サイパン玉砕
俺達が訓練しているときサイパンでは絶望的な戦いが記されていた。
俺たちがリンガ泊地で訓練しているときサイパン島では守備隊が絶望的な戦闘を続行していた。
巧みに陣地を構築し善戦していたが米軍の圧倒的な火力によりじりじり兵力を消耗させていった。
24日 大本営はマリアナ沖海戦の敗北の為サイパン島の放棄を決定した。この時点で斎藤の指揮する第43師団が4000名、残りは2000名程度まで減少していた。
重装備は戦車が僅かに3両で野砲は全損。食料、水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他なかった。それでも日本軍は断固として抵抗を続けた為、
20日以来米軍の進撃は遅々として進まず、第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭された。
25日 日本軍のタンポッチョ山の防衛線を壊滅させるためアメリカ軍が猛烈な火力を持ち攻撃し始めた。この頃になるとアスリート飛行場が運用可能になり、
偵察機や爆撃機の使用が開始された。空の援護を得た米軍はそのまま防衛線を突破。島の7割を占領するにいたった。
「瓦礫だらけですよ。さすがにサルでもここにはいないでしょう」アーサー二等兵が言った。サルというのは日本兵のことだ。「猿はジャングルにいるんだ。こんな所に家を建てたのが間違いだったのさ」と仲間が口々に言う。「・・・今物音しなかったか?」「おいおいアーサー冗談はよしてくれ」でもあそこら辺から。アーサーが指を刺したのは瓦礫の山だった。仲間たちはアーサーの心配を取り除こうとでもしたのかそのトタンに近づいて「おい!猿はいるか?」
と叫んだ。その時トタンが目の前でひっくり返りそこから2人の日本兵が銃剣を頼りにぶつかってきた。「グハッ・・・」近くにいたハマンド軍曹は倒れた。
仲間があわてて乱射するも当たらない。次々に仲間を突き刺していく。アーサーは怖くなって逃げ出した。直後背中を熱いものがエグった。
このように日本兵は瓦礫のしたにも隠れゲリラを続けた。結局掃討されたが、米軍の被害も大きなものだった。
27日 日本軍第317大隊600名はアスリート飛行場奪回の為夜襲をしかけた。がそこで見たものは十字砲火であり最後は米軍に包囲され全滅した。
7月7日 とうとう日本兵は島の端まで追い詰められた。3000名に万歳突撃をさせようとしたが、兵力を残し可能な限り被害を与えるのが最善とし、
3個分隊を派遣。情報を得ようとして派遣したのだが勝手に突撃を敢行しあらかじめ米軍が準備していた12,7ミリの弾丸を受け36人はみな死亡した。
7月8日 深夜800名の十分な武装をしたものが集めらた乙部隊。そのほかの2200名の甲部隊が突入した。
甲部隊が敵の最前線陣地を崩壊させたら乙部隊が有力な火力で敵戦線を崩壊するというものだった。「万歳!!」「バンザーーーイ」日本軍の罵声が鳴り響いた。甲部隊は十字砲火によって進行を阻まれるも機関銃に飛びつくような肉弾攻撃を行い、第一前線陣地を崩壊させた。第二前線の米軍は第1前線のそれよりも強力な火力を備えており、甲部隊は30パーセント進行したところで全滅。乙部隊が甲部隊が崩壊させた陣地を進み第2守備ラインの米軍に攻撃を加えた。
しかし多勢に無勢やがて米軍戦車が後方に回り込み第3防衛線に突入と同時に全滅。
7月9日早朝 指揮官等のクラスは自殺した。日本守備兵は残り300名程度だった。先端が尖った鋭利なものを落とし穴に埋めるなどをしながら、最後までタコ壺陣地で
応戦したが米軍火力の前には無駄だった。12名の捕虜を除き全滅した。事実上ここにサイパンの戦闘は終了したのだ。
米軍の損害
66790人中5800名が死亡
17900名が負傷した。
これに対し日本側は
31629人中27000名以上が戦死
3000名が自決
1000名未満が捕虜となった。
3分の1以上が死亡もしくわ負傷した米軍は士気が下がるもサイパン攻略は日本に絶望をもたらした。
これで日本の1部は空襲圏内に入ってしまったのである。
とりまサイパンの戦いを書いてみました。
さてさて物語りも中間に差し掛かりました。
では皆さんご元気で。