マドカはぼこぼこ
あのね。人をね、人を殺しちゃったんだよ。
ようやく無意味な包帯が取れ、潰れて常に白目をむいた右目と死に損ないのアンパンマンをさらにぼこぼこにボコしたみたいな、薄紫色に腫れた右半分の顔を晒してマドカは無表情に俺ん家の玄関先でそう告げた。
左半分の顔はまあまあどこにでもいるようなやつだ。ただ、黒目が大きくてぷくっとした頬はちょっと猫に似てて、たまに首を傾げる癖とか意外にも柔らかい唇は可愛いとこもあるんだぜ。
ヤニカスの部屋の壁紙みたいな色したセーラー服を着たマドカは無反応の俺を見て再び全く同じ台詞を繰り返した。
マドカは9歳の時にヤク中だった前の前の親父から5cmほど舌をちょん切られて牛タンよろしく塩とレモンをお供に焼かれて食われてしまったため実際は
「あおえ、ひおをえ、ひおをこおひひゃっひゃんひゃよ」
と言ったのだが俺はいつも彼女の門限である18時迄はマドカとずっと一緒にいたから彼女が何と言っているのか理解することができた。
ちなみに舌をちょん切られたマドカはこれ以降、何を食べても甘味を感じることが無くなったらしい。ケーキを食っても無味無臭のスポンジを食っているみたいに感じて金属の食器類を使うと舌を切られた時の味とジョリジョリという激痛と共に、これまでマドカと共にすくすくと育ってきた舌がナイフで削がれていく感覚が蘇るのだと初めてラブホの「ウェスタン」に行った時に言われた。「ウェスタン」のフロントの婆は俺たち未成年を見過ごしてくれる慈悲深い女だ。
今日は四月一日だ。悔しいけれど俺は思わず笑っちまったんだ。嘘じゃないぜ。いらすとやで「爆笑」と検索すれば出てきそうな馬鹿みたいな顔になっていた。マドカの口から冗談が聞ける日が来るなんて思いもしなかった。万札に描かれてる何やったのかは知らない程の偉人が目の前に現れていきなり「布団が吹っ飛んだ!」なんて真顔で言ってきたら笑うだろう?
馬鹿笑いする俺と対照的にマドカは笑わなかった。俯いて体を震わせて「私、どうしよう…」と涙を浮かべ始めた。機能していないと思われた右目からも涙がボロボロと溢れ出す。
徐々に俺もアメリカのデカい双子ビルの片割れに飛行機が突っ込んだと報道している背後の生中継映像で、続いてもう一機の飛行機がもう片方のビルに突っ込む瞬間くらい嘘みたいだけど受け入れがたい真実があるってことに気付いてきた。
「マドカ…マジ?来年受験なのに…」「うん、受験。頑張んなくっちゃあ」「そうじゃぁなくってよぉ、殺したって何だよ?人、殺したら内申に響くんじゃねぇのお?」「うん…」
俺は言葉とは裏腹に、内申点なんてどうでも良かった。マドカは心理カウンセラーとか何かの学校への進学を志していたがその凶器のような顔面で「私のような被害者をこれ以上生みたくないんです」と言えば何よりも面接官に吐き気を催す程の説得力を伴うだろうしマドカは見たものや聞いたことを全て記憶できる「超記憶症候群」なんて性質を持っていたため学校での成績は「道徳」以外完璧だった。もっとも、そのせいで前の親父からアソコを舐められ「イチゴみたいな味だねぇ〜〜?」などと言われたことや今の親父のオサムから一晩で6回犯され、「今の」母親に告白して堕胎した直後、麻酔で意識が朦朧としている中でその母親という役目を果たしていたナカヤマが「このクサレマンコが」と呟いていたことなんていうのも記憶しているらしい。実の母親であるサイトウが「ごめんね」と言いながら自分を施設へと放棄したことも。
「とりあえずよお、殺したって何だよ?誰を殺したんだよ?今からそこ連れてけよう」
誰を殺したかなんてのは分かっていた。
「うん…オサム…うちの、キッチンにあるよ…」
