彼女いないんだろ? じゃあオレと付き合えよ
「こういうこととかか?」
一瞬軽く触れさせて、佐倉はすぐに顔を離した。頭が真っ白になる。キスなんて、いつ以来だ……? 急に心臓が激しく収縮を始めた。
「な、何を……」
「オレさ、松岡の事好きなんだけど」
無表情のまま僕をじっと見据える。やはり家康の言う通りだったか。
「昨日と今日で、一応『好きなんですアピール』をしてみたんだが……駄目か?」
駄目かって聞かれても、急過ぎる。
「雑誌に載ってたんだよ」
雑誌? って何のことだ? 突然の話題転換に頭がついていかず、呆然とする僕に構う事無く佐倉は話を続ける。
「『一人暮らしの二十代男性が思わずぐっと来る女の行動ランキング』ってやつ。したら『手料理作って部屋で帰りを待つ』っていうのが一位だったからさ」
そんなの真に受けるなよ、と思ったが、確かに少々ぐっと来た事は事実である。佐倉は僕を見たまま少し首を傾げてコーヒーを飲む。正面からまじまじと見詰められると、どうしようもなく恥ずかしい。だって佐倉は綺麗だから。
「彼女いないんだろ? じゃあオレと付き合えよ」
これは……世に言う告白と取っていいのだろうか。随分と男前な告白だな。
「まあ彼女はいないけど」
「けど? 好きな女がいるのか?」
ちらりとサッちゃんが頭をよぎったが、現段階では別に好きというわけでもないし。
「いない」
「じゃ、決まり。今からオレが松岡の彼女な、よろしく」
佐倉は右手を差し出してきた。
「ちょ、ちょっと待てよ、落ち着けって」
「落ち着いてるぜ?」
「話の展開が早過ぎて混乱してるんだ。そもそも何で僕なんだ? これまでそんなに親しくなかっただろ?」
「昨日惚れた」
「はぃい?」
「酔い潰れたオレを介抱してくれただろ? アパートの二階までおぶって運んでくれた」
「そんなの友達なら普通だろ。それに佐倉だけじゃない、杉田の奴だってここに寝かせたし」
「風呂も貸してくれたしな。それで」
「それだけ!?」
「まあ後は……声かな」
「声?」
「ああ。松岡の声はオレのストライクゾーンだ。ずっと聞いていたくなる」
「だったら今までもっといろんな話とかさ、すればよかっただろ。毎日学校で顔合わせてるんだから。それに僕は佐倉の事、よく知らないし」
「昨日今日で大体分かっただろ?」
「分かんねーって」
「そうか? じゃあオレの何が知りたい?」
「いや、そういう事じゃなくてさ、何か調子狂うな……まあいいや。佐倉っていくつ?」
「二十三」
「え? そうなんだ。二つも年上なのか」
「次の質問は?」
「いやいや、今のとこでもうちょっと話広げようよ。高校出て何かやってたの?」
「二浪」
「あ、そうなんだ」
「嘘」
「嘘かよ! 何なんだよ!」
「専門行ってた」
「何の?」
「調律」
「調律って……何だっけ?」
「ピアノの音を合わせる」
「ああ、ピアノの調律ね。そういえば子供の頃実家に来てたかもしれない。へえ、佐倉そんなこと出来るんだ。凄いな」
「半年で辞めたけど」
「辞めたのかよ! じゃあ後一年半は?」
「一年半じゃない。半年だ。専門行く前に一浪したから。行きたい大学に受からなかったから一浪したんだ。でもやっぱり駄目で、これ以上は親に迷惑かけられないと思って専門に行った。けどピアノとか興味ないし全然面白くないから夏休み明けに辞めて、猛勉強した」
「てことはうちの大学が行きたかったとこなのか?」
「違う。第一志望は結局受からなかった」
「何か複雑だな。しかし興味ないのに何で調律やろうと思ったわけ?」
「浪人して駄目だった後、親と進路について話してたらちょっと熱くなったんだよね。そしたらその時たまたまテレビで調律師の仕事の特集やってて面白そうだったから勢いでつい調律師になってやるって啖呵切った」
「そんなんで決めるなよ……そもそもどこの大学に行きたかったんだ?」
「京大」
「ええっ!? 凄いな、何でまた」
「京都に住んでみたかったから」
「だからーさっきから受験の動機がおかしいだろ」
「コーヒー美味いな。もう一杯くれるか?」
佐倉は会話を中断するように言った。あんまり過去の事を根掘り葉掘り聞かれるのは好きじゃないのかな。僕は台所に行ってコーヒーをセットしようとした。
「あ、ごめん、挽いた豆がもうない」
「じゃあ挽いてくれ」
「そうしてあげたいのは山々なんだけど、ミルってかなりうるさいんだよね。だから夜中は近所迷惑になるから」
「ふーん……じゃあいいや。その代わり」
「お茶でも買ってこようか?」
「キスしてくれ」
「は?」
「コーヒーの代わりにオレにキスしてくれ。嫌か?」
佐倉は「嫌か?」が口癖なのか。僕は少し考えた後覚悟を決めた。脚を投げ出して無防備に座る佐倉の前に座り両肩に手を置いた。そしてゆっくり顔を近付ける。あと数センチ、佐倉の鼻息が僕の唇を掠めたとき、その口が動いた。
「キスしたら、松岡がオレを彼女と認めたという事だから。いいな?」
心臓が痛いほど速くなっている。ここまできて引き返せるわけがない。僕は軽く頷くと、目を閉じてそのまま唇を押し当てた。柔らかく脳が痺れるような感触。このまま溶けてしまいたい。僕達は長い長いキスをした。