音のない世界で、俺は過去に落ちた
ああ、またか。
満員電車に押し込まれながら、俺は曇った窓の外をぼんやり眺めていた。
会社へ向かう途中、何度も脳内で繰り返す言葉はもう決まってる。
——生きてる意味が、わからない。
過労、パワハラ、残業代なし、休日は上司のゴルフ接待。
誰にも名前を覚えられず、怒鳴られる時だけ「おい、お前」。
高校時代では空気のような存在だったが、大人になっても何も変わらなかった。
もちろん友達なんて高校時代に数人いたが今は誰1人残っていない。
努力? 根性? 夢?
そんなもんは、とうの昔に枯れた。
ふと立ち止まった夕暮れの帰り道。
誰とも目を合わせず、コンビニ弁当を袋に入れて、ふらふらと歩く。
その時だった。
パァン——
乾いた銃声が、街の喧騒を裂いた。
何かが眉間を突き破った感覚があって、世界が、急に静かになった。
音が、すべて消えた。
車のクラクションも、風の音も、人の足音も。
スローモーションのようにゆっくりと世界が流れる中、
遠くのビルの上に、光る何かが見えた。
……レンズの反射。
スナイパー?
なぜ? 誰が? 俺を?
そう思った瞬間、視界が闇に塗りつぶされた。
ザー……ザー……ザー……
テレビのノイズ音が耳元に響いていた。
目を開けると、目の前には古びたブラウン管のテレビ。画面は砂嵐を映している。
「……は?」
体が重い。喉が渇く。けれど、なぜか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
画面の向こうから、聞き慣れないニュース音が流れてくる。
「昨日、午後17時過ぎ——ザーッ—事件が発生しました。
被害者は音無奏さん(35歳)——ザー——容疑者は現在、——警察署に——ザー……」
——音無奏。俺の名前だ。
俺が……死んだ?
思考が追いつく前に、目の前のブラウン管の景色が強制的にシャットアウトされた。
まるで神様がゲームの電源ボタンを押したかのように。
ふと気づくと見慣れない天井が目に入った。
体がベッドの感触を拾った。
柔らかくて、少し沈む。布団の重さが懐かしい。
この布団、知ってる。
この天井も、この匂いも……。
「お兄ちゃーん、起きてー! 入学式、始まっちゃうよー!」
廊下の向こうから、明るい女の子の声が聞こえた。
頭が混乱する。夢か? 幻覚か? それとも——
だが、俺の口は無意識に反応していた。
「……澪?」
20年近く聞いていなかったその声と名前。
目を向けた先には、高校入学式の制服を着た、自分の姿が鏡に映っていた。
俺は——
高校時代に
戻っていた。
「お兄ちゃーん、もう起きてるー? ほんとに時間ないよ!」
廊下の向こうから、元気すぎる声が飛び込んできた。
ドアが軽快に開かれる。バタン。
「……って、あれ? まだ布団の中? サボり癖ついたら初日から印象最悪だよ?」
俺は布団の中で、まばたきを繰り返す。
“あの声”が、現実感を持って耳に届くことが信じられなかった。
ゆっくりと体を起こす。
その目の前に立っていたのは、ポニーテールに結んだ髪、制服のブレザーに袖を通した少女。
「澪……」
「えっ、なに? 急に真顔で名前呼ぶのやめて、ちょっと怖いんだけど……っていうか起きて、ほんとマジで!」
冗談まじりのその声も、表情も、仕草も、全部覚えてる。
懐かしいなんてもんじゃない。心臓の奥がズクズク痛むほど、失っていた時間が目の前にある。
「……夢、じゃないのか?」
「は? なに言ってんの。……あーもう寝ぼけすぎ、シャキッとしなさいお兄!」
冗談めかして“お兄”とか言ってくるのも、たしかこの頃よくあったな。
「……ほんとに、戻ってきたのか」
「なにその中二っぽいセリフ。もう中学生じゃないんだからね」
澪はため息をついて、俺の布団を引っぺがす。
「入学式って言ってるでしょ? 遅刻したら笑われるよ、地味キャラくん」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
そうだ──あの頃の俺は、誰にも存在を気にされない“空気”だった。
でも今は違う。
俺は、確かに死んだ。人生を終えた。
その上で──この時間を、もう一度やり直してる。
「……行くよ。制服、どこだっけ」
「はいはい、クローゼット。あとワイシャツはアイロンかけといたからねー、可愛い妹に感謝してよね!」
澪はふふん、と鼻を鳴らしながら部屋を出ていく。
その背中を、俺は目で追った。
この時間は幻かもしれない。すぐ終わるかもしれない。
でも、今だけは——
この“もう一度”を、俺は無駄にしない。