第四章 狩り
作戦名は〈アルプス〉。
アニカの参謀たちは、その名前の由来を知らなかった。古代地球の将軍が、山脈を越えて敵の本拠地に侵入した故事。参謀のマハルバルだけが端末で検索し、眉を上げた。
「ハンニバル・バルカ。紀元前二一八年。象を連れてアルプス山脈を越えた」
「今度は象は連れていかないわよ」
アニカは星図を指した。
「量子トンネル航法を使う」
艦橋が静まり返った。
量子トンネル航法。理論上は、通常空間の航路を経由せず、量子的な空間の折り畳みを利用して任意の座標に出現できる技術。理論上は。
実験段階では、送り込まれた無人プローブの六十三パーセントが消失した。
「消失、というのは」
マハルバルが慎重に尋ねた。
「どこに消えたんですか」
「わからない。事象の地平線の彼方か、あるいは確率の雲の中に霧散したか。とにかく、出現しなかった」
「つまり我々の艦隊の六割が——」
「消える可能性がある。わかっている」
アニカは星図の中心に指を置いた。テラ・プリマ。
帝国の首都星系。銀河座標で見れば、カルタージュから直線距離で四百七十光年。通常航路では三十二回のジャンプが必要で、その全てが帝国の監視下にある。
「通常航路で行けば、到着前に迎撃される。量子トンネルで行けば、到着しない者が出る。どちらも賭けだ。だが——」
アニカは星図を消した。
「通常航路の賭けには勝ち目がない。だが量子トンネルの賭けには、ある」
◆
二八四七年四月一日。〈アルプス作戦〉発動。
二十隻の艦隊は、カルタージュ本星系の外縁で量子トンネルジェネレーターを起動した。
空間が歪む映像は、肉眼では見えない。計器だけが、通常空間の座標が意味を失っていく過程を数値で示した。アニカの旗艦〈アドニス〉の艦橋では、航法士の指が震えていた。計器の数値が、既知の物理法則の範囲を逸脱していく。
「トンネル安定度、七十二パーセント。六十八パーセント。低下中——」
「続行」
「五十九パーセント——」
「続行」
光が消えた。
音も消えた。
アニカは目を開けていたが、何も見えなかった。暗闇ではない。視覚という感覚そのものが停止している。手の甲を頬に当てた。触覚はある。肌の温度。頬の骨の硬さ。自分の体がまだ存在している証拠。
それは一秒だったのか、一時間だったのか。
あるいは、永遠の迷子になる一歩手前だったのか。
唐突に、光が戻った。
吐き気を催すような色彩の奔流の後、艦橋のスクリーンに星々が映し出された。
見慣れたカルタージュの空ではない。恒星の配列が違う。
テラ・プリマの外縁部。帝国の心臓部。三百光年以上を、一瞬で越えた。
通信士が叫んだ。声が裏返っていた。
「各艦点呼——〈アドニス〉応答、〈バアル〉応答、〈エシュムン〉応答——」
アニカは司令官席の肘掛けを掴んだ。父の義手の冷たさを思い出すように。
心臓の鼓動が、秒針のように正確に、しかし痛みを伴って胸を叩いた。
「——〈タニト〉応答なし」
一隻。
「——〈メルカルト〉応答なし」
二隻。
「——〈モロク〉応答なし」
三隻。
「——〈レシェフ〉応答なし」
四隻。
通信士が振り返った。顔面は蒼白だった。
「四隻、応答ありません。信号消失。量子反応……ゼロ」
艦橋が凍りついた。
消滅ではない。消失。彼らは最初からいなかったことになったのだ。時空の狭間に飲み込まれ、存在の確率がゼロになった。
〈タニト〉の艦長は、出発前に娘の写真を見せてくれた。
〈メルカルト〉の機関長は、アニカの論文を誰よりも熱心に読み込んでいた。
そして〈モロク〉と〈レシェフ〉の乗員たち。合わせて六百名の命。
彼らは戦って死んだのではない。アニカが決断した「賭け」のチップとして、虚無に消えたのだ。
アニカの喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。
悲鳴になりそうなそれを、彼女は必死に奥歯で噛み殺した。
エナメル質がぎりりと軋む音が静かに響く。
今、悲しんではならない。
今、動揺を見せてはならない。
彼女はゆっくりと息を吐き、立ち上がった。その表情は、カルタージュの砂漠の夜のように冷たく、静かだった。
「記録せよ」
アニカの声は揺らがなかった。
「失われた四隻の名を、決して忘れるな。だが今は——生き残った十六隻のために、全力を尽くす」
彼女は戦術スクリーンを展開した。
「現状確認。我々の戦力は十六隻。当初の二十隻から二割減」
マハルバルが呻くように言った。
「司令官……二十隻で三百隻を包囲する、それがあなたの理論でした。十六隻では……計算が成り立ちません。ネットワークの密度が足りない。包囲網に穴が開きます。帝国の首都防衛艦隊は精鋭です。彼らは六十隻で三百隻以上の働きをします」
