2 「“黒い金魚”に戻りたいの?」
うそみたいだねと、ユカが笑う。
「来週ね、歌番でるんだよ。わたし」
ちょっと誇らしげに言われたフジは、首をかしげた。
「当然だと思うけど」
「んー?」
「あんだけCD売れてて」
「うーん」
ユカが目を丸くした。
「そうなの?売れてるの?」
「…売れてるよ。知らなかったの、まさか」
「知らない。売り上げとかどうでもいいもん…それに」
歌ってるの、フジだし。
ユカに言われた言葉はそのままフジが受け止めた。
「提案したのはそっちだろ」
「うーん、でも心配。テレビでちゃうくらい売れたら、バレちゃうんじゃないかな」
「何が」
「“黒い金魚”の声だって」
「…」
フジが沈黙した。
ユカは続ける。
「トシちゃんとバンド組んでたときも、人気あったってゆうじゃない。知ってる人が聞いたら…」
「ユカ」
「ばれちゃうんじゃない、って、ん?」
「やめよう」
「どして?」
「その話、聞きたくない」
「…あ、うん」
ユカが笑った。
無神経な笑い方だな、とは思う。
「でねぇ、その番組だけどね。『オルカ』が出るのよ!」
フジはちょっと考える。
「オルカ…Orca?」
「そ。しゃち」
「なんだっけ」
「えーっ知らないの!」
ユカがオオゲサに目を丸くする。
素直に知らないと言えば、彼女は目を丸くしたまま説明してくれた。
「今すっごく人気のあるアイドルグループじゃない。アイドルグループって言い方、古いのかな…ま、いっか。歌ってる歌はことごとくヒットしちゃうし」
「ふうん…」
「あたしは四人のうち、ソウさん派かなあ。あの人おもしろいんだもん」
「知らん」
「えっへっへー。ま、いいや。どうせ会えるんだし、サインの一枚でもせしめてくるわ」
せしめるって。
言い方に呆れてしまうが、フジは黙ってユカに身を任せる。
二人は今、一緒にカラオケに行こうとしていた。
言い出したのはもちろんユカである。
次の新曲のアワセをしよう、としごく真面目な顔をした彼女は、例によってフジの腕を己のそれにからめてひきずってきたのだった。
「どんな曲にするかってゆうのは、もう決めてるよ」
「へえ」
「あのね…タイトルは、Love song」
「まんまだね」
「むう。シンプルイズザベスト、でしょ?」
「さあ」
「…あーあ、フジは冷たいねえ」
「いつものこと」
「ちぇー」
いつも使っているカラオケに着くと、いつものようにユカが個室を取って、二人ぶんのオーダーをして、そして小さな部屋の扉を開ける。
明かりを一番暗くして、ユカはマイクのスイッチを入れた。
「これ」
わざとマイクを通して声を出すので、ユカの声は部屋に響いた。
フジがまゆをひそめる。
かまわず、ユカは笑顔で一冊のノートをフジに手渡した。
「見て、んで、歌ってみてよう」
わん、と言葉の残響がフジの耳に残った。
フジはとりあえずノートをあけて、いったん目を閉じた。
「やかましいから、マイク消して」
「えー」
「消せ」
「はぁい」
ユカは素直にマイクを消す。
そしてため息と共にフジを見、ごろりと黒いソファに寝転がった。
「まだダメなの?大きい音」
「…」
「スタジオとかじゃガマンしてくれるのに」
「…仕事に、私情は持ち込めないし」
ユカはころん、と体の向きを変えて仰向けになると、呟いた。
「そんだけトシちゃんの影響が強いってことか」
見た目分かるほどに、フジの体が強張った。
傷ついた獣のような目が、ユカを捕らえるから。
「…ごめん」
ユカはうつむいて謝る。
フジは硬い顔でうなずくと、ノートを読み上げた。
「…剣、持つ乙女は…」
一行目で早くも口ごもり、フジは首をかしげた。
「ジャンヌ・ダルク?」
「誰それ」
「…ユカに学識を期待した、私がバカでした」
「えーっひど!」
ため息ひとつ。
ぶうぶう文句をたれるユカは無視して、フジは再度文章を読み上げた。
「剣、持つ乙女は白馬に乗って
白天の下を駆け抜けて
彼の人の姿を求めるの」
……。
フジはあきれ返った。
ユカの文章は稚拙すぎて、ときどき読むのも恥ずかしくなる。
黙ってノートを閉じたフジに、ユカは目を丸くした。
「えっ!?どしたの、続けてよう!」
「…」
フジはため息をもうひとつつくと、ノートを投げるように隣に置いた。
そっと唇が震える。
―――遠い街も そろそろ光の入る暗さで
鳥はうちへ帰るから
童謡のようなメロディーは、昔につくってもらったフジの唄だ。
―――帰る場所のないボクは どこへ行けばいいのか
思えば捨てたものは広く 探せぬ場所にひっかかってる
あきらめたのは誰?
あきらめたのは。
―――やめてよと言われてやめた
水の中で空気を探して
もがいたって沈んでいくから
水面をなかったことにして
静かに死んでいったのはボクで
人魚の唄も聞こえぬ底で
しぼるように叫んでいた
遠い街に響けばいいと
思いをはせて歌ったから
水に嫌われたのかもしれないね
「フジ」
ユカの声がフジを呼んだ。
「…」
フジはユカを見た。
ユカはこちらを、すくいあげるように見つめていた。
黒い長い髪が顔にかかるのも気にしないで、その花びらみたいな唇がさらさらと動いた。
「“黒い金魚”に戻りたいの?」
フジは沈黙する。
隣の部屋から響く音が、楽しそうな音が、
「そうかもしれないね」
記憶を縛るから。
「でもボクは歌わないよ」
落ち着いた声は、けれど一人称が歌のままになっている。
ユカは目を細めた。
「それは、あたしが、歌うなと…言ったから?」
「それもある」
「トシちゃん?」
「それもある」
「…あなたが、“黒い金魚”をつぶしたから?」
フジは押し殺して、笑った。
「それがいちばんの理由かな」
かすれた声はフジの特徴だ。
前は長くてきれいだった髪も、今は無造作に短く切ってある。
化粧っ気のない顔は、長い前髪とフチのついた眼鏡のせいで表情が読めない。
地味な服。
「いいけど」
ユカがあざやかに笑った。
「ユカはね。フジがそうやってすればするほど、嬉しいんだから」
いぶかしむようにこちらを見てきたフジには、とびきりのスマイルを見せた。
「フジにはあたしがいればいいんだよ。だから誰にも近づかないで」
ソファから身を起こしたユカは、テーブルの向こうのフジに身をのり出して、前髪を掻き分けた。
その額にキスをする。
「しあわせだよ」
ほしいものが隣にある、そのことが、しあわせで。
ユカは笑う。