台湾沖海戦
今回の話は主人公に直接関係ないので説明(?)みたいな
感じです。一応ちょこっと出てきます。
さてそろそろ大海戦が始まる。
ここから先俺は自分自身の日記を見るのが嫌になった。非常に。ん?何で日記だって?俺の日記に書かれていたことをここに記してんだ。そこをお忘れなく。では語って
いこう。しかし、俺の日記だけでは全体の話を知るには不足だろう。まあというわけで、台湾沖海戦を説明してみよう。
10月10日及び11日
1944年10月10日 アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。
このときの空襲は沖縄本島では十・十空襲として記録されている。翌10月11日、アメリカ艦隊は南下してフィリピン諸島を攻撃した。
10月12日 上空に低い雲が垂れ込める中、第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。同日、日本軍はT攻撃部隊を投入し、アメリカ艦隊への攻撃を開始する。
海軍爆撃機「銀河」や艦上攻撃機「天山」、陸軍爆撃機「飛龍」などからなる航空機90機余りが出撃したが、照明弾による照明が雲のためまったく不十分であり、
攻撃に手間取った。そこへアメリカ軍の対空射撃を受け52機が未帰還となった。一方、第3艦隊の搭乗員は翌日の攻撃の事もあり、十分な睡眠が取れなかったと言う。
10月13日 第3艦隊は延べ947機を攻撃の為出撃させた。なお、太平洋艦隊司令部にあげられたウルトラ情報を回送されたことで、第3艦隊は豊田副武連合艦隊司令長官が
台湾におり、反撃を指示して兵力の集結を図っていることを察知していた。このため新竹にも攻撃が加えられた。ただし、第38任務部隊指令マーク・ミッチャーは
「数が多いので全ての飛行場を破壊するのは不可能かもしれない」と述べたと言う。
10月14日 第3艦隊は転送された情報により日本軍機が集結しつつあることを知った。また、早朝より攻撃を行ったが、前日より更に早く空襲を切り上げたため、出撃機は
146機に減少し、喪失機の増加から日本軍の抵抗が強化されつつあると判断した。日本側は敵艦隊は前日までの攻撃によって防御力を喪失したと判断して380機による
航空総攻撃を敢行し、昼間にも攻撃を行った。
この攻撃は昼間に行われたため、敵艦隊の上空を守る艦載機による激烈な迎撃と対空射撃をうけ、200機が未帰還となった。
(柳田が防衛庁戦史部の調査結果として引用した帰還数は194機)。この日を以って第3艦隊は台湾への攻撃を打ち切った。
作戦を予定通り終えた第3艦隊は、17日頃にはレイテ島近海に集結しつつあった第7艦隊のレイテ島上陸を支援するために、14日夜にはフィリピン東方沖に南下をはじめた。
ここで艦隊は2つのグループに分かれ、第4群は15日よりマニラ周辺の空襲を開始し、第2群と第3群は燃料補給の為に給油海域に後退しつつあった。
第1群は台湾東方沖に踏みとどまった。アメリカ軍は戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受し、第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被害を受け、味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった2隻の巡洋艦の曳航を命じ、これを囮として、追撃をかけてくるであろう日本軍に更なる打撃を与える準備をしていた。実際、志摩清英中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。
10月15日及びその後
日本軍航空隊は16日まで反復して昼夜問わず攻撃を行ったが被害は大きくなるばかりだった。しかし、航空隊からの電文は「空母を撃沈」「戦艦を撃破」といった華々しい大戦果を報告するものばかりだった。この間、大本営では前線部隊からの過大な戦果報告を信じて疑わず、そのまま集計して発表したため、大戦果を大本営発表する結果となった。
10月19日 日本軍は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。アメリカでは、投資家の一部が
大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。
しかし実際は、 航空機109機、搭乗員約112名
撃沈 正規空母エセックス 重巡洋艦キャンベラ 軽巡洋艦ヒューストン
大破 正規空母ハンコック
いつになったらまともな報告をするのだろうか。皆さんそう思うだろうが、この先大本営の報告で正確だったのは終戦を知らせる報告だけだったと思う。
だが今回の正式な戦果でも十分米軍に痛手を与えたのは確かである。
4日 第3艦隊は連続で攻撃を継続し、更にフィリピン空襲や防空戦闘も継続していたため、艦隊の将兵には疲労が蓄積しつつあり、第2群は群司令官が
ハルゼーに具申した窮状を認められ、空母バンカー・ヒルが後退した。そしてエセックス級空母の撃沈が退却に大きな拍車を掛けた。
ハルゼーの脳裏には士気に及ぼす影響があった。
15日 ハルゼーはニミッツに宛てて「ラジオ東京が撃沈と報じた第3艦隊の全艦艇は、3隻を除きいまや海底から蘇って、目下、敵方へ向けて退去中」という電文を発信した。
カール・ソルバーグによればこれはアメリカ側では有名な報告だと言う。
これに対し日本軍の損害は航空機 240機。この航空機の損失は以後の作戦に大きな影響を与えることとなる。
さて話を戻す。本土に無事輸送できた俺らは休暇が与えられず家族に顔を見せることもできないまま、リンガ泊地に戻った。おまけにこの作戦あんまり意味が
無かったらしく、この当時日本が1日に使っていた石油の10日分にもならず、金属も焼け石に水程度のものだった。俺らの記憶では寝室にまで石油が入ったドラム缶
が置かれていた。この時より日本は米軍に空襲されはじめていた。これに対し日本軍はある戦闘機を作成し、新型エンジンの開発に取り組んでいた。
また、魚雷にも新機能を追加していた。否。魚雷ではない。新兵器の作成はこの後の作戦に幸運を運んでくれるのか?