「物理的にはな」
アニカはスクリーン上の青い光点——十六の輝き——を見つめた。
「二十隻で作るはずだった多面体を、十六隻で再構築する。各艦の担当宙域を拡大。機動速度を一・二五倍に引き上げる」
「一・二五倍? エンジンの臨界点ギリギリです。それに、そんな速度で連携すれば、同期のズレが生じます」
「ズレは私が補正する」
アニカは断言した。
「全艦のAI制御コードを書き換える。私の思考速度に同期させろ。私が中枢になる。四隻分の穴は、情報の伝達速度と、我々の意志で埋める」
◆
それは狂気だった。
十六隻の艦隊を、一人の人間がリアルタイムで制御するに等しい。脳への負担は計り知れない。
しかし、アニカの目に迷いはなかった。
四隻を失った。
六百人を殺した。
その代償を払うためなら、自分の脳が焼き切れても構わない。
「いいか、マハルバル。帝国のセンサーには、我々が十六隻だとは映らない」
アニカは指先で光点を動かした。高速で旋回する光の軌跡。
「残像を残せ。量子ノイズを撒き散らせ。十六隻が六十隻に見えるまで、狂ったように踊るんだ。失われた四隻の幽霊も、一緒に戦っていると思わせろ」
マハルバルは、アニカの横顔を見た。
右目の上の傷が、白く浮き上がっている。
彼女は泣いていない。だが、その魂が血を流しているのがわかった。
「……了解しました。全艦に通達。プランB改変、『ファントム・ダンス』へ移行」
◆
テラ・プリマ軌道上の早期警戒ステーション〈アルゴス〉。
監視員の青年は、あくびを噛み殺しながらモニターを眺めていた。平和な勤務だった。ここ百年、首都星系の警戒網に引っかかったのは、迷子の民間船かスペースデブリだけだ。
アラートが鳴った。
「未確認艦影、多数」
青年は首をかしげた。
「またセンサーの誤作動か? どうせデブリの群れだろう」
彼は怠惰な手つきで解析キーを叩いた。
画面上のノイズが晴れ、識別信号が表示された。
青年の指が止まった。
カルタージュ連合軍。
そんな馬鹿な。ここは辺境から四百光年以上離れている。奴らは亜光速で数ヶ月かけなければ来られないはずだ。それが、何の前触れもなく、いきなり首都の玄関先に?
「おい、冗談だろ……」
画面上の光点が増殖していた。
十六、いや二十、三十、五十……
高速で移動する光点が、軌道上の防衛艦隊を取り囲むように展開している。
上官が駆け寄ってきた。
「何事だ!」
「か、艦隊です! 敵艦隊が出現しました! 数、測定不能! 速すぎます、センサーが追いつきません!」
「馬鹿を言え! ワープアウトの重力波も検知していないんだぞ!」
「ですが現実にそこにいます!」
上官はモニターを覗き込み、絶句した。
亡霊のように現れた艦隊。
帝国の常識ではありえない機動。物理法則を無視したような加速と旋回。
「こ、これは……何だ? 我々は何を見ているんだ?」
上官の声が震えた。
理解できないものへの根源的な恐怖。
絶対安全だと思われていた「聖域」が、何の前触れもなく侵された恐怖。
警報が、テラ・プリマ全土に響き渡った。
元老院の晩餐会では、貴族たちがグラスを取り落とした。
軍司令部では、将軍たちが蒼白な顔で怒鳴り合っていた。
「どうやってここに来た!」
「数は!」
「迎撃艦隊を出せ! 早く!」
誰もが混乱していた。
たった一つの報告が、帝国の傲慢な平和を粉々に砕いた。
『辺境艦隊、帝国首都星系に出現』
◆
アニカは〈アドニス〉の艦橋で、混乱する帝国の通信を傍受していた。
恐怖の匂いがする。
数による優位を信じて疑わなかった者たちが、理解不能な事態に直面してパニックに陥っている。
「計算通りだ」
アニカは呟いた。
心拍数は平常。
だが、手のひらには爪が食い込むほどの力が込められていた。
「全艦、散開」
アニカの命令が飛ぶ。
「帝国防衛艦隊六十隻が迎撃に出てくる。正面からぶつかるな。彼らの恐怖を煽れ。背後に回り込み、また消えろ。我々は実体であって実体ではない」
十六隻の艦隊が加速した。
失われた四隻の分まで、エンジンを唸らせて。
アニカは目を閉じた。
一瞬だけ、虚空に消えた六百人の顔を思い浮かべる。
(見守っていてくれ。あなたたちの死を、無駄にはしない)
目を開けたとき、そこに悲哀の色はなかった。
あるのは、冷徹な指揮官の瞳だけだった。
「始めるぞ。だがこれから始めるのは戦争ではない」
アニカは深く息を吸った。
「狩りだ」
アニカ・バールは、十六隻の「針」で、帝国の巨大な心臓を突き刺しにかかった。