俺たちはオサムを見にマドカの家へと向かった。マドカの高速道路に落ちた雑巾みたいな凄まじい顔面と、同じく廃墟のラブホテルに落ちているコンドームのような服装に通行人は見て見ぬふりをする。なかには「ああ、神様。どうか先程の記憶を私の心から奪い去ってください」なんて願った奴もいるかもしれない。俺はマドカと手を繋いだ。ぞっとするほど冷たかった。ほんの少しだけ残った僅かな1ミクロン程の温もりが余計にその冷たさを引き立たせた。
マドカが俺たち聖・中田磨知琉田中学校、通称「ナカダマ」に転校してきたのは2年生の頃だった。マドカの顔は当時から左右で互い違いのマドカのままだったから当然教室の中はザワついた。普通は「妖怪」だの「化け物」だのとシュプレヒコールを浴びせられるところだろうがマドカのそれは本当にB級ホラー映画にも出てこないようなモノホンの「妖怪」だの「化け物」だったせいでマドカへ半径2m以内に近寄る者も、声を掛ける者もいなかった。例外は彼女の席の前後左右に座った不幸な連中なのだが、そいつらはいつも「私は神を信頼する」と呟いて航空事故を起こした飛行機のパイロットみたいな顔をしていた。
俺は、初めてマドカの不揃いな顔を見た時からマドカの虜だった。俺は俺がもっとガキの頃から何もかもぼこぼこにしなくてはいけない性分だった。タバコを吸った俺を見つけた教頭のホサカもぼこぼこにしたし掃除当番をサボった俺を教師にチクったスガワラもぼこぼこにしたし路上喫煙している地球上のどこにでもいるモブみてーな顔したリーマンのオッサンもぼこぼこにした。
当然年少にもぶち込まれたこともあるが「優等生」だった俺は即「更生」していて年少を出たその足で塚越にあるヨシダ・スチール工場に住み着いていた猫の腹を切り裂き、まだ息のあったそいつを川へとぶん投げた。
マドカはもうぼこぼこだったから俺がぼこぼこにする必要など無かった。マドカは俺がぼこぼこにしなくとも日を追う事にオサムからぼこぼこにされていくというその事実が俺を安心させた。
俺は2時間目の30分の休み時間「にこにこタイム」で「夏目漱石全集 第二巻」なんてものを読んでいるマドカに声をかけた。
「お前さー、顔面ぼこぼこだよな。ゲゲゲの鬼太郎でもそんな顔の妖怪出てこねーぜ」
クラスの連中の大半は校庭でドッジボールに興じていたが教室内に残っていた数少ない連中から急に会話と笑顔が消えたのが分かった。マドカは、少し時間を置いて
「うん、私、ぼこぼこ、顔面ぼこぼこ」
ちょっと笑いながら答えた。俺はまだマドカを知らなかったから半分舌無し人間の言葉を上手く聞き取れず4回も聞き直した。右半分の顔の表情筋は辛うじて機能しているらしく擬音をつけるのならば「ギギぃ」という感じで唇と目が引き攣れた。笑顔を作っているらしい。左半分は、普通の女のそれだった。俺はこいつといるとぼこぼこにしなくて良いんだ。だって、マドカは勝手にぼこぼこにされてくれるから!それからマドカは美しいまでに反吐が出そうな境遇を語った。内容はまあ大体お察しの通りだ。顔の右半分が「僕の顔をお食べぇ」なんて死に損ないながらも美しい自己犠牲を見せる自分へ酔って射精しちまいそうな正義のヒーローみたいな顔になった理由は聞いたけど忘れた。多分、マドカは前の前の前の前の前のだかは知らないが、ともかく実の親父とセックスして膣壁からマドカを産み落としたオフクロである張本人が、娘であるマドカの顔の右半分へ360℃のキャノーラ油をぶち撒けたとか、そういう理由だったと思う。
俺は声をかけたその日の16時49分にマドカを旧校舎の理科室に誘い込んでセックスをした。
「私、おとうさん以外とせっくすするのはじてて…」
などと無感情に足を広げたマドカのあそこへ俺は俺のあそこを突き立てた。マドカのあそこもぼこぼこの感触がして挿入して僅か32秒で俺はマドカのボーボーの陰毛へぶっかけた。
「あのねえ、ひどいよ、キッチン。引かないでね」
凍り付いた手のマドカがそう呟く。
