第1章 眠らない都市
高橋翔、32歳。彼は毎朝、目覚ましの音より先に目を覚ます。だが、「目覚め」とはとても言い難い。
それはむしろ、「眠ることを諦めた結果」とでも言うべき行為だった。目を閉じていられない、ただそれだけの理由で、翔はベッドの端を押して起き上がる。眠りと覚醒の狭間、その曖昧な闇の中で、彼の一日はいつも始まった。
枕元のサイドテーブルには、半分ほど残った睡眠薬の瓶。ほとんどの錠剤は効かず、時にかえってひどい朦朧感を与えるだけ。それを知りながらも、彼は薬瓶を手放せなかった。まれに、本当に稀に、効き目のある日がある。それは信仰というより、未練。しがみつくような執着だった。
翔の身長は173、174ほど。小さくはないが、大きくもない。顔立ちは整ってはいるが印象は薄く、人に不快感を与えることもなければ、強く記憶に残ることもない。
学生時代、誰かから告白されたことは一度もなく、自分が誰かの目に留まるとは思ってもみなかった。初めての恋は大学二年の頃。だがそれは、恋愛という形を模倣したような関係に過ぎなかった。彼女は、翔が兵役で1年半過ぎた頃、別の男と去り、メール一通で別れを告げてきた。謝罪の言葉すらなかった。
除隊後、翔は卒業条件をかろうじて満たし、大学を卒業。そこから始まったのは、出口の見えない就職活動だった。数え切れないほど履歴書を送り、何度も不採用通知を受け取った。ようやく辿り着いた面接でも、結果はいつも他の誰かへと流れた。
今の職場は、そんな彼が偶然見つけた求人情報の隅にひっそりと載っていたものだった。人々は口を揃えて「それでもホワイト企業じゃないか」と言ったが、翔にとってその会社は「グレー」に近かった。名前は知られておらず、福利厚生は乏しく、社員の入れ替わりは激しかった。外見こそ整っていたが、中は古びた蛍光灯のように、ちらちらと不安定に光っていた。
翔はマーケティングチームの主任を務めている。それは実力の結果というより、ただ長く勤めてきたという理由で与えられた肩書きだった。
社内では無難な存在として過ごしていた。同僚と昼食を共にし、会議では当たり障りのない笑みを浮かべる。しかし、それ以上ではなかった。
彼の一日に三杯以上の濃いコーヒーを誰も気に留めることはなかった。いや、正確には、誰も興味を持たなかったのだ。
誰もがそれぞれの疲労を抱えて生きていた。不眠や倦怠は、関心の外に置かれていた。人々は翔を「無難な人」と評したが、翔自身は、徐々に「透明な存在」になっていくような感覚を抱えていた。
その夜も変わりはなかった。午前3時、天井を見つめながら起きていた。長年の染みが浮かぶ、そこには微かな亀裂があった。彼には、それが少しずつ育っていくように感じられた。自分の不眠と同じく、ゆっくりと、誰にも気づかれずに。
眠れないまま、胸の奥が妙に寂しく感じられた。何か大切なものを失ったような感覚。だが実際には、何も失っていなかった。 誰にも興味を持たれず、何も起こらず、ただ日々は過ぎていく。ただただ恐ろしく。「何もない」という事実が。
翔は体を横にして、半ば固まった枕に顔を埋めた。カーテンの隙間から差し込む街の灯りが、壁に長く影を落としている。彼は目を閉じた。
その霧闇の中、ふと浮かんだものがあった。ビルのような、看板のついた入り口のようにも見える、輪郭が曖昧な形。それは都市の無彩色の風景に、異物のように重なっていた。
胸が一瞬高鳴ったが、感情はすぐに静まった。再び目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。何もなかった。いつもと変わらぬ夜だった。
再び、彼は目を閉じた。