第2章 静かな亀裂
ある朝、翔はアラームの音に驚かされるように目を覚ました。
振動とともに鳴る、いつものメロディ。見慣れたスマートフォンの画面が光っていた。
だが奇妙なことに、今日はアラームより先に起きることができなかった。
「え……寝てた?」
呟いた言葉は、問いというより、自分への戸惑いだった。
頭の奥は霧がかかったような…身体はどこか重たかったが、疲労感はなかった。
口の中は乾いておらず、瞼の裏の違和感もいつもより軽かった。
夢を見たような気がした。
内容は覚えていない。だが誰かに背中を預けていたような、奇妙な安心感。
その感覚だけが胸の奥に残っていた。
「昨日、薬……どう飲んだっけ?」
ぼんやりと記憶をなぞる。
いつも通り、睡眠薬は半分だけ飲んだ。寝る前のコーヒー、スマートフォンも控えた。
特に変わったことはなかった。
なのに――眠ったのだ。確かに、眠りについた実感があった。
出勤の支度をしながら、翔は何度も時計を見た。
遅れてはいない。むしろ、いつもより余裕があった。
地下鉄の中でも目を閉じずにいられたし、会社の近くのカフェでコーヒーを買った時も、
目の奥が痛まなかった。
気づけば、毎朝当たり前のように頼んでいた“トリプルショット”を忘れていた。
「今日、表情明るいですね」
デザインチームの田中さんが声をかけてきた。
翔は軽く笑って、うなずいた。
「ちょっと……寝れたみたいです」
会議はいつも通りに進んだ。
昼休みには、鯖定食を食べた。味も、昨日とそう変わらない。
午後には企画書を修正し、締め切りのスケジュールを担当者と確認した。
退勤40分前、翔はコーヒーを飲みに休憩室へ向かった。
部屋にはすでに数人の社員がいて、雑談に花を咲かせていた。
鈴木課長とインターン、顧客対応チームの女性社員が2人。
翔は自販機で紙コップを取りながら、自然とその会話に耳を傾けた。
「本当に見たって人がいるらしいですよ、その店」
「夢を売る店? 都市伝説じゃないの?」
「いや、最近また話題になってるらしいんですよ。SNSで写真も出回ってて……」
――夢を売る。
最初は聞き間違いかと思った。
コーヒーを一口含んだまま、翔の動きが止まる。
「ほんと、買った夜は熟睡できるって。ルシードドリームも見られるとか」
「本当なら私も買いたいわ。最近眠りがひどいの。」
「でもね、店の場所がわからないんだって。誰も正確に知らないの。
ある人は路地裏の入口で見たって言うし、別の人は地下鉄の階段の下にあったとか」
「ただの見間違いよ。寝不足だと、そういうこともあるから」
翔の脳裏に、昨夜の、あのぼんやりと浮かんだ形がよみがえった。
あれは幻覚だったのか。それとも、夢だったのか――。
コーヒーの湯気がすっかり冷めたことに気づき、彼はそっと背を向けた。
話しかけようかとも思った。だが口を開くことはできず、すぐに首を振った。
「くだらない噂だろう」と、自らを納得させながら、何事もなかったように席へ戻り、
モニターを見つめた。
退勤時間は、いつもと同じように訪れた。
夕暮れに染まる街の中、翔は人波に紛れ、地下鉄へと歩いた。
無表情な顔、沈黙の車内、うつむいた肩――。都市の夜は、今日も淡々と流れてゆく。
午後9時半過ぎ、ようやく家に着いた。
灯りを点け、コートを脱ぎ、鞄を下ろす。その一連の動作すべてが、どこか空虚に感じられた。
――夢を売る店。
スマートフォンを手に取り、検索エンジンを開く。
「夢を売る」文字を入力したところで、指が止まった。
疲労感が、静かに肩にのしかかる。
「……何してんだ、俺」
呟きながらスマホを置き、灯りも消さず、ベッドに横になった。
ようやく、薬を飲み忘れたことに気づいた。
翔は再びサイドテーブルを開け、薬瓶から半錠を取り出し、水で流し込んだ。
そして、目を閉じる。
だが――眠れなかった。
むしろ身体は深く沈み、意識だけが鮮明になってゆく。
会社の出来事、コーヒーの匂い、記憶の断片、昨夜見たあの形。
思考が波のように押し寄せ、彼を静かな渦の中に引き込んでいった。
翔は、音のない沈黙の底で、ゆっくりと、確かに崩れていった。