「ぼこぼこか」「ううん、ぼこぼこじゃない。ざくざく。ざっくざくのざくざく。むらまさで刺したから…」
マドカの家のキッチンにはもはや戸籍の上ですら親父でも何でもなかった、以前マドカのオフクロをセックス漬けにして家に住み着いていたミリオタのそいつがマドカをざくざくにするためだけにAmazonで購入した"むらまさ"と呼んでいる刃渡り27cmの品番:DY27001の柳刃包丁があった。
「むらまさで刺したら、ざくざくだよな。ボロボロのボロッボロだろう。凄いな。お前」「うん…」
握っているマドカの手の力が強くなる。相変わらず京都府民のよそ者に対する態度並に冷たかったがその奥に微かな鼓動を感じ、マドカが生きているという事実を伝えてくれる。いつもの俺ならば握っている手の持ち主の顔がぼこぼこでなければぼこぼこにしていたであろう場面だが、俺は俺の左手でマドカの右手を握っていたため、マドカの顔は相変わらずぼこぼこに見えたからぼこぼこにしないでマドカの家へ辿り着くことができた。
模範的な東京の一軒家だ。鉄筋でできてダークグレーの壁色をした二階建てのそれはマドカの家の左右にも、奥にも、壁色が白だったりショッキングピンクだったり表札に猫が装飾されていたりと各々の自己主張を繰り広げているが造りが同じ建物が乱立していた。それはあるドデカい不動産屋が建売として製造されたコピー品を生み出し、この街に新たな地番を誕生させた新たな住宅街だということを示していた。
鍵の掛かっていないドアをがちゃこんと引くと俺とマドカは土足のままキッチンへと向かった。こんなゴミが捨てられていない、何があるか分かったもんじゃないもはや床が床としての機能を成していない床を歩くことなんて拳銃無しでコロンビアの街を歩く警官のようなものだ。
俺はマドカの家へ入るのは初めてだったがキッチンの場所はすぐに分かった。玄関のドアを開けて右に奥へ2番目のドアが開け放された場所だろう。鉄のような病院と年少で嗅いだことのある匂いがしていた。
俺はマドカの手を振りほどいて先立ち、臭いの元へ走った。
「あっ、こー君…」
とマドカが呼び止めたが関係無かった。そこにはオサムであっただろうオサムがいた。もはや彼が存在していた証拠はオサムが常飲していた安焼酎「ビッグマン」しか存在しておらず「穴」という物が体であったそれを覆いつくしてホルモン屋で見るハチノスみたいになっていた。全身は大量の血と、ほんの少しの何だか分からない黄ばんだ何かの液体に塗れていて所々白い骨とかつてマドカをぼこぼこにしていた筋肉を露出させており、鶏肉のスジのような部分も針金みたいにビヨンと露出していた。
俺は一度オサムにぼこぼこにされたことがある。その日もいつものようにマドカと「ウェスタン」に向かっていた。俺のあそこはもうギンギンだった。すると隣を歩くマドカが「ひょう」という声にならない声を漏らした。マドカの左目の視線の先には笑っちまうほどハルク・ホーガンに似た、タンクトップを着て元は何色だったのかは分からない土色に汚れまくった短パンを履いた黄色人種のオヤジが「ビッグマン」を片手に立っていた。マドカは硬直して動かなくなっていた。
するとオサムが俺の目の前へと間違えたステップで立ち塞がり「ふへぇ」と笑った。漏れた息からは腐った鯖に下痢便のスプレーをふんだんにまぶしたような臭いがした。
「我が名はけんしろ〜〜う!!!!正義の名のもとにぃ!!お前に鉄槌をくだすぅ〜〜〜〜!」「あたぁ!!」と握り拳が俺の鼻の中央を貫く。「お前はァ!!!もう!!!死ぃんでぇいいいいるう〜〜!!!!!」俺はその一発で鼻の骨が砕ける音がして、漫画みたいに電柱の下に倒れ込んだ。もはやどこから流れているのか分からない血があまりに大量過ぎて、それが自分のものだと分かるまでに少し時間がかかった。反撃しようにも頭の中がハリケーンにあったオクラホマ州みたいにぐるんぐるんと蹂躙されて立ち上がることができなかった。
