武蔵、皇国に伝えよ=終篇=
時に西暦1963年只一は出撃命令を受け硫黄島に行く。そこにあるものは。
その船は今や動くことはない。半分を海に半分を海上に出しているその船は当時の鋼の輝きは失われ茶色く錆びている。木甲板も腐食がすすんで踏めば音を立て折れてしまいそうだ。所々形を失っているが、それでも堂々とした船だ。
━━━━そして、この船はただの船舶ではない。
かつてこの船に乗りそして戦った兵士がいた。かつてこの戦闘用艦で幾度となく敵を撃退した兵士がいた。かつてこの戦艦で皇国のために家族のために、自らのために迫りくる敵と決死の敢闘を行った兵士がいた。この戦艦は武蔵と呼ばれ大日本帝国海軍の主力艦としあまりにも酷い任務を遂げてこの海にて力尽きた。
しかし今はもうこの武蔵どころか俺たちの知っている船舶の半分は過去の遺物となっている。
俺は武蔵を少しの間軽巡洋艦の甲板からじっと眺めた。
1945年2月日本はアメリカが示す条約に同意し連合国との戦いを終えた。2月24日に14隻の護衛艦と起工して1月しか経っていない戦艦イリノイ、さらに空母ミッドウェーが続々と停泊してきた。
その戦艦イリノイで休戦協定に両国はサインした。
一,日本は本大戦で得た支配領域並びに、委任統治領の領有権を放棄すること。
二,日本はアラスカ・ハワイを含む米国に対し一切の侵略行為を行わない。
三,米国は日本領土に対し侵略しない。
四,日本はフランス領インドシナの領有権を放棄すること。
領土の事は以上の条約により収まった。ご覧のとおり日本は第二次世界大戦前と比べて委任統治領以外特に変わらない領土の保有を許された。まあ確かに米軍もあれほどの損害を追えば譲るところは譲るだろう。
その頃、ヨーロッパではソ連軍がドイツの首都ベルリンを完全に包囲した。それから1ヶ月後ドイツは連合国に降伏し、第2次世界大戦は集結した。
同1945年、国際連合が成立し日本も加盟国となった。常任理事国にはアメリカ、イギリス、フランスの3ヶ国が選ばれた。
1950年、満州国は完全な独立国家として誕生した。1960年には一部の利益を受け継ぐ物があるが、韓国を独立させた。
しかし、この韓国はあることがきっかけで10年も経たぬ間に戦場となる。それはまた後に語る事になる。
大日本帝国法案改正が1945年5月に行われた。特に変更はなく天皇制維持は依然続いたが、天皇中心制をさらに強めるために憲兵隊が多く徴兵された。日本はその後、各国との国交を次第に回復していくことに成功した。
中国やソ連とのの衝突は1950年から減少し、韓国独立後はほとんどなくなった。1950年までは日本は多忙だったがその後はようやく落ち着いてきたというのが一般的な評価だ。
戦争終了後軍隊は勿論解体はされなかった。が、縮小が行われた。まず正規陸軍は以下の兵員と師団数になった。精鋭を謳った関東軍も各師団や国境警備隊に回っていった。
第1近衛師団、第2近衛師団,第3近衛師団 各師団 約2万5000名 計約7万5000名
第1師団〜第50師団 各師団 約9000名 計約45万名
国境警備第1隊〜8隊(韓国独立前は,9隊配属) 各隊 約3000名 計約2万4000
この編成に予備役として25万名がいる他,憲兵隊なども配属されて1960年時で合計約82万名で、陸軍の兵員は最大85万名までと定められた。師団の兵員数も減らしたがこれは最新の装備をまわしやすいという利点があった。国境警備地は台湾や南樺太、沖縄などの離島に二隊〜三隊置かれた。硫黄島等、水が乏しい場所には警備隊の中の部隊という小規模な軍が置かれた。そして九州と本州には1隊ごとに置かれている。また戦車師団などは解体されて師団に置かれた。師団の内訳は半分機械化、半分歩兵でる。歩兵といってもトラックはああるから事実上は機械化師団とでも言える。
一方の海軍は海軍区という区切りで昭和13年時は以下内容だった。(陸上区画も含む)
第1,横須賀 ・・・樺太、北海道、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉、東京、神奈川、静岡、秋田 第2,呉 ・・・和歌山、大阪、兵庫、岡山、広島、山口、富山、石川、福井、京都、鳥取、島根、徳島、高知、愛媛、香川
第3,佐世保 ・・・鹿児島、佐賀、長崎、熊本、沖縄、朝鮮、台湾
関東州,佐世保 ・・・関東州およびその海上
南洋,横須賀 ・・・そのほかの海上
終戦後にはこの内の南洋区を削り1950年には関東州が,1960年第3区からは朝鮮が消えた。艦隊は次のとおりである。(1960年)
第一艦隊【主力艦隊】 護衛艦 ・・・金剛型4隻
重巡 ・・・敷島型4隻,富士型2隻
軽巡 ・・・香取型2隻,薩摩型2隻
フリゲート艦 ・・・樺太型16隻(駆逐艦を改造)
第二艦隊【巡視艦隊】 軽巡 ・・・鞍馬型2隻,河内型2隻
フリゲート艦 ・・・桜島型16隻(駆逐艦を改造)
巡視船 ・・・占守型90隻(海防艦などを改造・量産)
特務船 ・・・威臨型30隻,日進型10隻(日進は二級駆逐艦など改良)
第三艦隊【離島防衛艦隊】潜水艦 ・・・大鯨型5隻
巡洋潜水艦 ・・・波型 6隻(伊400型改造)
輸送船 ・・・20隻
(練習艦などもこの艦隊含まれる約10隻)
