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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

狩猟の魔女と猟犬の声

作者: 水星

猟犬は走る。

湿った森の匂いが鼻を突く。

雑多な種類の木々が茂る原生林の中は、深い緑の葉が、天幕のように青空と太陽の日差しを遮り、ジメッとした空気に包まれていた。

鈍色の体毛、大きな体躯、碧い瞳のその猟犬は、うねりの多い森の中を跳ねるように駆ける。

その猟犬には赤い首輪があり、その喉元にはベルが提げられている。猟犬が脚を前に出す度にカラコロと音を鳴らすその金色のベルは、鬱蒼としたこの森の中であろうとも、この猟犬の場所を告げていた。

「バウッ! バウッ!」

猟犬はしきりに吠える。

その声には攻撃性が込められていて、猟犬に追い立てられているその巨大な陰を突き刺しているようだった。

不意に猟犬の突き立った右耳の側に円盤型の光が出現した。その光は文字と円を組み合わせた魔法陣を形作って、走る猟犬の耳に置いて行かれないように追随する。

その魔法陣が震えて、音を発した。

『ジロ! 追い込め!』

その指示は若い女性の声で、凛とした声色の中に芯の強さと優しさが垣間見える、グランドピアノのような美しい声だった。

その声に反応した猟犬は後ろ足を強く踏み込み、追跡している陰に飛び掛かる。大きく開いた口でその陰の左後ろ足に噛み付くと、その陰は野太いうめき声を短く上げて左足を鞭のように振るう。しかしその鞭がジロと呼ばれた猟犬を傷つける事はなく、それよりも早くジロは口を離して距離を取り、陰の左後ろから大きく吠えた。

左足から血を流す陰はその声から逃れるように逃げる方向を右側に変え、なおも走る。

そしてその陰は、小川の中に落ちた。

木々の傘から外れ、陽の光に晒されたその陰は、猟犬の優に五倍はあろうかという体躯を持っていた。

体高にして三メートルはありそうなその巨体を覆う、枯れ葉に紛れる茶色の体毛。そのうち首から頭を覆う部分が、数え切れないほどの鋭い針となっていて、何人たりとも触れることを許さないような攻撃性を帯びていた。

針の筵の顔面の奥に覗く威圧的な眼光は、自らが落ちた時に跳ね上がった水しぶきの向こうの、自分よりも遥かに体高の低い犬を睨みつけていた。

そう、改めてその小さな体躯を見て、巨大な身体の持ち主の自尊心を傷つけたのだ。

「ブゥルルア!」

巨体はその怒りのままに針に覆われた太い首を横に振った。それは首で何かを投げるような仕草で、その形容が実態を伴うように、一瞬首の針が淡い緑の輝きを放つと、首の動きとともに無数の針がジロめがけて射出された。

横殴りの雨のように空に穴を開ける無数の針。鋭利なそれらが自身の目に映ってもなお、その猟犬は巨大に対峙することをやめなかった。

ジロの目にはある種の信頼があるようで、それは実現される。

「防魔全の三! アイマ・シェードッ!」

その若い女性の声が空に響くと、ジロと針の間の虚空に、輝く魔法陣が展開された。

それは実体があり、陣の面が射出された針の雨を弾き、ジロに傷をつけるのを遮る。

声のした方を巨体が振り返るのと同時に、残響の長い銃声が響いた。

直後、巨体から生える針の一部が砕ける。

巨体の視線の先に、川の下流の先に、人影があった。

その人影は一房に束ねられた長いブロンドの髪を川風に靡かせていた。

その面影は若く、精悍な目つきをしていた。

まだ少女と呼ぶべき人間の女。彼女は両手に構えたボルトアクションライフルのボルトを引いて弾丸再装填する。小気味のいい金属音が森の空気に響いた。

少女が口を開く。

「やっと見つけたわ、ザザボア。田畑の作物に飽き足らず、人の子まで襲い喰らう魔獣」

その武器を、その人間を見て、ザザボアと呼ばれた魔獣は獰猛に嘶いた。人の言葉など理解できているはずがない。だが、少女の鋭い眼光が、敵意のこもったその青い瞳が、ザザボアの攻撃心を奮い立たせた。

