↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

錆びたメダル

掲載日:2026/09/28




 暗いエントランスホールに、足音が響いていた。


 その昔、『黄金の脚』と呼ばれた男、小野沢。

 今は一晩で数千円の手当をもらう夜間警備員だ。


 深くかぶった帽子の影から、彼は巨大なポスターを見上げる。



『陸上界の至宝・横町浩介 現役引退記念展』



 懐中電灯の光がポスターをなぞる。

 男は胸を張り、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。


 二十年前、小野沢と横町は、ライバルだった。


 いや、正確には少し違う。

 横町は、いつだって小野沢の背中を追い続ける男だった。


 中学三年の夏。

 全国大会を目前に控えた、ある日。

 小野沢の右脚のアキレス腱は限界を迎えた。


 治療を終え、復帰はした。

 だが、あの日の走りを二度と戻ってこなかった。


 小野沢が挫折し、陸上界から消えていくのと引き換えにするように、横町は頭角を現した。


 世界選手権で、銅メダル。

 オリンピックで、入賞。


 横町が華々しい光の中を走り抜けた二十年間。

 小野沢は工場や警備会社を転々としながら、かつて自分が持っていたものを忘れられずにいた。


 過去の栄光に縋るように酒に逃げる日々だった。



「何が『至宝』だ」



 小野沢は誰もいない廊下で毒を吐いた。


 錆びついたのは、右脚だけではない。

 心まで完全に腐り落ちていた。


 横町の輝かしいキャリア。

 そのすべてが、小野沢には自分から奪われたように見えていた。




 ******




 記念展最終日。


 午前二時。

 閉館から六時間。


 人の消えた館内に響くのは、小野沢自身の足音だけだった。

 懐中電灯の光を頼りに、彼は特別展示室へ向かう。


 ガラスケースの中には、横町が獲得してきた数々のメダルやユニフォームが並んでいた。


 中央のケースには、二十年前のあの全国大会の金メダルが飾られていた。

 小野沢が右脚の故障で出場を断念し、横町が初めて手にした栄光の証だった。


 小野沢はガラスに顔を近づけた。

 懐中電灯の光を受けた金メダルは、二十年前と変わらず輝いている。


 その輝きが、彼には自分を嘲笑っているように見えた。



「本当なら、お前のものだった」



 背後から聞こえた声に、小野沢は弾かれたように振り向いた。

 懐中電灯の光の先に立っていたのは、二十年前から変わらない面影を残した男だった。



「よ、横町っ!? ……な、なぜ、こんな時間に?」

「ライトが眩しいよ。……小野沢なんだろ?」



 横町は目を細め、静かに笑った。

 小野沢は咄嗟に帽子を深めにかぶり直し、顔を背けた。



「立ち入り禁止だ。

 関係者でも夜間の無断進入は困る。今すぐ、出て行ってくれ」



 こんな惨めな姿で、かつて自分の背中を追い続けていた男と会いたくはなかった。



「明日で、ここも終わりだからな。

 最後に、一人でゆっくり見ておきたかったんだ」


「それに……。お前がここにいると聞いたから」



 小野沢の手が震えた。



「……何のつもりだ」


「俺を笑いに来たのか?」


「俺は……。こんなところで警備員だ!」


「満足か!」



 怒声が展示室に響き渡った。


 横町は、ただ静かに小野沢を見つめていた。


 その目を、小野沢は知っていた。

 二十年前、何度負けても諦めなかった男の目だった。


 だからこそ、耐えられなかった。



「笑うわけがないだろう。

 俺は、ずっとお前に謝りたかった」

「謝る? ……何をだ! 勝者のお情けか!」

「違う」



 横町はゆっくりとガラスケースに近づいた。

 そして、あの二十年前の金メダルを指さした。



「お前が脚を壊して棄権したあの日、俺はこの大会で優勝した」


「でも……。心のどこかでホッとしていたんだ。

 『小野沢がいなくてよかった。あいつがいたら、俺は絶対に勝てなかった』ってな」



 予想していたものとは、あまりにも違っていた。



「俺はお前の背中をずっと追いかけていた」


「どれだけ練習しても届かない。何度走っても、前にはお前がいた」


「もし小野沢がいたら、自分はもっと速く走れただろうか」


「……それとも、やっぱり追いつけないままだったろうか、って」



 横町は小野沢に向き直り、深々と頭を下げた。



「お前の影から逃げる二十年だった」


「お前の立つはずだった場所に、俺は立った」


「お前のいないトラックで……。勝ち続けた」



 小野沢は言葉を失った。


 自分だけが、奪われたと思っていた。

 自分は横町を『人生を奪った敵』だと思っていた。


 しかし、横町にとってもまた、小野沢という存在は、追い続けても届かない、重い呪縛だった。



「お前……。そんな風に思ってたのかよ」

「傑作だろ?

 世界で、メダルを取っても、俺の中の『一番』はいつだって二十年前のお前だった」



 横町は苦笑し、ポケットから小さな箱を取り出した。



「これ、持っていてくれないか」



 箱が開かれる。

 中に入っていたのは、表面のメッキが剥がれ、ところどころ錆の浮いた古い銀メダルだった。



「これって……。」

「中学のとき、お前に初めて負けたときの銀メダルだ」

「……あの地方大会の」

「覚えていてくれたのか」



 横町は少しだけ笑った。



「俺の原点だよ……。

 引退するにあたって、これはお前に渡すべきだと思ったんだ」



 小野沢は錆びたメダルを受け取った。

 手に伝わる金属の冷たさと、ずっしりとした重み。


 そこには、小野沢が忘れていた時間が詰まっていた。


 かつて純粋に風を切り、誰かと競い合った。

 ただ走ることだけに夢中だった頃の、自分自身だった。



「……困る。こんなものを貰っても」

「分かってる。

 でも、お前がいたから俺は走れた。それだけは伝えたかった」



 横町はそう言うと、満足そうに微笑み、小野沢の肩をぽんと叩いた。

 そのまま振り返ることもなく、静かな足音を立てて展示室を去っていった。


 懐中電灯の光を当てる。

 くすんだ銀色の奥に、かすかな輝きが残っているように見えた。


 それはメダルの輝きなのか。

 それとも、自分の中にまだ残っていた何かなのか。


 小野沢には、もう分からなかった。



「俺も……。今度こそ、走らないとな」



 小野沢はメダルを強く握りしめ、深く息を吐いた。

 右脚の傷跡が、久しぶりに疼いた。


 かつてなら憎んだ痛みだった。

 だが今は、不思議と嫌ではなかった。


 帽子を被り直し、小野沢は背筋を伸ばした。



「そうさ、お前のように……。」



 夜明けまでは、まだもう少し時間がある。

 彼は警備員の足取りで、ゆっくりと、しかし確実に、次の巡回ルートへと歩き出した。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。