第一章 誓い
ハミル・バールの義手は、いつも冷たかった。
九歳のアニカはその金属の指に自分の指を絡め、テラ帝国の旗艦〈レクス・ムンディ〉の艦橋通路を歩いていた。
通路の壁は磨き上げられた白い合金で、カルタージュの船にはない種類の光を反射している。
殺菌灯の青白い光。
空気には微かに塩素系の消毒剤の匂いが混じり、アニカの鼻の奥を刺した。
父の生身の左手が、彼女の肩に置かれた。
その手だけが温かい。
「背筋を伸ばせ」
父が言った。
低い声。
アニカは反射的に背中の筋肉を意識して、顎を引いた。
講和条約の調印式は、旗艦の第一会議室で行われた。
長い楕円形のテーブル。
テラ帝国側の椅子は、カルタージュ側より三センチほど高く設計されていた。
アニカにはそれが一目でわかった。算数は得意だった。
視線の角度が違う。
見上げさせられている。
帝国の外交官はスピカ家の紋章——五芒星を貫く剣——を胸に付けた男で、書類を読み上げる声に抑揚がなかった。
条約の第七条。
カルタージュ連合の各星系は、帝国標準語による教育課程を導入すること。第十二条。連合の独自通貨は段階的に廃止し、帝国クレジットに統合すること。第十五条——
「つまり」
と、外交官は書類から目を上げた。
「文明の恩恵を、辺境の皆様にもお届けするということです」
微笑。
アニカの父の義手が、テーブルの下で軋んだ。
金属が金属を噛む音。
アニカだけに聞こえる音。
調印が終わり、帝国側の人間たちが退室したあと、父はアニカを艦橋の隅に連れていった。窓の外には、テラ・プリマの軌道上に並ぶ帝国艦隊が見えた。数えきれない。星と見分けがつかないほど多い。
父は片膝をつき、アニカと目線を合わせた。義手の指が、アニカの頬に触れた。冷たい。でも、その冷たさの奥に、父の脈拍が伝わる気がした。機械の腕を動かすために、肩の筋肉が微かに震えている。
「アニカ」
「はい」
「よく見ておけ」
父の目は窓の外の艦隊を見ていなかった。
壁を見ていた。
白い、無菌の、完璧に平滑な壁。
「彼らは我々を文明化してやると言う。我々の言葉を、歌を、料理の匂いを、全部、あの壁と同じ色に塗りつぶす。お前は——」
義手がアニカの頬から離れた。
「約束できるか。決して帝国に屈しないと」
アニカは父の目を見た。右目の下に、古い火傷の痕がある。カルタージュ第三次防衛戦のとき、艦橋のコンソールが爆発して負った傷だと聞いていた。
「はい、約束します」
九歳の声。通路の殺菌灯が、二人の影を青白く切り取っていた。
アニカは後年、この瞬間を何度も反芻することになる。
父の義手の温度。
壁の白さ。
消毒剤の匂い。
そして、自分が何に縛られたのか理解しないまま口にした、あの約束の言葉を。




