第8章 1万円の価値
「でも··· 私は--」
翔はしばらく言葉を濁した。 気持ちを整理した後、話を続けた。
「その店の存在を聞く前に··· 数日前、ぼんやりと、何かを見ました。
窓の外で··· シルエットのように。 建物なのか、影なのか、形は不明だったが···」
彼女はうなずいた。 特に驚いた様子はなかった。
「そういうこともあります。 決まったルールがあるわけではないんですよ。
たまに、ごくまれに例外があります。」
「では··· それが···」
「たぶん、お店が先に反応したかもしれません。 翔さんに何かがあると感じたのでしょう」
「お店が··· 私に反応したんですか?」
「はい。ごく稀に、店を開けようとする人に向かってお店の方から先に反応することがあります。
現実より先に無意識が反応しますから…」
彼女の言葉は言葉だったが、蜃気楼のように非現実的だった。
それでも不思議にすべてが事実のように感じられた。
「翔さんは、まだ4段階をすべて踏む前にすでにお店が反応したんです。
あなたの中の何かにその店が気づいたのです。」
カフェの中は平穏だった。
窓の外に春の日差しが静かに照らしていたが、翔の内面は見慣れない世界に向かっていた。
「もっと教えてください。 明確に。 どうすればまたその店に行けるのか、
どうすれば欲しいのが手に入るのか…··· 言葉だけ遠まわしにしないで下さい」
彼の声には焦りがにじんでいた。 彼女は静かにコーヒーカップを置き、首を横に振った。
「1万円分は··· 十分にお話しましたが。」
翔は言葉に詰まった。 彼女は冗談のように言ったが、
その目つきは断固としていた。 彼は息をのんで頭を下げた。
「…ここでお金をもっと使ったら··· カップラーメンも食べられませんよ」
自嘲混じりの言葉に、彼女は小さく笑った。
そしてかばんの中から名刺を一枚取り出して彼に渡した。
「後で必要なら連絡して下さい。 これは··· サービス」
翔は丁寧に名刺をもらった。 厚紙の上黒文字。
【 松田·香奈 ジャーナリスト 】
電話番号とブログのアドレスが書かれていた。
何の変哲もないデザイン。それでもどこか記憶に残る形だった。
彼女、香奈はテーブルを片付けながら最後に言った。
「もしかして··· またその店を見かけたら、連絡ください。 それが本物であろうと偽物であろうと」
翔が頭を上げた時は、香奈はすでにカフェのドアを出ていた。
ドア越しに消える彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、翔は手に持った名刺をもう一度眺めた。