「んんんけんしろう選手ぅぅうぅ、さらにストンピング!!!!!ストンピングですぅぅぅぅぅぅぅううううぅぅう!!!!!」
オサムは不似合いな格好に履いていた革靴で俺が最も狙われたくない砕けた鼻へと的確に蹴りを入れてきた。俺の頭の中に電撃が走った。襲ってくるボロボロの革靴が数十回目の蹴りを入れ視界を覆うその瞬間、俺は新卒であろう若い痩せた警察官がこちらを見て見ぬふりをしてそそくさと通りの向こうへ去っていくのが見えた。
失ってほしかった意識は残念ながらハッキリしたままで、数回の足蹴りを体験した俺は死体以上に死体だった。「うー」と呻きたかったが食道の中にも血が溜まっているらしく「こぽこぽ」という情けない音が響くだけだった。
俺へ理不尽な暴力を振るうという快い疲労感に襲われたオサムはビッグマンを口に含むとマドカを隣へ引き寄せ、頬にキスをして「三丁目の夕日」に出てくるような仲良し親子みたいに帰って行った。次の日マドカは顔の右半分に包帯をぐるぐる巻きにして教室へやって来たらしい。俺たちは全員マドカの顔の右半分なんてもうこれ以上ぼこぼこにされることなんて無いと思っていたし、それよりもひどい状態なんて思いつかなかったから包帯なんてあるようで無いようなものだった。俺はというと砕かれた鼻の再建手術跡の経過を見るためにゴミ以下の生活を病院で送らされていた。
俺はキッチンで「ぼろきれ」と呼んでしまうとぼろきれに対する侮辱と呼べるほどの状態になったオサムを眺めていた。マドカが俺の右側へ立ち、俺の右腕を握る。
「あのね、秘密にしてたむらまさが見つかったの…それでね、オサムはむらまさを私の肛門に入れようとしたんだけど、隙を見てオサムの飲んでたビッグマンの中身をぶちまけてやったんだ…そしたらあいつ、アル中だから、それで、こぼれたビッグマン犬みたいにベロベロ舐め始めてさ、そしたら、今かなって思って、むらまさで最初に心臓のとこ刺したんだ、そっから、目、口、腕、足、腹、刺したら、動かなくなった。オサム」
「そっか、動かないんだ、オサム」
なんと答えていいか分からない俺は馬鹿げた返答をしてしまう。少しの沈黙が流れる。三流文学者であればこの時間を「永遠のような」などと表現するであろうがこの沈黙はせいぜいただの5秒程度だろう。そんな永遠など存在しない。
沈黙を裂いたのは、オサムだった。
「こほーーーーーーーーーーーーーーごばぉあ ーーーーーーー」
俺はまだオサムが立ち上がってくるように思えてギョッとした。だがそれは肺に残っていた最後の空気が声帯を震わせたに過ぎなかった。ひょっとするとマドカが俺の家へやって来た時にオサムの息はあったのかもしれない。本当にオサムがオサムでなくなったのはつい先程だったのかもしれない。そう思うとオサムの生命力にゾクンと震えた。
「こー君、私、どうしよう…このままじゃ学校受かんない。ごめんね、こー君」
マドカが謝る理由は分からなかったがこの国では未成年のガキでも人を殺せばただじゃ済まないってことを先人達が証明してくれている。もしメディアにマドカの顔写真が流出しようものなら特徴のあり過ぎる程のマドカの顔だ。もう人生は完膚なきまでに打ちのめされるだろう。
「とりあえずさ、逃げるしかねーべ。金、金は?」「無いよう。オサムがビッグマンとさけるチーズ買うからお金なんて無いよう」「そっか…」
オサムの死体の前で思案にくれた。俺とマドカはここにいるべきではない。だが、ただのクソガキでしかない俺たちの全財産など二人でかき集めてもアパホテル一泊もできないほどであろうことは想像に難くない。
「あっ、俺のオフクロ、金あっかも」
