その1
尾上慎一郎は白鳳大学の名物教授だ。
数理・計量経済学、及びマクロ経済学が彼の専攻で、学内でも一目置かれている存在。
公ではマスコミへの露出や知名度も高く、そうそうたる実績を誇る学者である彼は、自宅では大変子煩悩な父親に変貌する。
晩婚だった彼には4歳を頭に2歳のふたりの息子がおり、親子共々べったべた、客室乗務員である妻がフライトで自宅を空ける時には子連れ出勤する姿が多々見受けられ、ワークライフバランスや男女均等雇用促進、果ては待機児童問題対策に意欲的に取り組んで学生たちに一石を投じているようではあるが、実態はといえば、天然な彼は周りが見えておらず、要は深く考えていない行動で、子供の存在が学内でいろいろと……物議を醸す可能性があるのには気付いていないという困った一面もある。
◇ ◇ ◇
ある晴れた日の夜。
彼は普通に出勤し、妻子が待つ自宅へ戻った。
食事の時間には間に合わなかったが、普段より早く帰って来た父親を、子供たちは歓喜して出迎えた。
子供から見れば大男、世間一般の常識から見ても長身である父親は、瞬間的に幼児用遊具になる。
ジャングルジムに登るお猿さんよろしく群がり、わっせわっせとよじ登り出すのが常なのだが、その日は違っていた。
「おとーさん、おかえりー」
「りー」
息子たちが突進するのはいつも通りだが。
「にゃー」
と、息子とは明らかに違う声が混じっていた。
にゃあ?
慎一郎は固まる。
一見すると普通に立っているようにしか見えない父の様子の変化には一切気付かず、子供たちは父に話し出した。
「ねえ、おとうさん、にゃんこなの、にゃんこ!」
長男・一馬は両手いっぱいに毛玉のようなほわほわした生き物を抱えていた。
言われなくてもわかる。
「にゃんこー」
次男・双葉も兄の言葉尻をとってオウム返しする。
「ひろってきたの、かわいいでしょ、ね、ね!」
「かわいいー」
「にゃー」
合いの手を入れるように、鳴く毛玉。毛色は三毛だ。もそもそと、手足をじたばたさせている。
「飼いたいー。飼ってもいいでしょ、ねえねえねえー!!」
「にゃんこー」
仔猫はにゃーにゃーと陽気に鳴いている。
「あら、お父さん、おかえりなさい」
妻である秋良が一拍遅れて声をかけた。
はしゃぐ子供たちに、寸暇を与えず父親は答えた、「ダメだ」と。
きっぱり、はっきりとした口調に、息子はふたりも固まった。
あららら? これは雲行きが怪しくなりそうね、と秋良も目を丸くする。
「拾った場所へ戻してこい」と最後まで、語ることは父親には許されなかった。
「うっわーん!」
と火が付いたように一馬は泣き、その様子につられて双葉も泣き出したからだ。
「おとうさんなんか、だいきらいだー!」
「パッパ、きらいだー」
息子たちはばたばたと元来た道を駆けて戻ってしまった。
「あーあ」
秋良は夫に向かって声をかけた。
お父さん、嫌われたー、と言いかけて、止めた。
彼女の前には、子供に「きらいだ」と言われて、いたく傷付いている父親である彼女の夫がいたからだ。
やれやれ。天下の大学者様が。子供の前では形無しね。
妻は吹き出すのを堪えるのに一苦労した。