第六章 カンナエの悲劇
戦争開始から二年後。二八四九年。
カンナエ星雲は、シグマ・ケンタウリ星系から十七光年の位置に広がる巨大なHⅡ領域――電離水素領域――である。
中心にある数個のO型巨星が放つ強烈な紫外線が、周囲数十光年に及ぶ星間ガスを励起していた。水素原子が電離し、再び電子を捕獲する際に放つHα線が、鮮烈な深紅の光となって宇宙を染めている。その赤の奔流の中に、二階電離した酸素イオンが放つ青緑色の禁制線が混じり合い、さらには低温の星間塵が紫外線を散乱させて紫色の影を落とす。
それは、神が絵の具をぶちまけたような、美しくも致死的な天体だった。
高密度のプラズマ流と強力な恒星風が衝突し合い、通常の通信波はおろか、短距離センサーさえもホワイトノイズの海に沈む。電磁的な嵐が吹き荒れるこの場所は、近代艦隊戦における禁足地とされていた。
だからアニカはこの場所を選んだ。
帝国遠征艦隊百五十隻が、カルタージュの補給線を断つために迫っていた。
アニカの艦隊は、各地の守備隊からかき集めた補充を受けて三十八隻。
百五十対三十八。まともな空間で戦えば、三十分で全滅する戦力差だ。
戦闘前夜、アニカは中央配置となる十二隻の艦長たちを、旗艦〈アドニス〉の会議室に招集した。ホログラムではない。直接、顔を見て話す必要があった。
彼らの多くは、急遽徴用された民間船の船長や、退役寸前の老兵たちだった。練度は低く、装備も旧式だ。
アニカは円卓の中央に立ち、一人一人の目を見た。
「単刀直入に言います。あなたたち中央の十二隻は、囮です」
艦長たちの間に、動揺が走った。
アニカはコーヒーカップを三つ並べた。黒いカップが中央、白いカップが両翼。
「中央艦隊は弱く見せなければなりません。わざと陣形を乱し、統制が取れていないふりをする。帝国艦隊が『これなら突き崩せる』と確信し、全速力で突っ込んでくるように」
彼女は黒いカップを、テーブルの端ギリギリまで指で押した。
「あなたたちは攻撃を受け止めながら、後退し続けてください。崩壊寸前の状態を維持しながら、敵を星雲の深部——あの電磁嵐の中心へと引きずり込むのです」
一人の老艦長が手を挙げた。輸送船を改装した軽巡洋艦の艦長だ。
「つまり、死ねということですか、司令官」
「違います」
アニカは即答した。
「死ぬな、と言っています。どんなに撃たれても、どんなに艦がボロボロになっても、沈まずに耐えてください。あなたたちが一秒耐えるごとに、帝国の百五十隻は墓穴を深く掘ることになる」
アニカは頭を下げた。
司令官が部下に頭を下げることは、軍規では推奨されない。
だが、彼女はそうした。
「最も過酷な役割です。損害は甚大になるでしょう。しかし、あなたたちが引きつけてくれなければ、我々に勝機はありません。……お願いします」
沈黙が流れた。
やがて、老艦長が苦笑した。
「バール家の娘にそこまで言われては、な。……引き受けましょう。我々が地獄の門番になってみせますよ」
ほかの艦長たちも、つられて笑った。
◆
二八四九年七月三日。
帝国遠征艦隊司令官、セルウィウス・パウルス提督は、旗艦〈アエテルニタス〉の艦橋で、赤く輝くカンナエ星雲を見つめていた。
七十二歳の老将。白髪を油で撫でつけ、胸には勲章が重苦しく並んでいる。彼は数の優位と、古典的な火力投射理論を信奉する旧来型の軍人だった。
「前方、星雲内部に熱源反応多数。敵艦隊と思われます」
センサー担当官が報告した。
「数は?」
「ノイズが酷く正確には……およそ四十隻前後かと」
パウルスは鼻で笑った。
「四十隻。我々の三分の一以下か。しかも、あんなガス雲の中に逃げ込むとは、愚かにも程がある」
彼は肘掛けを指で叩いた。
「敵将はあの小娘、アニカ・バールだな。ガイウス・スピカを奇策で破ったと聞いているが……所詮はまぐれ当たりだ」
パウルスは声を張り上げた。
「いいか、全艦に通達せよ。小細工は無用だ。圧倒的な質量で押し潰せ。わしはガイウス・スピカのような無能とは違う。わしは必ず、完膚なきまでに勝利する。帝国の正統な戦い方を見せつけてやるのだ」
彼には、ガイウスが見抜いた「十六隻の恐怖」が理解できていなかった。彼にとってアニカは、運良く一度勝っただけの辺境の反乱分子の小娘に過ぎなかったのだ。
「全艦、密集陣形。錐行の陣をとれ。中央突破で敵を分断し、各個撃破する!」
百五十隻の帝国艦隊が、巨大な槍の穂先となって星雲に突入した。
水素ガスの赤い霧を切り裂き、推進剤の光跡を曳いて進む。その威容は、銀河の支配者にふさわしいものだった。
◆
「来ました。帝国艦隊、中央へ殺到」
〈アドニス〉の艦橋で、マハルバルが告げた。
アニカは両翼の指揮を執っていた。彼女は中央の十二隻が映るモニターを見つめた。
「耐えてくれ……」
中央の十二隻は、パウルスの猛攻に晒された。
エネルギービームが星雲のガスを貫き、艦のシールドを叩く。爆発。火災。
老艦長の軽巡洋艦が被弾し、装甲板が剥がれ飛ぶのが見えた。
それでも、彼らは逃げなかった。いや、逃げるふりをしながら、巧みに帝国艦隊を誘導していた。
「撃て! 撃ち返せ! まだ沈むな!」