俺は今日が四月一日であることを思い出した。今日の午後には俺のオフクロが入信している、患部に手をかざすだけで癌が治るとかほざいている新興宗教にお布施をしているであろう。オフクロはもう既にゆうちょ銀行からあまりにも貴重すぎる現金を引き出しているかもしれない。いや、そうに違いない。
「うっそ、こー君、ラッキーかもね」
笑顔を失っていたマドカが「ぎいぃ」と笑う。俺たちはオサムを放っておいて二人で俺の家へと戻った。先程マドカの家に行く途中で立ち話をし、こちらを見て眉をひそめていたモブのオバハン共が今度は俺たちが戻ってきたのを確認すると蜘蛛の子を散らしたように走り去った。三輪車を漕いでいた子供がマドカの顔を見て「ひっ」と声を出したまま動かなくなった。俺たちは気にしなかった。俺は、顔面半分エレファント・マンのマドカを気にしたことはなかった。
国道から少し入った路地にある俺の家へと辿り着く。ぼろぼろの木造借家。築54年。オフクロが寝返りを打てば軋んで応えてくれるバカ正直なこの家で俺は育った。この家で何が一番高価なのかといえば、浄土真宗であったにも関わらず新興宗教にハマったオフクロが死んだ爺さんのために購入した真っ白なジャイアント馬場みたいな存在感を放つ巨大な仏壇だ。
そして、俺はその引き出しにお布施が入っていることを知っていた。予想通り「我が民へ」とぺんてる筆ペンで書かれた白い封筒が姿を現す。べっとりと糊付けされたそれを俺は乱暴に破く。13万8000円。それは俺のオフクロが月に稼ぐ約9割の金だった。信じられないかもしれないがガキだった俺はそれがとてつもない爆弾みたいで強烈で、眩しい輝きを放つダイヤモンドのように見えたんだ。俺はそのダイヤモンドの中身をひとつ残らずポケットにねじ込んだ。
「マドカ、逃げよう。南へ行くんだよ」「こー君、やったね。なんで南なの」「バカ。逃げる時は南って決まってんだよ」「へー、さっすがこー君」
俺たちは手を繋いで駅へと向かった。マドカの指は先程よりも温度が感じられず、何だかこれはおかしい。と思うようになった。マドカはいつも「ウェスタン」ではどどめ色の乳首とアソコを晒すんだがそこは常夏のように暑かった。俺はマドカのあそこへ俺のあそこを挿れると決まって必ず頭の中で同じくBGMが流れていた。「んとこなぁ〜つのらくえんべいべっ んとこなぁ〜つのさんしゃいっくれぃぜー」
粘っこい東南アジアの雨季を思わせる質感のその曲は「ウェスタン」だろうが旧校舎のトイレだろうが、俺の部屋(リビングと共用しているのだ!)だろうが、数百回とそれぞれ別の義父や他人から犯され続けてきたマドカの微かな喘ぎ声をかき消した。
俺たちは駅へ着いた。歩いていればマドカは温度を取り戻すかもしれないという淡い期待はダイナマイトで打ち砕かれた。俺は南へ逃げればいい、などとほざいたがIQが77しか無い、いわゆる「ボーダー」という類の俺はどの電車に乗れば南へ行けるかが分からなかった。この街から一切出たことが無く、狭い街を転居し続けるマドカも同じだった。俺達は結局6分後に3番線から出る電車に乗り込むことを決めた。理由は、一番待ち時間が少ないからだった。
マドカは3番線のホームへ辿り着くまでに明らかに様子がおかしかった。常に赤く熱を孕んでいる右半分の顔面も、猫っぽい普通の顔をした左半分の顔のどちらも番町皿屋敷に出てくるお岩みたいに真っ白だ。それに、一本電車を乗り過ごしたせいで私立の中学受験に間に合わなかった経験を持っているため小走りをしなければホームへ辿り着けない俺だ。当然この日もマドカのことなど構い無しに小走りで3番線へと向かったが着いてきたマドカは全く息切れなどしていない。いや、息をしていないようにも見える。「マドカ、お前おかしいんじゃねーのか。お前、水泳でクロールもできねぇくらい運動神経やばいべ。なのに、息切れもしてねぇー。これってさ、絶対絶対おかしいって」「うん…」
