▼?.また会いましょう。
雲はまばらで、月が半分に欠けた夜。とある街の路地裏で、一輪の紅い花が咲いていた。
元は白雪のように美しかった白百合のようなその花は、内より出でた多量の血液により、儚くも妖しく艶かしく、その肌を染め上げている。
「今なら血が飲み放題だわ」
その花は、美しい女性であった。
作り物ではないかと疑いたくなるほどに整った顔立ちに、透き通った白い肌。腰元まで伸びた白髪は艶やかであり、光の当たり具合によっては銀に見えることもあるだろう。
瞳は赤に近い茶であり、自嘲気味に笑うその口から覗くのは特徴的な八重歯だ。
もし彼女を月夜の晩に見ることがあれば、化生の類なのではないかと疑えるほどに、彼女は神秘的な女性であった。
そして事実、その化生の類であると思われたが故の今の彼女の惨状であるのは、皮肉とでも言うべきであったか。
白くはあっても、そこに儚げながらも生命の瑞々しさを感じさせていたその肌は、既に死人のそれに色は変わってきており、凝固することなく散った血液がそれを彩るかのように化粧を施している。そんな壁に寄りかかる彼女の足元には、明らかに致死量の血液が流れ出ていた。
「でも自分の血って美味しく無いのよね……困ったわ」
「こんな時でもそれなんだねぇ、君は……」
彼女の言葉に、その正面に立っていた黒髪の青年は肩を竦めて苦笑する。
いつものような軽いやりとりに、彼女は実に楽しそうに「それが私のアイデンティティーなのよ。何せ吸血鬼だもの」と笑った。
アルビノであり、吸血症候群でもあった彼女は、なるほどその絶世の美しさも相まって、伝説上の吸血鬼であると言われても納得できるだけの神秘性があったが、しかし青年はそれに首を振って否定する。
「こんな美人の君が鬼なら、世の中は悪鬼羅刹の集まりになるだろうよ」
「あら、珍しく褒めてくれるのね」
「本当のことを言ってるだけさね」
既に彼女の命が長くないことは明白でありながらも、互いにそれで悲壮な空気を作り出すことは無い。いつかはこうなるのだと、心のどこかではわかっていたからなのかもしれない。
「それじゃあ私は一体なんなのかしらね」
「そうだね……吸血する姫で、吸血姫?」
「なんだ。結局呼び方は変わらないのね。それにどこかで聴いたことのある呼称だわ」
「かもね。でも、字が違うだけで印象も違うでしょ?」
「意味合いは同じだけれどね。ふふ、でも気持ちは嬉しいわ。ありがと」
「どういたしまして」
既にかすれてしまっている彼女の声は、嘗ての鈴の鳴るような透き通る声音は無い。けれど、それでも青年にとってその声はとても大事で、とても好きな音色であり、失われていく目の前の彼女の姿がとても愛おしく感じていた。
親友であり、冗談で恋仲のように振舞うことはあっても、結局恋人関係になったことは無かったけれど、自分は彼女のことを愛していたのだな、とその時になって青年は悟る。
気付くのがなんとも遅すぎたな、と苦笑しながら。
そんな青年の心情を知ってか知らずか、彼女は笑った
「ねぇ、また貴方の血、くれないかしら」
「……そうだね。最後なんだし、感染症とか気にしないで良いし、好きにしなよ」
彼女の願いに青年は少し寂しそうな顔をしてから、履いていたジーンズのポケットから折りたたみナイフを取り出し、自身の左手親指の腹を軽く切って彼女へと差し出す。
「どうぞ、お姫様」
「ありがとう、道化師さん」
「そこは王子様じゃないのかなぁ」
「身の程は知るべきよ?」
「そんなことを言う口には指を突っ込んでくれる」
「あひはほ(ありがと)」
ずっとこうして軽口を叩き合っていられれば、どれだけ幸せなことだろうか。
思わず涙腺が緩みかけてしまった青年は、それを彼女に悟られないように気を引き締める。
俺達に、辛気臭いのは似合わないもんね。
内心でそんなことを思いながら、自分の親指から流れる血を殆ど動かなくなった舌で舐め上げる彼女の頭を空いている右手で撫でた。
いつもであれば絶対にしないその行為に、彼女はもうあまり表情筋の動かなくなってきた顔で少しばかり驚きの表情を浮かべたが、すぐに青年の血を舐める作業に没頭する。
けれどその舐めるという行為に使う体力も失われてしまったのか、自らの指に舌が当てられたまま彼女の動きが止まり動かなくなったことで、手にかかっていた彼女の吐息がなくなっているのに気付き、青年は笑った。
「別れの言葉も交わさずに、お別れか」
実に彼女らしいな、と青年は寂しそうに笑い、もう目覚めることの無くなった彼女の体を抱き上げると、その半開きになっていた口に優しく口付けをして、そっと呟く。
「どうせすぐに俺もそっちに行くだろうから、のんびり待っててくれよ、お姫様」
尤も、君は天国だろうけど、俺が天国と地獄、どっちに行くかなんてのは神のみぞ知るところって奴だけれどね。
半月を見上げて寂しそうにそう呟いた青年の独白は、虚しく空へと消えていった。