午後の喫茶店
「そんな、あんまりです…」
△社の編集者・来海は殆ど泣き出しそうだった。韜晦は黙ったまま、コーヒーを啜った。
「機械なんかに、韜晦先生のような翻訳ができるわけないじゃないですか。どうして政府はそんなこともわからないんだ」
「でも、もうどうしようもない」
「抗議文を出しましょうよ。韜晦先生のファンの人たちにも協力してもらって――」
「それで? 今時そもそも文学をまともに読んでいる人がどれくらいいるとでも? そのうちA国文学を読む割合は? そこから私の翻訳が良いと思っている人なんて、日本全体の中では米粒ほどの数と影響力しかないよ」
「…」来海は少しぶすっとして黙り込んだ。それから、情けないように自分の手に目を落としてまた口を開いた。
「先生は…」
「先生はこれからどうするつもりなんですか」
「さあね。晴れて無職かな」
「そんな…職業無職は-ポイントが大きくつきますよ。年金の受給額カットだけじゃなくて、下手したら健康保険証の取り上げだってありうる…」
「じゃあ、他に何をするって言うんだ。私には翻訳のほかには何もない」
工場、コンビニ、大手チェーン飲食店、清掃。こういった”単純労働”はすべて機械にとって代わられ、今や特定のスキルを持たない者には仕事にありつくことさえ困難を極めていた。
穏やかな午後だった。秋の陽ざしが美しく、長閑だった。
「私は、こんな政府のやり方は間違っていると思います」来海は憤慨して言った。
「だからどうするっていうんだね? 私の心配よりも君自身の心配をしたほうが良いんじゃないか? 翻訳出版のジャンルがなくなったら、君のお抱えの仕事のいくらかは減るだろう」
「そうですね…出版業界も疾うに斜陽産業ですが、ますますひどくなるでしょう。随分と前から、私の出した企画はちっとも通らなくなっているし…。だって、どの小説が売れるか、すべてAIの分析で割り出して、一定以上の利益回収が確実に見込めるものだけを出版するということになったんです。でも、私は編集者として、無名の作家が書いたものでも、絶対にこれは売れるだろうと確信できる良作があります。でも、そんなことは機械には測れないわけです。過去のデータがないんですから。人間社会では、何がヒットするかわからないから面白いのに…」
「そりゃ、出版企業も生き残るために必死なんだろう。ますます本離れが進んでいるんだから…」
「でも、私はそんな機械のアシストをするために編集者になったんじゃありません」
「来海君」
「はい」
「とにかく、今までありがとう。苦労をかけたこともあったけれども、あなたと一緒に本をつくれて楽しかったよ」
「はい…先生」
韜晦は席を立った。来海は冷めかけているホットコーヒーのこげ茶色の表面をじっと見つめ、「そろそろ、潮時かな…」と呟いた。
(続く)