3番線の安いベージュ色のベンチで俺の話を聞くマドカはマドカのようにも見えたがマドカではないように見えた。それが俺をビビらせた。俺はマドカをぼこぼこにしようと思ったけど、できなかった。俺は言葉を続けることができなかった。
「あのさ、こー君はぼこぼこじゃない私と会ってたら私のことぼこぼこにしてた?」
唐突にマドカが口を開いた。
まもなく、さんばんせんのほぉーむに、電車が、参りまぁーーす。
「当たり前だべ。俺はマドカがぼこぼこじゃなかったら」
黄色い点字ブロックの内側まで下がり、電車をお待ちくださぁぁぁーーーい
「俺がぼこぼこにするだけだろ。決まってんだべ」
「うん、ありがと」
やって来た緑色の電車に乗り込む。聞いた事のない終点まで逃げよう。マドカの左手を繋いで電車の席へ座った。マドカのまともだった左半分の顔を見てしまい、俺はマドカをぼこぼこにしそうになったが隣にいても分かるほど腫れ上がった右半分の顔の膨らみが見えたのでぼこぼこにするのは止めた。
終点へ辿り着くまでにかかったのは45分後のことであった。名前も知らない駅でぼこぼこのマドカと共に降り立つ。目の前は、海だった。様々な生物、ないしは死体を内包する、海。それらが黝い渦となりざぱぁぁん、ざぱぁぁああああんんんと音を立てて波打つ。
「わあ、こー君、これが南?私、海って初めて見た」
「オメーだせぇな。だからオサムとかナカムラとかマサトとかハシカワからぼこぼこにされんだろ」
ふふ、とマドカは笑う。先程までの異様であった様子とは異なり生気を取り戻したように見え俺は少し安堵する。
「ね、こー君。海行こ。海」
俺が返答する間もなくマドカは海へ向かう道へと走り出す。ちょ、待てよとどこぞの元アイドルグループのような男の声が俺の口から聞こえる。マドカは、海に入った。薄汚れた靴と靴下を脱ぎ、薄汚れたスカートをたくし上げてひゃっ、ひゃぁっ、と、「ぎぎぃ」と笑いながらはしゃぐマドカは醜く美しかった。
俺は海というものがぼこぼこにできないからほんの少し怖かったので、波打ち際でマドカを見ることしかできなかった。まだ四月なのだから波打ち際でも気温は寒く、水は冷たそうに感じたがマドカは何も気にしていないように見えた。
ひとしきりはしゃいだ後でマドカは裸足のままこちらへ帰ってきた。
「ねえこー君、海ってもっとドン・キホーテの香水コーナーみたいな匂いすると思ったんだけど、臭いねえ。なんか、ライフの海鮮コーナーのバックヤードみたい」「当たり前だべ。同じ海のもんだ」「そっかあ」
俺は足りない脳のシナプスを全力で使役し、先のことを考えていた。まずはどこか宿を見つけるべきだと。この駅は辺境の地にあり、近隣にはホテルはおろかコンビニも見当たらない。
逃亡者には安全地帯が必要なのだと、何かの映画でも主人公が言っていた。安全地帯を探さなくては。
「マドカ、街に行くぞ。ラブホでも民宿でも空き家でもいいから、寝れるとこを探すんだ」「どうして?」「バカ、それが良いからに決まってっぺや」「そっかあ、さぁっすがこー君」
俺たちはさっき降りた駅へと戻った。俺は駅の前に暇そうなタクシーがあったことを覚えていたんだ。マドカは濡れた足を気にしてか裸足のままだったから歩く度にじゃりじゃりと舗装されていない道が湿った音を立てた。
喫煙所でスポーツ新聞を読んでいたタクシーの運転手へ声を掛ける。
「あの、どこか泊まれるとこへ行きたいんですけど」「泊まれるとこ。この辺には無いよ。ラブホとか、ホテルってことだろ」「とりあえずまあ、シャワーを浴びれて眠ることができればいいんです。二人分」「ふうん」
そのオッサンは俺など全く見ていなかった。隣にいるマドカを裸足の足の爪先から髪のてっぺんまでジロジロと見渡した。
「まあ、街へ出れば何でもあるさ。少し遠いがいいかね」オッサンは吸っていた赤マルを灰皿ではなく地面へ放り捨ててナイキのスニーカーでひねり潰しながら言った。