直属艦隊【海軍本部直属】護衛艦 ・・・葛城型1隻
特務船 ・・・威臨型10隻
特設巡洋艦 ・・・蒼龍型2隻(大戦中の巡洋艦を改良)
工作船 ・・・明石型1隻
航空艦隊【航空艦隊】 空母 ・・・豊後型・越後型 計2隻
ヘリコプター空母・・・天風型1隻
駆逐艦 ・・・天草型12隻
(搭載機は海上航空隊の航空機100機、ヘリコプターは10機)
ほかに海軍の陸上軍隊の陸戦隊10隊 各隊1000名となっている。
兵員総計 約6万5000名
15年前の編成から打って変わっている。特に金剛型,葛城型護衛艦はアメリカから技術をうけて起工したものである。ディーセルエンジンに加え最新のレーダー技術を搭載した戦闘艦である。また現在の船舶には欠かせない戦闘機式所(CIC)を装備運用している。
ほかに空軍がいる。機体数だけのべると、新鋭戦闘機200機、旧航空機1000機,ヘリコプター50機である。
一方俺たちはどうなったかというとまだ海軍所属だ。年齢は40を超える。俺は自分自身がまさか大尉まで上り詰めるとは思わなかった。ことに1人の弾丸補充係がである。
竹浜も同じく大尉である。艦は違えど同じ第2艦隊所属だ。
━━━━1963年の7月。突如とし出撃命令が出た、場所は硫黄島である。いや、突如ではないか東南アジアの国々も随分と騒がしくなるくらいに成長したもんだ。別に馬鹿にしているわけでない。
そして天気は憎たらしいほどの晴天である。なにもこんな熱い季節に晴れなくてもいいだろ。まぁだから7月のことを夏と言うんだろうな。
俺は出港2日前の夜にある場所に行った。
「元気かい、遂にこちらも出航だってよ。場所は言えねぇがな」俺がそう言うと眼帯をつけた男は微笑しながら「で、また弾丸でも運ぶか?」とからかってきた。
「いつの話だよ、まあ今回は軽巡で幾分か頼りないけどな」とこっちも少し笑いながら返す。
「そりゃそうだ。まあ飲め飲め」こいつめちょと話したら飲め飲めとすすめてくる。お言葉にあまえてというか、本能というか、よくわからないがグイッ酒を飲んだ。2時間はしただろうか。
「じゃあな只一大尉さんよ」という声に対して
「じゃあな健太」といって俺はその場所を後にした。
そして2日後の朝暮れの港では軍艦行進曲が大々的に流れる。戦後、若干の変更があったこの曲は墓まで持っていけるだろう。それよりもこの出撃命令は訓練ではない。
「また戦争か・・・変わらないな。もうあの大戦から3回目だぞ」そして硫黄島といえばあの場所じゃないか。頭の中に一瞬木の葉のように吹き飛ばされる戦友、えぐり取られ消し飛んだ鋼の船体、恐怖に怯える声。
海に落下するあの瞬間の感覚、舷側で見た巨大な亀裂、そして・・・。走馬灯のように映像が流れ込んできたが、気をしっかり持ち直して歩んだ。
俺は軽巡摂津に乗り込む。あの太平洋戦争の船とは構造がガラリと変わってしまったな。あくまで今回は硫黄島を監視する必要性が出てきたため移動するだけで、硫黄島に敵が来たからそこでドンパチをするわけでじゃない。
外では陸軍が「前を望めば剣なり 右も左も皆剣」と陸軍分列行進曲を歌っていた。こういうので戦意が高まるのだから歌というのはすごいなと少しばかり思った。
それにしても陸軍も随分変わったな。特に変わったといったら戦車だ。こんなこと陸軍に言ったら容赦なく殴られるだろう。大戦中玩具みたいなのであったあの戦車が、あそこまでごつくなるとは思わなかった。
同じく軽巡鞍馬では俺と同じような気持ちをした竹浜がいるだろう。
前回と違うといえば国際連合というのは加入している国が侵攻してきた国に軍を出し合いこれを撃退するという構造を持っている。これを国連軍というわけだが、かの国が今回は友軍とはなんというめぐり合わせだろう。実に18年前まで命を奪い合ってたんだぜ。
「おぉ旋風(八式戦闘機)だ」五年も前の戦闘機が国防の主力の一員でも大丈夫かなどと言われるが、最大速力は数年前の戦闘機と比べても遜色ない優秀な機体だ。まあヴァージョンをアップしたこともあるんだけどな。灰色と白の迷彩模様の機体に黄色いラインが入っている。
最新鋭戦闘機は遂にレシプロでは無くなっただなぁと感じながら、陸海空軍は1945年から随分変わったなと思う。
もう少しすれば俺も駆逐艦長にでもなれるのだろうか。
しばらくして紺碧の海原へ船はゆっくり進み始めた。そして先程まで陸軍分列行進曲を合唱していた陸軍が輸送船に乗り後ろをついてくる。
硫黄島は水などは少ないといっても本国からの補給により貯蓄もあるし、湾岸設備が整えられている。
そして俺達はまた面会できるわけだ。降りて18年、最後に見てから約8年の戦艦武蔵に。
あの日あの時の記憶がまた脳裏には蘇ってきていた。風景や声は焼きついて、こびりついて一生離れることはない。
そして姉妹艦の大和も俺は忘れないだろう。そして2日後硫黄島にたどり着いた。摺鉢山にでも登って上から見たい気分であるが、そんなことはしないし、勝手に行ったら何をされるかわからない。
そのため俺は甲板からその姿をしげしげと見た。欲を言えばもっと近くから見たかった。
レイテ沖海戦が終わって1月たったあの日の━━━━。いやその前に輸送船団を追尾した岩渕艦隊の話をするべきだろうか。
次回「記憶の中の武蔵」