顔面中の針山が一斉に逆立つのを見て、少女はライフルを構えるのではなく、踵を返すのでもなく、ただ、銃から離した左手を握り、人差し指と中指だけを伸ばして、自分の鼻先で立てる。

その指先が淡い緑の輝きに包まれるのと同時に、少女は唱える。

「雲を蹴る走狗! かの声は遠く、その身は粉挽く水車の如く! 猟犬魔導書第八項・タンブルウィール!」

左手で空を切ると、指先を向けられた猟犬の四つの足首に緑に輝く小さな雲が纏わりついた。

猟犬はそれを警戒したりしない。それが当然のことであるかのように後ろ足で地面を蹴ると、驚異的な脚力を見せてザザボアの背中を優に超えるほどの高さで跳躍した。

その速さはザザボアの動体視力を超えていて、ザザボアの上空に飛び上がったジロは、何もない虚空を、雲を纏った後ろ脚で蹴って一閃、矢の如くザザボアに飛びつき、次の瞬間にはザザボアの首元の肉を食い千切っていた。

傷口から赤い弧を吹き出して、絶叫するザザボア。彼は本能のままに身を捩り、自分の身を喰った猟犬を追いかける。

そんなザザボアを尻目に地上に着地し、駆けるジロの先には、立射の姿勢でライフルを構える少女の姿があった。

照門と照星越しの、澄んだ瞳で獲物を狙う少女は、狙いがブレないくらい落ち着いた声でそれを唱える。

「罪深い炎の神よ 始まりと終わり、災禍の子の忌み名のまま、石作りの鏃の先に、紅き炎玉の種を遺せ。東洋魔法見聞録 第三十二項 爆撃弾」

そして引き金が引かれる。

ボルトアクションライフルの銃口から放たれた弾丸は、肉眼では捉えられないほどの高速で発射されていたが、猟犬の脚にあるそれと同じような魔法の輝きを帯びていた。

硝煙を裂いて空を切るそれは、少女の肩に重たい反動を残しながら飛翔し、少し弧を描きつつも真っ直ぐにザザボアの眉間を穿つ。

「ガウッ」

呻くザザボア。しかし、その声は軽かった。ザザボアの額の骨は装甲のように厚く、弾丸を受け止めていたからだ。

ザザボアは勝った、と思った。軽い怪我は負ったが、このまま突進して目の前の二つの獣を蹴散らしてしまえばいいと。

川底を蹴るザザボア。しかし、その巨体が再び風を切ることはなかった。

次の瞬間には、額に埋め込まれた弾丸が爆発し、ザザボアの頭蓋骨を、その奥に守られた大脳ごと吹き飛ばしていたからだ。

爆風が猟師の少女の金色の髪束を靡かせる。

「……ふぅ」

少しの残心の後、緊張の糸を切った少女は短く息を吐いた。

万が一の新たな脅威に備えてライフルを両手で抱えながら、彼女はブーツの脚でバシャバシャと川を遡って自分が仕留めた巨体に歩み寄る。

自分の身長の倍以上は大きな死体を見上げて、彼女は射幸感の余韻に耽るわけでもなく、厳しい目つきをしていた。

抉れた頭部に目を落として、彼女は腰に下げた皮鞘に収まるサバイバルナイフを抜くと、頭部の一部の肉を削ぐように切り落とす。

「ジロ、おいで」

よく通る透明感のある声で犬を呼ぶと、ジロは彼女に駆け寄ってきた。その脚にはもうすっかり緑の雲は解けている。

「お疲れ様、食べていいよ」

そう言って猟師が肉を放ると、猟犬は一声吠えてその肉を空中でキャッチした。


◯●


その町の名はクォークラットといった。

地方の中堅都市の一つで、蒸気機関車の路線は町に一つだけ。路線の終端となるクォークラット駅の周辺と唯一の大通りだけが栄えていて、その他は麦を中心とした農耕地が広がっている。

