恋は『落ちる』もんやで
梅雨の隙間を縫って届く陽射しに暑さはなく、風は吹いていないけれど気温がちょうど良い。佐倉のいなくなった公園のベンチでしばらくぼーっと座っていた。猫が寄ってきてベンチに飛び乗り僕の横で丸くなる。彼女は何であんな事を僕に聞いてきたのだろうか。
佐倉遥子は変わっている。もっとも大学という場所は僕が知る限り世界中のどんな場所よりも個性的な人間が集う場所なのだが。というか、個性を何物にも邪魔されずに発揮できる唯一の場所、それが大学なのだ。自己主張と言ってもいいかもしれない。
奇抜なファッションを見に纏う者、専攻する分野に没頭する者や、逆に勉強とは全く関係ない分野にのめり込む者などなどなど。しかし彼女は、そういったいわゆる傍から見ても分かりやすい変人とは違う種類の「変わった女の子」だ。
服装はさらりとして特に目立つわけではないが野暮ったいわけでもない。学校の勉強にどっぷり嵌まっている風にも見えないし、かといって講義には出ずに、他に何か執着している事があるようにも見えない。
じゃあいわゆる「女子大生然とした女子大生」なのかと言われれば、それも違う。彼女は自分のことを「オレ」と言い、言葉遣いも完全に男のものだが、それだって「私は人と違うから」みたいに少々痛々しく無理をして使っている風でもない。彼女の男言葉は、その少し硬質な声色と共に違和感なく耳に入ってくる。
変人とも凡人とも違う、特殊な存在。大学という水槽の中にぽとりと落とされた、決して混じる事のない一滴の油のようだ。
それでいて周りから浮いているのかといえばそうでもない。少なくとも僕なんかに比べればずっと仲の良い友達もいるし、みんなで集まる時も大抵顔を出す。その証拠に昨日だって来たわけだし。
そういえば佐倉っていくつなんだろう。ずっと同い年だと思って接してきたけど、あの落ち着き振り、実は年上なのかな。いつの間にか僕の頭は佐倉で埋め尽くされていた。
「おお帰ってきたか。どやった?」
部屋では家康が待ち構えていた。
「……知ってたのか?」
「当たり前や。舐めたらあかん。ワイは天使やで」
出た。伝家の宝刀。お決まりの台詞。
「どっから知ってるんだ?」
「お前が風呂に入ったとこからや。したらすぐに玄関が開いてな、ピンと来たわけや。ああこれは娘が戻って来たなと。わざわざ朝飯買うてくるなんて健気やないかい。あの娘名前なんちゅーねん」
「佐倉遥子」
「はーなかなかどうして『和』を感じさせる透き通ったええ名前やな。気に入ったで」
和を感じるのは苗字が「さくら」だからじゃないのか? という突っ込みはやめておいた。その次の「透き通ったええ名前」という表現が気に入ったからだ。
「で、何してきた?」
「パン食べてコーヒー飲んだだけだよ」
「嘘こけ。何かしら喋ったやろ。ちゅーかお前何か聞かれたやろ」
「えっ!? 何で……」
「だから言うてるやんか。天使舐めるなて」
そんな事まで分かるのか。
「実は……彼女いるのかって」
「ほーれ見てみい。そんなこっちゃないかと思った。あの佐倉ちゅー娘はお前に気があるな」
「まさか」
「いいや間違いない。そうでなかったらあんな面倒な事するか?」
「それは昨日迷惑かけたからって言ってただろ」
「ホンマにそれだけやったら今度学校で昼飯でも奢れば済む話やろ。しかしそうせんかったっちゅーことは、お前と二人切りになりたかったっちゅーこっちゃ」
「でもおかしくないか?」
「何がや」
「だって僕は世界中で恋人の出来ない男ナンバーワンなんだろ? もし佐倉が僕に気があるとしたら、もっと順位は下がっててもおかしくないんじゃないか?」
「そうや。せやから今日の順位では大幅ダウンや。恐らくトップ一万位圏外になっとるやろうな。言うたやろ? 順位は毎日変わるて」
「だって三年間ずっとトップだったんだろ? いきなり圏外って言われても信じられないな」
「あんなあ、お前ホンマに恋したことあるんかい。
ええか、恋は『落ちる』もんやで。フォーリンラブ言うやろ。落ちるんやからそら一瞬の出来事や。瞬きする間に状況はいくらでも変わるんやで。エベレストの頂上から麓まで一気にダイビングや。しかもワイがついてるんやで。急に風向きが変わったって何も不思議な事あるかいや」
そうか……そうだった。確かに今の僕には天使が付いている。やっと幸せが巡ってくるのかもしれないという淡い期待を抱いてもいいのかもしれない。