泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 九
九
「まさかとお思いなさるでありましょう。お話が大分唐突でござったで」
僧侶は頬に手を当てて、俯いて少し考え、
「いや、しかし恋歌でないとしてみますると、その死んだ人の方が、心を迷わせたのかも知れんでございます」
「とんでもない話じゃありませんか。それはまたどう言う訳があってのことですか」
と、散策子は何時しか、もう御堂の畳ににじり上がっていた。曰くありげな物語を聞くのに、懐が窮屈だったので、懐中に押し込んであった鳥打ち帽を引き出して、傍らに差し置いた。
松を渡る風の音が立った。が、春の日なので、その風はふうわりと人よりも軽く、空にそよそよと吹くのである。
僧侶は仏前の燈明をちょっと見て、
「それというのは、ですな、……
実は先刻お話申した、ふとしたご縁で、御堂のこの下の仮庵室をお宿に提供いたしました、そのお方なのでありますが、
その貴下、うたた寝の歌を、そこに書きました婦人のために……まぁ、言ってみますれば恋煩い、いや、焦がれ死にをなすったと言うことでございます。早い話が」
「へぇ、今時ね、どんな男です」
「ちょうど貴下のような方で」
はぁ? 茶釜から尻尾が出た訳ではない。この文福和尚、渋茶を振る舞うどころか、修行者を警策で打ち据えるようなことをする。散策子は思わず後ろに身を反らして、呆気に取られ、……ただ苦笑するだけであった……
「いや、これは、飛んだところへ引き合いに出しました」
と言って高笑いをし、
「おっしゃることといい、やはりこういうことからお知己になったこともあり、何だかよく似ておられましたので、ついうっかりしましたな、これは」
「否、結構ですとも。恋で死ぬ、本望です。この平和な世に生まれて、戦場で討ち死にをする機会がなけりゃ、おなじ畳の上で死ぬにしても、焦がれ死にが洒落ています。
華族の大金持ちの家に生まれて、恋煩いで死ぬ、これくらい有難いことはありますまい。恋は叶う方が可さそうなもんですが、そうすると愛する人と別れなければならない時が辛い。愛別離苦です。
ただ死ぬほど惚れるというのが、金を溜めるより難しいんでしょう」
「本当にご冗談がお好きでおいでなさる。はははは」
「真面目ですよ。真面目なだけ、なお冗談のように聞こえるんです。あやかりたいもんですね。よくそんなのを見つけましたね。よくそんな、焦がれ死にをするほどの婦人が見つかりましたね」
「その人を見ることは誰にも出来ます。美しいと申しても、龍宮や天上界へ参らねば見られないのではござらんで」
「じゃ、現在もいるんですね」
「おりますとも。土地の人です」
「この土地の人ですか」
「しかもこの久能谷でございます」
「久能谷の……」
「貴下、何でございましょう、今日ここへお出でなさるのに、その家の前をお通りになりましたろうで」
「その美人の住居の前をですか」
と言った時、あの照り輝く菜の花の中、機を織った若い方の婦人が目に浮かんだ。
「……じゃ、あの、やっぱり農家の娘で」
「否々、大財産家の細君でございます」
「違いましたか」
と、思わず呟いたが、
「そうですか、大財産家の細君ですか、じゃ、もう主のある花なんですね」
「さようでございます。それがために、貴下」
「なるほど、他人のものですね。そして、誰が見ても綺麗なんですか、美人なんですか」
「はい、夏になりますと何千人という客人が東京から見え、目の覚めるような美麗い方もありますけれども、なかなかこれほどのお方はないでございます」
「じゃ、私が見ても恋煩いをしそうですね。危ない、危ない」
僧侶は真面目に、
「なぜでございますか」
「帰路には気を注けねばなりません。どこですか、その財産家の家は」
つづく