路線が入り込んでくる町の東側以外は山脈で囲まれていて、その山々こそが猟師たちの戦場だった。

猟師の少女は緑の発光を伴う超自然的な技術…魔法を使って、猟師向けの魔法を使いつつ適切に処理したトン単位の獲物をトラックの荷台に積み込むと、助手席にジロを乗せてトラックを運転して自らの住む町に降りてきた。

その足で大通りの一角を訪ねる。そこは少女が所属してる猟師組合の施設で、仕留めた獲物を対価をもって引き取ってくれるからだ。

「よう、リコ! 今日も随分と大物だなぁ」

施設の職員に獲物を引き渡すと、初老の、同業の男がたばこの煙を燻らせながら少女に声をかけた。

「まあね、ジイさんもコイツくらいのを仕留めてきたら?」

「ははっ! 言ってくれるな! ちょっと前まで銃も構えられないくらい小さかったのによ」

「どれだけ前の話ししてるのさ」

リコと呼ばれたその猟師の少女は足元で利口に座るジロの頭を撫でながら軽く笑った。

それからも続々と年老いた猟師たちがリコに話しかける。怪我はしなかったか、とか、最近ちゃんと食っているのか、とか、投げかけられる言葉のすべてにリコは言葉を返していき、それが日常であることを示すように、ジロも落ち着いた様子でリコの側から離れなかった。

そうして少しの時間が経ったあと、不意にジロの耳が立った。

「リコ!」

その名を呼ぶのはしゃがれた声ばかりであった中で唯一、若く溌剌とした男の声が響いた。

すかさずジロがその声の方向とリコを遮るように間に立つ。

「あら、レザー」

振り返りリコはその声の主の顔を見て、特に表情を変えるでもなくその名を呼んだ。

対象的に彼女の碧眼に映るレザーの表情は、少し紅潮している。

その少し朱に染まった頬を見て、ジロは冷めた目をして「わふっ」と息を吐いた。

「お疲れ様、レザー。今日は弾の卸し?」

「あ、ああ…。リコは今日はどうしたの?」

「仕留めた獲物の引き渡しよ。こーんなに大きなザザボアを仕留めてきたんだから!」

リコは自慢げに両手を広げてその大きさを表現する。

それを聞いてレザーは目を丸くした。

「もしかして、建物の裏で職員たちが捌いていたあのザザボアかい? それは凄いな! 怪我とかしなかったのかい?」

「怪我? 冗談っ! あの程度の獲物で怪我なんてしないわ!」

胸を張って自慢げにそう笑い飛ばすリコ。その自身のある態度に、レザーは憧憬に満ちた目を向けた。

「凄いな…、本当に、……尊敬するよ」

お世辞ではない彼のその声色に、リコは少し居心地が悪く感じたのか、彼に背を向けた。

「猟師としての仕事をしているだけよ…っ。…わたしそろそろ帰らなきゃっ」

行こう、ジロ。リコが自分の犬に声をかけて立ち去ろうとする。

「待って!」

しかし、そのブーツの足音に心を駆られたように、レザーの衝動的な声と、彼女の手首を掴む手がリコを引き止めた。

振り返るリコに、レザーは思わず動いた手をすぐに離した。その直後、ジロが部屋中に響く声量で鋭く吠えた。

「ジロ! やめなさい!」

それをリコは厳しく諌める。

レザーはジロから少し距離を取りながらもリコの方を見て、目を泳がせながら辿々しく言葉を繋げる。

「あ、ごめん、えっと…。リコ、最近、銃の調子はどう? よかったらこれからウチの店で整備しようか?」

ジロの首輪を掴んで暴れないように抑えながら、リコはその申し出に対して少し考える。

「え、整備? ……う〜ん…どうしようかしら…、別に不調はないし…」

「安くするよ!」

リコが返事をする前に、レザーはすかざず畳み掛けて、断りそうだったリコの考えを変えた。

「本当に? それならお言葉に甘えようかしら」

「…っ! ああ! 是非おいでよ!」

弾けるような笑顔でそう言ったレザーの表情を見て、釣られるようにリコもはにかんだ。


レザーは自分の父親が営む銃砲店で修行中の銃器整備士だった。

「親はいないの?」

「うん、今日は父さんは工場へ仕事に行っていて、母さんは地域の寄り合いに行っているよ」

「そう…」

修行中と言っても、いつも一人で完璧な整備をしてくれるレザーのことを、リコは一人の職人として信頼していた。しかしそれでも親の所在を聞いた自分自身の真意を、リコはまだ知らない。

