その3
◇ ◇ ◇
何かといっては家出を繰り返す母・茉莉花が、息せき切って帰ってきたのは小雨ふる夜のことだった。
「大変、大変、慎さん、慎一郎君、大変よ!」
家出を詫びるより前に言う母の手には、どろんこでよれよれになってふるふる震える仔猫が握られていた。目は目やにでがびがび、鼻からは鼻水が垂れまくっている。
「この子がね、脚から離れてくれないの! ねえ、どうしたらいい? 助けて、慎さん、助けてあげて!」
母は半泣きである。見ると本当に片足は泥で汚れ、ストッキングには伝線が入っていた。
「助けるもどうするも、私ではわからないよ」
父もどうしたものかとわたついている。
「どうしたらいいんだろうねえ」
「助けてー、お願い助けてあげてー!」
両親はふたりとも、ちらちらと息子の方を見やる。
こうなると出番となるのが慎一郎だ。
「ああ、もう、仕方ないなあ!」
息子は母の手から仔猫を受け取り、泥だらけの身体を洗面器に張った湯に浸した。
すると。
お湯はあっという間に泥で濁り、次には黒いごま粒がぴょんぴょん跳ねて飛び立つ。
「何これ」と息子。
「まあー! 慎さん、ノミだわ、ノミ!」と母。
「ああ、本当だ。久し振りに見るねえ」これは父だ。
「きゃー大変、あっちこっちに飛んでいくわ、助けてえ、慎一郎君、助けて―!」
「僕は猫で手一杯なんだよ! どうすりゃいいの! 父さん、手伝って!」
「い、いやあー。君にまかせるよ、慎一郎君、ははははは」
その日、高遠家はすったもんだの大騒ぎ。家中に散らばったノミはなかなか駆除できず、一夏居座り、一家は猫共々体中に赤い刺し傷を作ってかゆみに苦しんだ。医者から塗り薬ももらったが、一番効果が高かったのはキンカンで、「家中がキンカン臭くて泣きそう!」と、虫さされに重ね塗りをする母を大いに嘆かせた……
◇ ◇ ◇
「その頃からおだてに弱かったのね」
とここまで聞いた秋良はぽつりと言う。
「え?」と慎一郎は妻を振り返り、「そう……だったのかな?」と呟いた。
あーあ、そうですわ、本人が一番気付いてないのね、と内心で。口には出さず秋良はおほほと笑う。
「あなたが猫に苦手意識をお持ちなのはわかりましたけど、それを子供たちに納得できるように説明できなくてはね、どう説得します? 私はどちらでもいいの。でも、慎一郎さんや子供たちが傷付くのを見るのはイヤ。ですから……」
「わかった、明日、子供たちには僕から言えるように考えておく。一晩時間をおくれ」
「ええ。お願いしますわ」
秋良はあくびをひとつ漏らした。
「ごめんなさい、最近寝が浅いの。眠れる時に寝ておきたいから、私は横になりますね」
「ああ、片付けは僕がやっておく。温かくしておやすみ」
「ええ、あなたも。悩むのはほどほどにね、と三先くんも言ってますわ」
おやすみなさい、と言って夫の頬にキスしながら、秋良は寝室に下がる。
後には、仔猫と慎一郎が残された。