と抗議をしてきた。


「いや、すまない。 謝罪を受け入れるよ。 リェンホーは実力があるのに、認められなかったのは、きっと『幸運の女神』様を大事にしなかったせいじゃないかな」


 笑いを収めつつ言うと、リェンホーも我が意を得たりと頷いた。


「ああ、『霧の魔女』さまにも、そう言われたよ。だから、こうして謝っているんじゃねぇか……」


 なるほど。師匠の方でも、を打ってくれていたらしい。

 後日、この話を師匠イレーネにもしたところ、彼女も同じく、大いに笑ったものである。


 師匠が言うには、こうであった。

「自分を引き立てる契機になった人物には、丁重に接したくなるものよ。それが女性なら、なおさらかもね。…それにね」


 イレーネは少し真剣な表情になって続けた。


「人間というのは愚かで、悪いことをするものだけれど、一方で全くの愚者も、全くの悪人もいるものではないわ。

 だから、嫌なやつだと思ったとしても、そいつを、やっつけようとばかり考えるんじゃなくて、良いところを引き出して使ってあげるの。世の中ってのは、そうやって回っていくものなのよ」


 そういって、紅茶をすするのであった。

 イチノセとしては、感心する他ない。


「師匠は、人を使うのがうまいんですね」

「まぁね。これでも商家の娘ですもの。これくらいは、ね」


 さらに後日の話であるが、イチノセが、他の女性冒険者に聞いた所によると、リェンホーの言葉遣いや、むさ苦しい姿は変わらなかったものの、女性に対しては、めっぽう優しくなったという。


・ギリシアとペルシアの戦い

 …紀元前500-449年?に行われたペルシャとギリシアの都市国家群との戦い。

 実を言えば、攻め込んだ側のペルシアは、ほとんどの戦いで負けている。

 しかし、それでも半世紀もの間、ペルシアが戦争を継続してきたのは、ゾウとアリの戦いであったからである。

 ペルシアが戦争を止めたのは、クセルクセスが暗殺され、国内がゴタゴタしたためで、テミストクレスがサラミスの海戦で勝利を収めたためではない。

 ……というのが、イチノセによるペルシャ戦争の考察である。

 

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