その2
◇ ◇ ◇
食事のお残しは一切許しません、の家訓が生きる教授宅では食卓の上に乗っている料理は全て食べきらなければならないが、慎一郎は箸(正確にはスプーン)がまったく進んでいなかった。
時々、風に乗って漂う木の葉のように、「おとうさん、きらいだー!」「だー」「にゃー」と子供たちと猫のハーモニーが聞こえてくるからだ。
あー、うるさいうるさい。
都度、慎一郎はため息をついた。
「お父さん、ちっとも減ってません。食べて下さいな。片付きませんの」
妻・秋良は手を休める度にのほほんと声をかける。
生返事の彼には、子供の声ほどには届いていない。
秋良は時計をちらりと見て、
「まあ、こんな時間。子供たちを寝かしつけてきますわ」
と卓上を指差す。
「私が帰ってくるまでに食べきってくださいね」
先頃、子供の成長に合わせて増改築した平屋は、広くなり、二階建てとなった。
その二階が子供部屋になっている。足音軽く階段を上っていく秋良の足音は、子供たちの声と共に上の階に消えていった。
「おまたせ」
と言って戻ってきた秋良の目には、半分ほど残った夕飯のメニューがそのままになっていた。
「慎一郎さん、お体の具合でも悪いの?」
妻は子供がいない時は夫を名前で呼ぶ。
「え? ああ、そんなわけではないが……」
「全然減ってませんわ。子供たちに示しがつきません、片付かないですし。ちゃっちゃと食べてください。それとも、口に合いませんでした?」
今日は子供向けメニューの日。
甘々カレーに星型で抜いたじゃがいもやにんじんが、同じく星型に盛られたごはんを彩っている。
「いや、すまない」
言いつつ、口を動かす彼は、心ここにあらずだ。
「心に傷を負ってしまったのね」
秋良は言う。
「かわいそうに」
「僕は、そんなことはないけどね」
「あら、あなただなんて言ってません。子供たちのことです」
彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
最近、妻は少し冷たい。
ホントは、慎一郎さんこそ傷を負ってるのだろうけど。そこには触れずに秋良は続けた。
「頭ごなしにダメだ、の一点張りなんですもの、子供といえども小さな人格を持つ存在として懇々と言って諭せば伝わる、なんて普段は仰っていて、そのとおりに子供たちに接しているのに。あの子たちがショックを受けるのも仕方がないと思うわ。お父さんに理由なく一方的に『ダメだ』って言われたのは、おそらく生まれて初めてのことだと思うのですけど」
「うーん」
慎一郎はスプーンを持ったまま、反論できない。
「ねえ、慎一郎さん」
「だめだ、誰がなんと言おうと、だめなものはだめ。ペットは、……猫はだめだ。今日は一家全員そろっているが、君はフライトで、自分も所用で家を空ける時がある。子供たちは預け先があるし、僕でも面倒がみれる。住人が家をあける機会が我が家はよそより多いだろう、生き物は飼って置けない。それに、猫はトキソプラズマがつく、君は……」
「ご心配には及びませんわ」
秋良の実家は、娘が嫁いで以降猫を飼い始め、今では猫屋敷となっている。彼女が使っていた部屋は猫部屋になった。行く度に猫の数が増えているような気がするのは、多分、気のせいではない。
「一馬が産まれた頃から接してますから、きっと免疫はついてますし。今更ですわ」
「いや、しかしだね」
「あのね、慎一郎さん、一度話をしておかないといけないと思っていたのですけど」
秋良は頭を少し振り、彼の前の席に「よっこいしょ」と言いながら座る。
「何だね」
「子供たちが大きくなるにつれて、今回のようなことはこれからも度々起きますわ。ゲーム機が欲しいは、そろそろ一馬は言いそうですよ。幼稚園のお友達では早々と持っている子がいるみたいなんですの。お小遣いやパソコン、携帯電話はいつから持たせるとか。習い事や。お友達がやってるからどうのこうのと言い出さないとも限らない。その時、どうします?」
「そうなんだが」
「ペットひとつ取ってもそうです。我が家の方針として、一度、私とあなたの認識は一致させておいた方がいいと思っていたのですけど。いかがでしょ? でないと、都度、子供からつつかれて大騒ぎ、私と慎一郎さんとの意見が合わなかったらそこでまた衝突を子供の成長ごとに繰り替えすことになりますわ。ねー、三先くん?」
と言いながら、秋良は自分の腹をさすった。
まるまると大きく育った腹は子供がいる証。数ヶ月後にはおぎゃあと生まれてくる予定である。
「……くん、ってことは? 今度も……」
「ええ、男の子ですわ。今日、エコーでうっかりわかってしまいましたの」