そうして俺とマドカはタクシーへ乗ったんだ。運転手はマドカの顔面をミラー越しにジロジロと見ていた。俺は気にせずマドカの手を握ると、運ちゃんはわざわざ大金を払って安いドラマを見せられた客のようにチッと舌打ちをした。マドカの手は冷たい。冷たすぎる。おかしい。それに、この海に似た腐臭は何だろう。と考えそれを口に出そうとした瞬間
ぼこっ
と工作室で木材を金槌でゆっくりと叩いたかのような音が車内に響いた。運ちゃんは事故だとでも思ったのかタクシーを停める。俺は音がしたマドカの方を見る。
マドカの左半分の顔の、眉毛の上あたりにボコりと穴が空いていた。骨から無くなっているらしい。ドクンドクンと脈打つ灰色の脳味噌が丸見えだ。途端に海よりももっと深い異臭が車内へと立ち込める。
ぼこっ
更に音が響くと着ていたセーラー服もろとも、右肩と右胸の中間辺りに円形の穴が空く。マドカは恐怖とも興奮ともつかない顔をしてただただ「え、え、え、」と情けない声を出した。
タクシーの運ちゃんが切れた。
「オイ、あんたら何なんだ!何かの悪ふざけか手品かゆうちゅうぶかてぃっっくとっくっか!?俺をぉう!巻き込まぁんでくれぇ!」
後部座席のドアが開けられる。ここで降りろということらしい。俺はマドカの手を握り、タクシーを降りた。金は請求されなかったがぼこぼこにしたかったオレは発進間際のタクシーを思い切り蹴り、ドアをへこませた。タクシーは止まらずそのまま街へと消えて行った。
「こー君、あのさ、オサムを刺した時、最後に"ふぇさめふしおんあへままぬ"って言ったんだ。あれ、呪いの言葉だったのかもしれない」
「え?何て?」
「ふぇさめふしおんあへままぬ」
「え?何て?」
「ふぇさめふしおんあへままぬ」
「え?何て?」
「ふぇさめふしおんあへままぬ」
俺たちは何度かそのやり取りを繰り返したが「その部分」だけは結局聞き取ることができなかった。そんなやり取りをしている間にもマドカの体は
ぼこっ
ぼこっ
と「穴」が空いていき、左足の根元、右のおっぱい、右側の頬などが失われていった。特に左足を「持って行かれた」ことが大きいらしくマドカはもう一人では歩けることができなかった。マドカは左手で俺の右半身を掴み、さながらフルマラソンを走り終えた選手のような、びっこを引いた歩き方でしか「歩く」という行為ができなくなっていた。俺はマドカの顔を見た。こちらから見るとマドカの顔は普通の女とほぼ変わりは無かったがぼこにする気にはなれなかった。ぼこぼこにする代わりに、セブンイレブンでフレンチトーストと揚げ鶏を買って食べさせた。甘味など感じるはずもないのにマドカはフレンチトーストを食べて「甘い」と言った。
結局俺たちは数台のタクシーを乗り継ぎ、マドカの見た目と悪臭のせいで数回追い出された後で無人受付タイプのモーテルを発見し、そこへ泊まることにした。マドカは既に右腕を失っており右っ腹にも風穴が空き小豆色の肝臓が顔を覗かせて凄まじいまでの悪臭を放っていた。俺はそのせいで、マドカをぼこぼこにしたいと思っていたけどぼこぼこにできなかった。
「マドカ、お前、シャワー浴びんなよ。ふやけて、穴が広がるかもしんねっから」「でもさあ、足だけは綺麗にしたいんだ。海から上がった時から裸足だったから」
右手で持っていた靴と靴下は右腕の消失と共にどこかへ落としてきたらしい。
「まあ、足くらいならいいかなあ」
「ありがとう、こー君」
マドカはふらつく足取りでわざとらしく俺の頬へキスをした。台風の直後のような川の匂いがした。
俺の体を貸しながらマドカを風呂場へと連れていく。シャワーを出す。まだお湯になっていないにも関わらずマドカは自分の足へと水をバシャバシャとかけ始める。当然隣にいた俺の足にも水がかかり、あまりの冷たさに「ひゃっ」と情けない声を上げてしまったのでマドカをぼこぼこにしたかったのだがその瞬間マドカの心臓辺りの肉が
