見たやろ、あの絹のような柔肌の頬を伝う宝石のような涙を
携帯の鳴る音で目が覚めた。いつになく早起きしてしまったせいで、いつの間にか再び眠ってしまったようだ。午前十一時を回ったところ。
ベッドの下ではやはり家康が眠っている。しかし家康は眠っているように見えても実は起きていて、今朝のようにこっちの様子を伺っている事もあるから油断できない。僕は台所から人参を掴むと、家康の鼻先にちらつかせた。一瞬鼻の穴がぷくりと開いたが、起きる様子はない。
メールが来ていた。開いてみると。相手はなんとサッちゃんだった。
『松岡さ~ん。カピバラ見たいです~。今日とか時間ありますか?』
僕は鼾を掻き始めた家康を叩き起こした。
「おい! 大変だ!」
「んん~~何やねん、今ええとこやったのに……引っ越した先が巨大キャベツで出来た家でな、家中食い放題やってんねんで……もうちっと寝かせろや、続き見たいねん」
「キャベツなんていつでも買ってやるから、それよりこれ見ろ!」
僕は再び閉じかけた家康の瞼を人差し指と親指で開き、携帯の画面を見せる。
「ええい! やめんか! 分かった分かった起きるから……ホンマ鬱陶しいわー……ナニナニ、お、やったやないか」
「どうすればいい?」
「こないだのは形式的メールと見せかけてワンクッション置くなんて、なかなかのテクニシャンやなこの娘。まあこれやったら間違いあらへん。どうせお前ヒマなんやろ? 早速呼んだらええ」
一言多い家康を睨みつつ、僕は今日の午後二時に、うちからの最寄り駅で待ち合わせる旨の返事を送った。
「お邪魔しまーす。わあ可愛い! ホントに飼ってるんですね!」
僕の部屋に入るなり、サッちゃんはその大きな瞳を更にまん丸く見開いて喜んだ。
「触っても平気ですか?」
「うん、大丈夫だよ。大人しいから」
「結構毛が硬いんですね~」
初めは恐る恐るだったが、家康が無抵抗だと分かると、サッちゃんは次第に大胆に身体中を撫で、終いにはその寸胴の身体に抱きついた。本当に嬉しそうだ。
「この子名前なんて言うんですか?」
そこで少し困った。正直に家康と言っていいものかどうか。どんな種類のペットにせよ、そんな名前を付ける飼い主はいないだろう。変に思われないだろうか? しかしいきなりカピバラに相応しい名前が思い付くはずもない。
「家康」
「え? イエヤスですか? スゴーイ、カッコイイですね」
案ずるより産むが易し。サッちゃんは相変わらず抱き付いたまま耳元で何度もイエヤス~イエヤス~と囁いている。
当の家康は可愛い女の子に抱きつかれ名前を褒められ耳元で囁かれて、ただでさえ長すぎる鼻の下がでれでれと伸びまくっている、ように見えた。はっきりいって結構羨ましい状況だ。後で説教だな。
「イエヤスは何が好きなんですか?」
「人参とキャベツ。あげてみる?」
僕はキャベツを取ってきてサッちゃんに手渡した。サッちゃんはキャベツを一枚ずつ剥がして家康の顔の前に持っていく。キャベツを齧る音が部屋に響く。
(お前何ぼーっとしとんねん。早よ会話せえよ)
いつもの家康の関西弁が聞こえてきて、びっくりして顔を上げると、家康はさっきと変わらずサッちゃんに顔を向けたまま、むしゃむしゃとキャベツを齧り続けている。
(安心せえ。今のはお前の脳に直接話しかけたんや。せやから他の人間には聞こえん)
凄い。テレパシーが出来るのか。じゃあ僕も……
(あ、先に言うとくけど、お前は受信専門やで。いくらワイに考え送ろうとしたって無駄やからな)
何だ、詰まんない。僕は念じるために皺を寄せた眉間を解いた。まあとにかくこのままじゃ間が持たない。何か話題を見つけないと。
「ねえサッちゃんあのさ……」
そこで僕の言葉は止まった。なぜなら家康を撫でるサッちゃんの頬には一筋の涙が零れ落ちていたから。まさか家康が噛み付いたのか? 咄嗟に僕はカピバラを睨む。
(ちゃうちゃう! ワイは何もしてへん!)
「振られちゃったんだ、私……ごめんなさい」
それだけ言うと彼女は家康から手を離し、僕の顔も見ずに横をすり抜けた。
「サッちゃん!」
ようやく声が出たときにはもう、彼女の小さな身体は見えなくなっていた。
「どういうことやろか……」
サッちゃんが泣きながら部屋を去ってから、訳が分からずしばらくぼんやりとしていたら思わず関西弁が出た。
「真似すなや」
「ああごめん。うつるんだよね関西弁て。でもどうしちゃったんだろ、サッちゃん」
「どうしたやあれへんがな。モテない男ナンバーワンの汚名返上やないかい」
「え?」
「な~にが『え?』や。すっとぼけやがってこのこのオタンコナスが」
家康は額をぐいぐいと僕の身体に押し付けてきた。
「佐倉遥子に小梅里美。タイプは違うがどっちもエエ女やないかい。遂に来たの~お前の黄金時代が。ま、完全にワイの実力やけどな」
得意気な家康は鼻息荒く言ってのけた。二人とも僕の事を気にし始めているのだとしたら確かに家康のお陰ではあるのだが。
「ちょっと待ってよ。佐倉はまあ、その、何というか可能性がなくもないのかもしれないけど、サッちゃんには彼氏が……」
「この期に及んで何を抜かしとんねん。見たやろ、あの絹のような柔肌の頬を伝う宝石のような涙を。聞いたやろ、その後の決定的な一言を。あんな姿、無関心無味乾燥な男に見せるかいや。お前に今の状況を知って欲しい、そして出来る事なら慰めて欲しい……あれだけお膳立てされて女心が分からんかったらお前ホンマにホンマの大アホやで」
「つまりサッちゃんは、最近彼氏と上手く行っていなくて、とうとう振られてしまった。そしてそれを誰かに聞いて欲しかった、そういうことか?」
「誰かにやあらへん。お前にや。ま、結局カピバラを見たい言うのは口実やったというわけやけど、結果オーライっちゅーこっちゃな」
家康は得意満面で腹を見せて踏ん反り返っているが、やはり腑に落ちない。
家康の出現により恋の運気が上がって、その結果佐倉が近付いてきた。そこまではよしとしよう。少なくとも学校で毎日顔は合わせているわけだし。
しかしサッちゃんはどうだ。多くても週に二、三回、それもサッちゃんは今の店に入ってまだ三ヶ月だ。バイト中に仕事上の話はするけど、それ以外は本当に挨拶程度の言葉しか交わしていない。そんな男にいきなり本音を、しかも悲しい気持ちを見せるだろうか?