▼33.だっておにいちゃんだから
――世界がどんなに優しくなくても、世界がどんなに狂っていても、それでも自分だけは優しさを忘れずに、自分だけは狂わずに、誰かを助けたいって、そう思えることは、多分きっと、間違って、ないはずだから。
早苗さんには謝った、と思う。
多分、楽しくやれたはずだ。嗣深のカラオケパーティーはそれなりに楽しく終わり、皆が笑って帰った。
そのはずだ。
気付いたら皆のいる部屋に戻っていた僕は、おぼろげながらも覚えていた、津軽さんによって見せられた自分の記憶のようなものの残滓に心揺さぶられながらも、それなりに上手くやっていただろう。
頭の中が茫洋としていて、なんだか世界が色あせて酷く現実感が無いせいで、どうにも自分の行動が他人事のようで、上手くはやれたかもしれないものの、なんだかあまり楽しめた覚えは無いのだけれど。
夕方まで盛り上がり、皆と別れて嗣深と一緒に家へと帰る電車に揺られながら、僕は流れていく外の景色をぼんやりと眺めて過ごす。
「ねえ……つぐにゃん」
「んー……?」
何かを楽しげに話していた嗣深に上の空で返事していたのがいけなかったのか、嗣深の声のトーンが少し低い。怒ったかな、と隣に座る嗣深に目をやると、哀しそうな顔でこっちを見ているのに気付いて、僕は慌てた。
「え、な、なに、どうしたの嗣深」
「ねえ……あの、ね? あの。つまらなかったら、言ってくれて、良いからね?」
「え……」
時折見せる、酷く心細そうな顔で、酷く哀しげな声で、嗣深が笑う。
その顔に、どこか色あせて現実感の無かった世界が一気に色を取り戻して、僕は胸を締め付けられた。
「そんなこと無いよ。楽しかったよ。大丈夫」
「そう……?」
「うん。本当本当」
「そっか……」
ホッと溜め息を吐く嗣深は、常の異常なテンションの高さをどこかに置いてきたかのように弱々しげで、いたたまれなくなる。
何をやっているのだろうか、僕は。
嗣深の哀しそうな顔を見て、ナニカに怯えるようにこちらを見て、哀しそうな顔をする嗣深の姿が思い出される。
ナニカがギョロギョロとした目でこちらを見て、僕の肉を咀嚼している姿。
酷く痛くて、気持ち悪くて、苦しくて、寒くて、眩暈がして、吐き気がする。そんな感覚がフラッシュバックする。
あぁ、人間というのは苦しい記憶やなんかを自己防衛のために忘れるって言うけれど、確かに必要な措置なのだな、と唐突に襲い掛かってきたこのなんともいえない感覚に吐きそうになるのをこらえて、そんなことを思う。
「つぐにゃん……?」
「大丈夫。大丈夫だよ」
それでも、あぁそれでも、嗣深は無事だったのだ。
それはとても幸いなことで、そして多分、あの時先に死んでしまっていたお父さんも、誰かが助けに来てくれるまで身代わりに食べられた僕をきっと褒めてくれるだろう。
断片的にしか思い出せない、津軽さんとのやりとりと自分の記憶のことは一度置いておこう。
死んだはずなのに生きていることとか、多分、死んだ時にゴッソリと何かが削げ落ちたような覚えがあるのとか、そんなことも今は置いておこう。
僕は多分、誰かを守れたのだということだけを喜ぼう。
あんな痛くて苦しい思いをするのは僕だけで充分だ。
なにせ僕はお兄ちゃんなのだから。今も昔も、僕は嗣深のお兄ちゃんなのだから。
例え誰もおぼえていなくても、例え誰も褒めてくれなくても。
「……つぐにゃん、もしかして、覚えてるの?」
「うん? 何をかな」
これからも何かが起きたとしても、身を挺してでもこの子だけでも守らないと、と誓う僕に、嗣深は震えながら僕に抱きついて、震える声で、呟いた。
「……つぐにゃんが、昨日死んじゃったこと」
あぁ、嗣深は覚えていたのか、と。
僕は少し泣きそうになりながら小さく頷いた。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るのさ」
僕のコートの胸元に顔を埋めて、謝罪する嗣深の頭を撫でる。
「本当はね、聴いてたの。恵理那ちゃんとつぐにゃんの会話……途中からだけど、殆ど聴いてたの……」
