前哨戦その2
前回はなんか誤字が所々あってすいません。
第3次渾作戦
さて前回のことを読んで何故、にほん兵が少ない燃料を減らしてまで渾作戦を実行しているのか?
と疑問に感じた人も要るだろう。
それはビクア島の日本兵が善戦していたからである。
ビクア島の日本兵は1万2000人の兵力しかいないのは前回述べたとおりである。
これに対し米軍がビクア島に送った兵力は3万人にのぼっている。
日本側の兵力をより詳しく言うと、アメリカ軍の上陸までに日本軍がビアク島へ配備できた兵力は陸軍10400名、海軍1947名を数えたが、その過半は飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊など後方勤務部隊が占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊を中心に、海軍陸戦隊を加えても4500名であった。
3万と1万2900名たらずが戦ってどうなるか?装備や戦略によほどの差が無い限り後者に
勝ち目は無いだろう。
しかしその歩兵222連体が当時の日本軍装備としてはかなりのものであった。
編成は9個歩兵中隊(うち第5、第9中隊はヌンホル島、ソロンへ配備)を中心に3個迫撃砲中隊、3個砲兵中隊、1個機関砲中隊、1個戦車中隊、1個工兵中隊他からなり、戦車中隊は九五式軽戦車9両を保有していた。長谷川高射砲中隊(野戦高射砲第49大隊第3中隊)は八八式野戦高射砲4門を有していた。野戦高射砲第49大隊は1941年に満州で編成され、1944年にニューギニアへ進出、うち長谷川中隊がビアク島へ分派されていた。
では戦いのほうはどのようなものだったのだろう。
5月27日、ビアク島南岸の日本軍陣地への猛烈な砲爆撃の後、アメリカ軍は南東方のボスネック海岸へ上陸した。進攻兵力は第41歩兵師団の第162歩兵連隊および第186歩兵連隊を基幹とする25000名であった。アメリカ軍はビアク支隊の長が大佐クラスであることなどから日本軍の兵力を4400名程度と過小評価していた。そして、ボスネック地区から海岸沿いに突き進んでモクメル飛行場地区を一挙に占領しようと図った。
しかしビアク島の地形は日本軍に利した。海岸を見下ろす台地には至るところに頑丈な天然の洞窟があり、将兵を砲爆撃から護っていた。28日、M4中戦車を先頭に前進するアメリカ軍第162連隊第2、第3大隊に対し、日本軍は十字砲火を浴びせ、歩兵の肉薄攻撃により戦車3両を損壊させた。師団長ヒュラー少将はこの戦況に狼狽し、第6軍司令官クルーガー中将へ増援要請を送った。クルーガー中将は直ちに第163歩兵連隊の増派を指示した。
翌29日、ビアク島に取り残されていた沼田中将は自ら第一線部隊を指揮し、アメリカ軍の先頭部隊への反撃を命じた。午前8時、岩佐洋中尉の率いる九五式軽戦車9両が突入、アメリカ軍も中戦車を繰り出して戦車戦が開始された。日本軍は戦車の大半を失い、岩佐中尉も戦死したが、アメリカ軍は包囲される危機に陥り後退を余儀なくされた。アメリカ軍は海岸を見下ろす台地を制圧しない限り飛行場地区の占領は困難と判断、31日には第163歩兵連隊がボスネックに上陸し、時間をかけての迂回作戦に切り替える。
何故急に数字を半角にしたんだというツッコミはしなくていい。
まあこんな感じで善戦していたのだ。
話を前回に戻そう。
参加部隊は6月12日 指定されたソロン沖バチャン泊地に集結した。
しかし、11日マリアナ諸島にアメリカ部隊が来襲した。もはやビクア島どころではない。
そしてついにこの事態をうけ豊田長官は13日17時27分「あ」号作戦決戦用意を発令し、渾作戦は中止された。陸軍部隊はそのままソロンへ残置された。
では結局この作戦は何を残したのか?簡単だ「あ号作戦」のために準備していたガソリン、重油など貴重な資源を消費してしまう。
こういうことだ。戦果は何も無い。
おまけに活気だっていた同胞たちもやや指揮が低下していた。俺も同じだ。
6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始した。同日、豊田長官はあ号作戦決戦発動を発令した。だが、基地航空隊はこれまでの戦闘でほぼ壊滅状態になっていた。
そう未帰還機が続出したのはこの後だ。
次回の前哨戦は航空機をメインに書いていきます。
山雲只一と仲間たちの活躍はしばらくありません。
すいません。