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要するに今の心理状態は許容オーバー

「ぎゃあ」


 思わず声を上げたのは僕の方だ。だって裸だし。第一、人がいるなんて思わないし。


「よっ」


 女の正体は果たして佐倉遥子であった。佐倉は右手の人差し指と中指を揃えて、額に軽く添え、格好つけるように僕に挨拶した。しかも初夏の木陰に吹く涼風のように爽やかな笑顔で。


 しかし完全に裸を見られた僕は挨拶どころではない。洗濯機のある脱衣所に扉やカーテンなど視界を遮る物は一切ない。早くパンツを穿かねば……だが油断していた僕は着替えを持ってきていない。部屋の箪笥の中だ。とりあえず腰にタオルを巻き体勢を整える。


「昨日は悪かったな。ちと飲み過ぎた」


 僕の裸を見たことなどまるで気にしてないかのように、佐倉は言った。


「どどどどこに隠れてたんだ?」

「迷惑かけたからよ、お詫びに朝飯でもどうかなと思ってさ、コンビニでパンとコーヒー買ってきたんだ」

「あああありがとありがと。後で食べるから置いといて」


 僕は恥ずかしくてまだ彼女の顔を見ることが出来ずにいる。しかし視界の隅で、佐倉は突っ立ったまま動かない。


「二人分あるんだけど?」


 あ、一緒にってことか。ようやく頭が回り始める。


「わ、分かった。じゃあ食べようか」

「その前にさ、シャワー貸してくんねえかな。汗掻いて気持ち悪いんだよね」

「いいけど……着替えは? 女物なんてないぞ」

「これこれ」


 佐倉はコンビニのビニール袋から得意気に女性物の下着と白いTシャツを取り出した。


「全く便利な世の中だな。ついでに歯ブラシも買ってきたんだ。あ、そだ、バスタオルだけ貸してくれるか?」

「あ、ああ」


 僕はタオルを巻き上半身裸のまま部屋に戻り、箪笥の引き出しを開けた。そして持っている中でもなるべく綺麗で厚手のバスタオルを選んで手渡した。佐倉は両手で受け取ると、ばふっ、と折りたたまれたタオルに顔を押し付けた。


「お、これ肌触り良いな。じゃ、ちょっくら借りるぜ」


 言うが早いが佐倉は僕がいる目の前で、着ていたチビTを窮屈そうに脱ぎ始めた。僕は、ごゆっくり、と聞こえないくらいの声で口籠りながら慌てて後ろを向いて部屋に戻り、パンツとジーンズに脚を通し、Tシャツを被った。


「何なんだよあいつ……」


 と悪態をつきながらも心臓は高鳴っていた。原因は自分の裸を見られたことが六割、佐倉が目の前でいきなり脱ぎだした事が三割、そして、自分の部屋で女の子が裸になってシャワーを浴びているという事実が……五割。全然計算が合っていないが、要するに今の心理状態は許容オーバーという事だ。


「サンキュー。あーすっきりした」


 濡れたショートの黒髪を、首を傾げて拭きながら歩く姿が妙に色っぽくて、更に脈拍が上がった。


 何故だ? 何故よりによって佐倉なんだ? 女らしさの欠片もないような奴だと思っていたのに。でも昨日見た、酔い潰れて投げ出され、時折もぞもぞと動く彼女の桃色の脚には正直目が釘付けになってしまった。邪な考えを見透かされたんじゃないかと思わず家康に目をやるが、静かに寝息を立てているだけだった。


「じゃあ行こうぜ」


 佐倉は身体を拭いたバスタオルを僕に手渡してそう言った。


「行くって、どこに?」

「決まってんだろ。公園で朝食だ」



 僕のアパートの近くには、大きな沼を中心とした緑の豊かな公園がある。鴨とアヒルが賑やかに集う沼を囲むように一周1キロのランニングコースが設けてあり、早朝から夜中まで一日中誰かしら走っている。僕達が公園に足を踏み入れると、目の前をタンクトップに短パンの、白髪の見事なお爺さんが、汗を光らせながら物凄い勢いで駆け抜けて行った。


「朝から元気だな~」


 佐倉はコンビニ袋をぶらぶらさせながら、僕の目の前を歩く。女の子にしては背が高い佐倉は、167センチの僕と顔の位置が変わらない。しかも今はヒールが高めのサンダルを履いているので、目線は更に少し上だ。


 今まで気にもしなかったのだが、昨日見てからというものどうしてもそのすらりと長く形の良い脚に目が行ってしまう。佐倉は沼の見渡せるベンチを見付けるとそこに腰を下ろした。僕もそれに倣い少し間隔を取って隣に座った。


「良い天気だ」


 空に向かって呟く佐倉。六月の中旬で、降ったり止んだりの梅雨だが、今日は朝から太陽が顔を出している。佐倉は上を向いて目を閉じ、その普段でもほとんど化粧をしない素顔に日の光を浴びせている。思っていたよりも白く透き通るような素肌に一瞬ドキッとした。そして僕はアパートを出てから一言も喋っていない事に気付く。


「どっちがいい?」


 沈黙を破るように、佐倉はがさがさと袋から二つ、パンを取り出した。


「ジャムマーガリンとあずきホイップ」


 両方とも甘いパンか……朝から甘い物は苦手だが、せっかく買ってきてくれたんだ。


「じゃあ、あずきで」

「ブラックとカフェオレは?」


 缶コーヒーも好きじゃないんだけどな……


「カフェオレ貰っていい?」


 ほい、と佐倉はパンとコーヒーを半分投げるようにして手渡してくれた。食べ始めると僕は再び無言になってしまった。佐倉はどういうつもりで僕をこんなところに誘い出したんだろう。相変わらず行動が読めない奴だ。


「松岡ってさ」


 佐倉は正面の沼に顔を向け、ジャムマーガリンが口に入ったまま僕を呼んだ。


「彼女いるの?」


 予想外の質問に、カフェオレが気管に入り、思い切りむせてしまった。


「おいおい大丈夫か?」


 前屈みで咳き込む僕の背中を、佐倉の右手が優しく摩った。


「あ、ありがと。もう大丈夫」

「そんな変な質問だったか?」

「いや……いない」

「ふうん、そっか」


 自分から質問した割には関心がなさそうに素っ気無くそれだけ言うと、佐倉は立ち上がりうーんと伸びをした。白く細っそりと長い四肢を携えた身体は、羽根を大きく伸ばした白鳥を思わせた。


「じゃ、またな」


 食べ終えた僕のパンの袋と空き缶を摘み上げ袋に入れると、佐倉はやはり爽やかに去っていった。

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