ぼこっ
と音を立てて消えたので俺はマドカをぼこぼこにするのを止めた。マドカは、残された数少ない顔面で笑顔を作った。
「シャワーを浴び」終えた時にはマドカはマドカの体をしていなかった。もはや左足は完全に失われ両手も二の腕あたりまでしか存在していない。顔の半分ほども穴が空き、呼吸する度にヒューヒューと音を立てた。穴が空いて見える脈打つ心臓だけが残酷に、もはや自立することも不可能なマドカの「生」を告げた。俺はマドカをベッドへ横にさせた。不思議と血は全く流れていなかった。
くだらないAVもTVも見る気になれず俺も穴だらけのマドカの隣へと体を横たえた。失神するのではないかと思うほどの臭いがした。俺の家の隣の借家に住む生活保護のオッサンが自殺して数週間後に発見され、運び込まれた直後に嗅いだ匂いと同じだった。
「こー君、私、死んじゃうのかなあ」
「バカ、何言ってんだオメー」
「オサムを殺した罰なのかなあ」
「あんなヤツ死んで当然だべ」
「こー君、せっくす、しようか」
残された舌と口で会話をした。
「こー君、せっくす、しようか」
「バカ、お前、もうマンコも穴空いてっから、したくてもできねえべ」
「こー君変なの。マンコって穴が空いてるもんなんだよ」
俺は異臭で気絶したのかあまりに現実離れしたことが起こった現実から逃避するために脳がシャットダウンしたのかは分からない。ぼこっ ぼこっ と微かに聞こえる中で時間をすっ飛ばした俺は名前も知らないモーテルのベッドの上で意識を取り戻した。
マドカはもうマドカではなかった。
残されているのは顔の左半分、心臓、腸、そしてよく分からない名前も知らない臓器の固まりだった。南米の麻薬戦争で「見せしめ」として街中に置かれる拷問されきった死体の断片に似ていた。
ぼこっ
よく分からない名前も知らない臓器が「持って行かれ」る。
とっくに働きを終えていた心臓は鳥貴族のバックヤードで見る、焼かれる前の砂肝の色になっており、いじらしく最後まで活動していたと思われる腸の蠕動も今まさに終了し、昨日食べたフレンチトーストがそのまま中に残っているのが見えた。
それでもマドカはほんの少しの生命の灯を失っていなかった。俺はぼこぼこになっていない左半分だけの顔だけになったマドカを見てぼこぼこにしそうになったが、俺がマドカを見ていることに気が付くと
こー君、ぼこぼこにしないでくれて、ありがぼぁ
と言って顔を全て持って行かれたのでぼこぼこにできなかった。
骨は残らなかったが、よく見ると爪だけが残っていた。俺は、手足合わせて20本の爪を探したが4本しか見つからなかった。もしかすると初めからマドカの残り16本の爪など無かったのかもしれない。目の前で残されていた臓器も「ぼこっ」「ぼこっ」と次々と音を立てて穴が空き、もうそこにはマドカは居らず「穴」しか存在していなかった。
俺はマドカの4本の爪をポケットに入れ、エアシューター式の現金決済をシカトしてドアをぶち破り、モーテルの外へ出た。モーテルを出てすぐ目の前にあったラーメン屋でまずい醤油ラーメンとザーサイを食べ、タクシーを拾い俺の家まで帰った。3万円かかった。
家へ帰るとオフクロは「教祖様が」「悪魔が」とか何とか、かんかんに怒っていて俺を何度も殴った。俺はオフクロをぼこぼこにした。オヤジは俺の事など見ていないとでもいう風にいつも通り安酒を飲み、屁をこきながら録画していた「ガキの使いやあらへんで」を観ていた。俺は、その後年少に入れられることになった。モーテルを、金を払わずに出たという罪のせいだ。誰もマドカという人間を知らなかった。マドカの親父のことも、誰も知らなかった。俺はマドカをぼこぼこにできなかった。
俺はそれから67年後に死んで土に埋められるまで、もう空を空と思えなかった。




