みんな以外なんだから急に怒鳴ったり急に殴ったりしてもいいって思っている人いる!
9話
マボーが驚いた様子で私を見上げているから、よっぽど変な顔をしてしまったのだろう。
お母さんが化粧水を染みこませる時にしてるみたいに、顔面をゆっくり擦って皺を伸ばす。
……ちょっとばかし本格的にマズいかも。記憶がぐるんぐるんする。
マボーはそれまでと変わらない調子でぼそっと言う。
「暴力……なのかな」
マボーは小声で、暴力暴力、と繰り返す。
「何かが違う気がするけど、言葉とかはどうでもいいや。誰かを殴り倒したり、誰かに殴り倒されたり、そういうことをしたいんだ」
「なっ、なんで、そっ、そっ、そんなことをしたいのよ!」
素性も知らない年下の少年を相手に激昂するなんて変だぞ。そういうのって大人げないよ。やめなさい。
もっと穏やかに話さないとダメだってば。そう思ってるのに、どんどん興奮してしまう。
最低だ、私。
でっ、でもさ……。暴力は、恐い。そういうことしたいって言われるのだって恐い。
「なっ、殴られたら痛いでしょ! 殴られて痛いのって体だけじゃないんだよ! こっ、心だって痛くなって、消えない傷が残ったりするんだよ! 体の痛みはいつか消えるけど……こっ、心はずっと痛いんだよ! いや、心の傷も治るんだけどさ。なんで治さないといけないんだ、って思うじゃない!」
マボーは怒鳴っている私をじっと見つめる。
「別に自分に痛みが残ったっていいし、誰かに残したっていいんだよ。互いにやりたいことをやってそうなったんだから、それはしょうがないことだろう。体も心も関係ないよ」
どうして怒っているんだ? と言いたげなマボー。ふざけないでよ!
腕がない、というのは健常者だった時より、暴力が身近な存在になるってことだ。
だって、腕がないってことは弱い人ってことだもん。
よ、弱い人に容赦ない人って……。
いる。
いるんだ。
容赦ないは違うな。平等に扱ってくれるならそれでもいいや。
だけど、そうじゃないんだ。
じっ、じっ、自分と!
みっ、みんなと!
えっと……。
みんな以外の歌を歌っているような人には……ンッ。
あっ、はぁはぁはぁ……ンッ! あっ、くっ!
そっ、そういう人は……ンッ!
くぅぅぅっ!
みんな以外の歌が聞こえるような人には、何をしたっていいんだって思っている人はいるよ!
みんな以外なんだから急に怒鳴ったり急に殴ったりしてもいいって思っている人いる!
こうなる前は知らなかったけど、いるんだ。
想像をはるかに超えて、いる。
平然と平気でなんでもない顔で、いっぱい、いる。
私は普通ですって顔で生きてるよ。
私だってそんな人がこんなに多いなんて腕をなくすまで知りませんでした!
「しょ、しょうがないなんて理由で、誰かを傷つけたりしていいと思ってるの?!」
暴力をふるうのは悪いことです。そんな当たり前すぎなことで怒られているのに、理由がわかんないなんてことある?
きっと頭が悪いんだ、コイツ。
マボーは慎重な声色で「暴力はいけないことかもしれないけど、オレはそういうことをしたいんだよ」
私の話なんか聞けないってことか! バカにするな!
「なんでそういうこと言うのよ! 誰かを傷つけてもいいと思ってるなんて変」
「オレってそんなに理解不能なことを言ってるか?」
くっ!
「りっ、理解はできる。だっだっだだ……。だだだだだっ、だだだだだっ……んっ!」
唇を強く結んでから、ゆっくり口を開く。
「んっ。だっ、だって暴力をふるうのって楽しいもんね。わっ、わっ……わっ……わっ」
ヤバいって!
どくんどくん頭に血が昇る。いつの間にか喉がカラカラだ。唾を飲んだだけで痛い。
「わっ、私をなっ……なっ」
肺が小指の先くらいに縮んじゃったみたいで、うまく呼吸ができない。
口をぱくぱくさせて何とか空気を吸い込む。息をはきながら、目を開ける。
「私を殴った人は笑ってたもん。ニタニタ笑って私をなっ、殴る人っているもん。だからわかるよ。人を殴るのって、たっ、楽しいんでしょ?」
ガツン、と地面を踏み叩く。
なめるなよ、意地悪な世界!
おまえなんかに殺されてたまるか!
私の心はプレパラートより薄いけど、薄いガラスは鋭利な刃物なんだからね。
簡単に砕けるけど、世界の肌を切り裂くことだってできるんだ。
殺せなくても、痛いって思わせることくらいできる。
いつの間にか汗ばんでいた拳をぎゅっと握り、空っぽの右袖をぐるんと回し、胸を張る。
虚勢を張らないと大変なことになってしまう。思考がどこかに墜落していく。どこに落ちていったかなんて見ない。
だって見たりしたら、またダメになっちゃう。
変になって、鬱になって、またみんなに迷惑かけちゃう。マボーに自分が間違っているって気づかせないと、おかしくなってしまう。
なんてこった!
マジかよ。
いつの間にか、私の存亡をかけた戦いが始まってしまった。