よかったですわね、と秋良はニッコリ。
「ですから、この子が大きくなったら、今日みたいなことがありましてよ? きっとさっきみたいに言ってしまうでしょう? あなたは『嫌いだ』って言われる度に傷付くんですわ」
スプーンでにんじんをつんつくつついていた彼は、秋良の目にもはっきりとわかるくらいに感電したかのように身体を震わせた。
どうしまして? と見た彼の脚には、でっかい毛玉がはりついていた。
にじにじと、子供たちがよじ登るように、仔猫も這い上がろうとしている。
「まあ、いつの間に」
「……ここまで来たというんだ……」
慎一郎は渋面をさらに深く刻む。
「外へ出してなかったのか?」
「夜はもう遅いですもの、かわいそうでしょ? 今日はかんべんしてあげて。ねえ、本当にペットはだめなんですの?」
その問いには答えず、彼は無言で夕飯をかき込んだ。
「どうしてもというのでしたら、母に頼んでみます。多分、引き受けてくれると思います。まさか、子供たちに本当に拾ったところへ戻させるわけにはいかないじゃないですか、けど……」
そちらの方こそ気が進まない。きっと秋良の母のことだ、猫を理由にねちねちと、言ってくるに違いない。「私になにかあったら、あとはヨロシク」とばかりに猫たちがやってきたら、我が家は次世代猫屋敷になってしまう。
「ドイツのことわざに、子供が産まれたら犬を飼えといいますわ。小さい内は子供を守り、成長すると遊び相手になり、思春期になったらその身をもって命の大切さを教えると。犬も猫も変わらないでしょ。ペットを飼うのは子供たちの情操教育上も悪くないと思うのですけど……。ねえ、なぜ、猫はだめなんです? ここまで意固地になるのですから、理由があるのでしょ?」
秋良は、夫に尋ねた。
それには答えず、慎一郎は言う。
「……食事はどうしてる。トイレは……」
「え? ええ、この子ですよね、とりあえず牛乳をあげました。お手洗いは……何をすればいいのです?」
「ここへ来て、一度も用を足してない、と」
「ええ、そう」
「それはまずい!」
慎一郎はやにわに立ち上がり、仔猫をむんずと掴んで手洗いへ直行した。
「慎一郎さん、お食事中!」
「生まれて間もない仔猫は、自分で排泄できないんだ」
お前はオスだね、と言って、ぬるめのお湯で浸したティッシュでお尻周りをふく。
「三毛猫の雄って、珍しいのではなくて?」
妻のひとことに、夫は眉間に皺を寄せた。確かに、貴重だとは言われているが、いや、しかし。彼は聞こえないふりをした。
程なく、仔猫は、ちーっと用を足した。
「こうやって刺激しないと出るものがでないんだよ、これぐらい小さいと母猫が舐めて排泄を促すんだ。そして、牛乳はだめだ、仔猫用の餌かミルクがあるから……」
そこまで言いかけて、彼は口をつぐんだ。
白々とした表情でこちらを見ている妻に気付いたので。
「……よくご存知ですこと」
「いや、その」
「さっきの問いにお答え下さいな、なぜペットはダメなんですの?」
はぐらかしは許しません、と彼女の目は告げる。
はあー、とため息をついて慎一郎は手の平に乗っている仔猫を見た。
猫はきょんとした目で慎一郎を見つめ返している。
「昔、飼っていたんだよ、中学から高校の頃まで。三毛猫だった」
「……やっぱり。仔猫の扱いをよくご存知だと思いました。あら、でも、私が会ったころにはいませんでしたわよね」
「死んだんだよ、母が入院した翌日に。玄関先に転がっていた」
秋良は目を瞬かせた。
そして、少し前の、家の増改築時のことに思いをはせる。
築年が彼の年齢を上回る自宅へ手を入れるにあたり、建築士に図面を書き起こしてもらった。それにダメ出しをし、一部の変更をさせたのは慎一郎だ。
問題になったのは庭に咲く、みかんだかキンカンだか柚だかわからない、柑橘類の花木の処遇だった。
建築士はばっさり根元から動かすか片付けてその分間取りを広げましょうと提案し、それは断じて受けられないと間取りがあまり広くならないのを承知の上で断固として譲らなかったのは慎一郎だった。
結果、柑橘の花木は残り、家は希望より少し狭い増築で終わった。
「じゃ、あの木は」
「どこのあたりかはもうはっきりしなくなっているが、その下に埋めたんだよ」
彼の母は、彼が高校に入ってすぐの秋に病気で亡くなっている。入院してからあっという間とのことだったそうだ。父親不在の時に付き添って仕度を整えたのは彼だという。
母の入院と猫の死。
高校生の彼には辛い出来事だったはずだ。
「可愛い子だったんですか? 三毛なら、メスだったんですよね。何がきっかけで?」
「あの猫は……都というんだが、母が拾ってきたんだ」