「そっか……」
夢の世界でも見ているような感覚だったので曖昧な記憶の断片しか残っていないけれど、会話になっていたのだと言うのなら、アレは全て錯覚で、催眠誘導でもされていただけだったのだろうか。
よく分からないけれど、なんにしても困ったなぁ、と笑う。
「わたしのせいだから。わたしがいるせいだから」
そんな僕に、嗣深が震える声で謝り続けた。
「何が嗣深のせいなの?」
「つぐにゃんが一杯痛い思いをして、酷い目にあってるの、全部、全部わたしのせいだから……」
「意味がわからないよ」
本当にこの子は何を言っているのか。ナニカに襲われたのは嗣深のせいなんかじゃないし、僕がここ最近酷い目に会ったのも、別に嗣深が原因ではない。どちらかと言ったら、誘拐の件以外は全部僕が巻き込んでしまったほうだろう。
そう言うと、嗣深はこちらに抱きつく力を強めて、コートに顔を埋めたまま首を振った。
「違うの……違うのつぐにゃん。わたし、わたし……」
「ゆっくりで良いよ。落ち着いて」
「わたし……《幸運簒奪者》だから……」
どうやら、嗣深は厨二病にかかってしまったようである。
じゃあ僕は《邪悪なる炎の使い手》とでも名乗れば良いのかな、と笑うと、嗣深は顔をあげて、くしゃくしゃになった泣き顔で、言う。
「わたしと居ると、死んじゃうの。皆、みんな死んじゃうの……!!」
だけど、一人ぼっちは寂しくて、嫌だから、そのせいで、皆、みんな、酷い目にあっちゃうの、と。
その顔は冗談を言っている顔ではなくて、多分、本当のことなんだろうと感じさせた。
ボロボロと涙を流しながら謝る嗣深の頭を撫でながら、僕は笑う。
だからどうしたの、と。
僕は全然辛くなんて無いから、と。
けれど、嗣深はそんな僕の言葉に顔をあげて、僕の顔を見つめて、言った。
「違うよ。つぐにゃんは辛いんだよ。痛いんだよ。悲しいんだよ。苦しいんだよ。一杯、一杯辛くて、だって、だって」
「大丈夫。大丈夫だから」
「そう言って大丈夫だよって困って笑う時って、つぐにゃん本当は辛い時だもん! 知ってるよ。わたし、わたし知ってるよ。つぐにゃん、自分が辛ければ辛いほど、誰かのためにがんばるんだもん。昔からそうだったもん。泣いてたもん! わたしに大丈夫って言ったのに、一人で泣いてたもん!」
――あぁ、本当にどうしようもなく、この子は僕の妹なのだ。
「嫌だよ、一人で抱え込まないでよ。嫌だよ、また一人になるのは嫌だよ。なのに、わたしのせいでつぐにゃんがどんどん辛くなって、ねえ、わたし、どうしたら良いの。わたしなんて居なければ良かったの? お母さんみたいに、つぐにゃんも死んじゃうの? 嫌だ。嫌だよ。もう嫌だよ……一緒にいたいだけなのに、そのためにここに来たのに、それなのに、なんで、どうしてつぐにゃんばっかり……」
後はもう、言葉にならない嗚咽をこぼすだけの嗣深の身体をそっと抱き寄せて、背中を優しく叩きながら、僕は本当に困ったなぁと笑う。
僕には正義のヒーローみたいに戦う力も無ければ、何か特筆した能力があるでもないし、チビだし頭は良くないし、運動神経も悪くは無くともよくも無いし、度胸も無ければ根性も無いけれど、だけれども。
困ったことに、この困った妹のお兄ちゃんなのである。
嗣深の持っているらしい過去に関してはまったくもって事情も経緯も、ついでに言えば僕の身の回りの現状すらいまいち理解すら出来ていないけれど、実に困ったことに僕という奴は、身の程も弁えずに、あんな物騒なナニカがいたりするというのに、嗣深の泣き顔と、思い出した記憶の断片と、あと多分、色々疲れが溜まったことによる自暴自棄な思考も相まって、全力でこのわけのわからない変な現状と、嗣深の悩みと、ついでにこのふぁっきんな世界も、もうまとめて全部、どうにかこうにかぶち壊してやろうではないかと、決意してしまった次第なのだ。
――さぁ皆々様方、僕の捨て身で投げやりで自暴自棄なドタバタ騒ぎをご覧あれ。
とりあえず、家に帰ったらこの困った妹が知っているらしい色々な事情を、全部吐かせてやろう、と僕は心に決めるのであった。




