泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 六
六
「お参詣に来る人は結構多いのですか」
話の糸口に、とりあえず、そう言ってみた。
僧侶は頷くようにして、机を前に、身体を若干斜めにして整然と座り、
「さようでございますな。ご繁盛、と申したいところではありますが、最近はあまり多くはございません。以前はここも荘厳かつ美麗で、見事なものでありましたそうですが。
貴下、先ほどお通りなさいましたでしょう。ここからも見えますが、往時は、あの菜種畠の辺りから、この山の裾へかけまして、ずッと、山門、本堂、講堂、僧堂、庫裡、浴室、東司という七堂伽藍が建て連なっておりましたそうで。書物にも見えますが、三浦郡の久能谷では、この岩殿寺が、土地の草分けと申します。
板東第二番の巡拝所で、名高い霊場でございますが、今ではすっかりその旧跡とでも申すようになりました。
妙なもので、かえって遠国の方々の参詣が多うございます。近くは上総下総(*1)、遠い所では、九州、西国辺りから、伝え聞いて巡礼なさる方がありますが、この方たちが、当地へござって、この近辺で御堂の場所を訊かれますと、ついここを知らない者が多くて、大いに道に迷ったなぞと言う、お話を聞くでございますよ」
「そういうもんです」
「ははは、いかにも」
と言って、ちょっと言葉が途切れる。
僧侶の言葉は、少し寄付金の勧誘のようにも聞こえたので、少し気になったが、煙草の灰を落とそうとして目に留まった火入れの、いぶり燻った色合いや、マッチの燃えさしの突っ込み加減が、巣鴨辺りに弥勒菩薩がお姿を現すのを待っている真宗大学の寄宿舎に似て、あまり所帯じみていなさそうなので、これなら、別に遠慮することもなく、本音で話をしてもいいのでは、と思うようになった。
そこでまた清々しく煙草を一吸いして、鉄拐仙人(*2)が遠くの山の端に煙を吐くようにして、
「夏はさぞ涼しいでしょう」と言った。
「まったく暑さ知らずでござる。御堂は申すまでもありませんが、下の仮庵室なども本当に涼しいので、ほんの草葺きではありますが、些とお帰りがけにお立ち寄りになって、ご休息なさいまし。木葉を燻べて渋茶でも献じましょう。
年季の入った茶釜ではありますがな、いや、狸の尻尾でも出ましたなら、それもまた一興でござる。はははは」
「お羨ましいご境遇ですな」
と客は言った。
「否、どうして、貴下、そんな悟りを開いた智識もございません。一軒家の一人住まい、心寂しゅうござってな。先ほども、お詣りをされているお姿を、あそこからお見受け申して、後を慕って来ましたほどで。
時に、どちらにご逗留で?」
「私ですか? 私はその停車場の直ぐ近くの所に」
「大分前からですか」
「先々月あたりからです」
「いずれにしても、ご旅館でしょうな」
「否、一室を借りまして、自炊です」
「は、は、さようで。いや、不躾でありますが、ご希望であれば、仮庵室をご用立ていたしますよ。
甚だ唐突でありますが、昨年の夏も、お一人、やはりこのようなことから、貴下のようなお方にお宿をご用立ていたしたことがございます。
ご夫婦でもよろしい。お二人ぐらいなら、十分な広さでありますから」
「はい、ありがとう」
と散策子は莞爾して、
「ちょっと、通りがかりでは、こういう所が、こちらにあるとは思われませんね。本当に佳い御堂ですね」
「時々は、ふらりとお遊びに、お立ち寄り下さい」
「もったいない、お参詣に来ましょう」
何気なく言った散策子のその顔を、僧侶はにわかに信じられないといった風に眺めた。
*1:上総下総……現在の千葉・茨城県
*2:鉄拐仙人……中国の仙人の一人。煙を吐きながら遠くを見つめている図が有名。
つづく