通信ノイズの向こうで、艦長たちの叫び声が聞こえた。
帝国艦隊は、脆く見えるカルタージュの中央部隊に吸い寄せられるように、隊列を伸ばしていった。パウルスは勝利を確信し、予備兵力まで含めた全艦を中央に投入した。
アニカは待っていた。
帝国艦隊の最後尾が、あらかじめ設定した「死のライン」を越える瞬間を。
そう、黒いカップが割れる寸前。
「今だ」
アニカの声は冷たく響いた。
「両翼、展開。量子接続、同期率最大。——包め」
星雲の左右の濃いガスの中に潜んでいた二十六隻が、一斉に動き出した。
それらは、アニカの脳と直結した十六隻の生き残りを含む精鋭たちだった。
帝国艦隊の側面と後方へ、恐るべき速度で回り込む。
同時に、量子妨害フィールドが最大出力で展開された。
カンナエ星雲の自然の電磁ノイズに、人工的な量子干渉波が重畳される。
帝国艦隊の通信網は、完全に遮断された。
「な、何だ!? 通信途絶! 各艦からの応答がありません!」
パウルスの旗艦〈アエテルニタス〉はパニックに陥った。
さっきまで整然としていた百五十隻が、突然、目隠しをされた烏合の衆と化した。
「側面および後方に敵影! 囲まれています!」
「バカな! 敵は前方にいるはずだ!」
パウルスは叫んだ。
「迎撃せよ! 右舷、撃て!」
それが悲劇の始まりだった。
視界の効かない星雲の中、通信を失った帝国艦隊は、パニック状態で発砲した。
アニカの艦隊は、帝国艦隊の外周を高速で旋回しながら、断続的な攻撃を加える。帝国艦は反撃しようとするが、その射線上にいるのは、ことごとく味方の艦だった。
紫のガスが、艦艇の爆発光で白く灼けつく。
巨大な戦艦が、味方の巡洋艦の主砲で艦腹をえぐられる。制御を失った艦が、隣の艦に衝突する。
連鎖的な爆発。
アニカの艦隊は、混乱する羊の群れを狩る狼のように、外側から冷静に、確実に、帝国の数を削り取っていった。
六時間後。
星雲は鉄の墓場と化していた。
パウルス提督の〈アエテルニタス〉は、機関部を損傷し、漂流していた。
老提督は崩れ落ちた天井の下で、血に染まりながらモニターを見ていた。そこには、整然と並ぶカルタージュの艦影が映っていた。
「ガイウス……お前は、これと……こんなものと戦ったのか……」
彼は最期に悟った。
自分が戦っていたのは、数ではなく、もっと恐ろしい「意志」だったのだと。
直後、〈アエテルニタス〉は爆発四散した。
帝国艦隊百五十隻のうち、百三十二隻が沈没または大破。死傷者八万人。
カルタージュ側の損害、中央艦隊の五隻沈没、七隻大破。死者三千二百人。
歴史に残る、一方的な殲滅戦だった。
◆
数ヶ月後。
テラ帝国軍事アカデミーの戦略研究室。
十九歳になったセリア・スピカは、カンナエの戦いの記録データを再生していた。
部屋は暗く、ホログラムの赤い光だけが彼女の顔を照らしている。
彼女は、戦闘のクライマックスではなく、序盤の「中央艦隊の動き」を何百回もリピートしていた。
中央の十二隻。その動きは一見、無様で、統制が取れていないように見えた。ある艦は突出し、ある艦は遅れ、被弾し、煙を吐いていた。
だが、セリアの灰色の瞳は、その奥にある「作為」を見抜いていた。
「……演じている」
セリアは呟いた。
「この十二隻の崩れ方は、ランダムじゃない。帝国艦隊の突進速度に合わせて、絶妙に崩れてみせている」
彼女はデータを巻き戻し、アニカの指揮する両翼の動きと重ね合わせた。
呼吸だ、とセリアは思った。
中央が息を吐く(=後退する)と同時に、両翼が息を吸う(=展開する)ように広がっている。
百五十隻という大軍を相手に、アニカ・バールは艦隊全体を一つの肺のように機能させていた。
パウルス提督の「慢心」という心理的要因さえも、戦術パラメータとして計算に組み込んでいる。
「恐ろしい人……」
セリアは戦慄した。
アニカは、味方の三千二百人が死傷することを前提に、この作戦を立案した。
自分自身も傷つきながら、それでも勝利のために心臓を切り売りするような戦い方。
それは、セリアが学んだ「教科書通りの正義」とは対極にある、凄惨な合理性だった。
しかし、とセリアは思った。
これほどの天才を、ただ「怪物」と呼んで片付けていいのか。
彼女のこの完璧な指揮の裏に、どれほどの孤独と、どれほどの押し殺された悲鳴が隠されているのか。
セリアは端末に、新しいシミュレーション・プログラムを立ち上げた。
『対アニカ・バール想定戦術』。
「あなたを超えるには、あなたの呼吸を止めなければならない」
セリアの指が、キーボードの上を走る。
「あなたが相手の心理を利用するなら、私はさらにその裏をかく。あなたが『崩れてみせる』なら、私はその崩壊を『本物』に変える手を打つ」
画面の中で、青い光点と赤い光点が交錯する。
父を殺した敵。帝国の脅威。
だが、セリアの胸の奥で燃えていたのは、憎しみだけではなかった。
それは、同じ高みに登れるかもしれない唯一の存在に対する、強烈な憧憬に似た感情だった。
「見ていて、アニカ。私は必ず、あなたに追いつくから」
十九歳の天才は、暗い研究室で、遠い星雲の向こうにいる「理解者」に向けて、静かに宣戦布告した。