弾倉と薬室の中の弾丸を抜いてレザーにライフルを手渡す。レザーはリコに対してカウンターテーブルの向かい側に座ると、手早くライフルを分解していった。

リコは彼の手元の精密ドライバーセットに目を落とした。

使い古されていて、ところどころに細かい傷が残っている。しかし、汚れやほこりは付着していなくて、よく手入れされているのが見て取れる。

クリーニングロッドにブラシを付けて、銃床から取り外された銃身の、銃口側から差し込んで内部の汚れを拭き取っていくレザーの手際を、リコはじっと見つめていた。

手慣れていながらも手抜きや雑さが一切ない手つきに、リコは少し冗談めかして言ってみた。

「相変わらずの丁寧な仕事ね、でも、そんなに丁寧にしなくても銃は撃てるわ」

「撃てるだけじゃ駄目さ」

レザーは即答した。

「銃は持ち主の命を守るためのものだ。ただ弾が撃てるだけ、動くだけではダメで、引き金を引けばいつどんなときでも弾が発射されて、真っすぐ飛ばなくてはいけない。だから僕は、持ち主が銃に預けている命を預かるくらいの気持ちで仕事をする。……特に、君の銃にはね」

作業する手元から目を離さないまま言われた言葉に、リコはくすりと笑う。

「あら、わたしはいつの間に、この店のVIPになったのかしら?」

「『店の』じゃなくて…」

そこまで言ってレザーはハッとして口を噤んだ。作業に集中しすぎて口が緩み、自分がとんでもないことを言葉にしようとしていたことに気がついて、作業の手を止めた。

「どうかした?」

レザーとは長い付き合いのリコは、それが動揺した精神のまま作業をしてミスをしまいとする彼の癖だということを知っていたので、彼がなぜ急に動揺しだしたのか、その理由がわからずに首を傾げた。

「あ、いや…なんでもない…」

どうみてもなんでもある様子のレザーは挙動不審に席を立ってコーヒーを淹れだした。

「あ、わたしも飲みたい」

「お…おっけー…ははは…っ」

ミルに二人分のコーヒー豆を入れてそれを挽くレザー。ハンドルを回していくうちに、彼の様子も落ち着いてきた。

レザーがコーヒーを作るためにテーブルに向かうと、リコの一挙手一投足に一喜一憂する事がなくなった。

「……、リコ…、その、最近はどう?」

「どうって…、仕事が?」

「い、いやそうじゃなくて、毎日の生活というか」

要領を得ないレザーの話にリコは怪訝な顔をして少し笑った。

「なんの話? 別に、なーんにも変わってないわよ〜。仕事してジロの世話をしてご飯食べて寝る。その繰り返し」

「そっか…、俺もそんな感じ…」

レザーがそう軽く笑うと、沈黙が生まれた。そしてレザーは一度大きく息を吸って吐くと、唾を飲んでその沈黙を打ち破る。

「リコ、その…、市内の方に新しいダンスホールができたらしいんだ…、…良かったら、一緒に…」

レザーがその言葉を言い切る前に、弛緩していたジロの耳がピクリと立って、その直後に店のドアが激しく叩かれた。

レザーが応答するよりも早く扉が開かれる。

「リコ、やはりここにいたか」

  入ってきたのはリコの猟師仲間の老人だった。その老人の額には、憔悴したような汗が浮かんでいる。

「爺ちゃん、どうしたの血相を変えて」

  リコの問いにその老人は少し息を整えてから答える。

「魔獣だ、大物のな。大物の魔獣が人を喰った」

  その言葉に、リコの心臓がドクリと跳ねた。

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