泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 四
四
のんきな馬子どもが、ここに人が居るのを見て、はじめて、のっそりと馬の鼻面へ姿を現した。真正面から前後三頭、一列に並んで、たらたらの下り坂をゆたゆたと来たのであった。
「お待ち遠さまでごぜぇます」
「はぁ、お邪魔さまな」
「ご免させぇまし」
と、三人が一人一人声を掛けて通る間、散策子は流れの縁に爪立つくらいにまで、身を細くして躱したが、それでもまだ目の前を通る大きな皮の風呂敷に目を包まれる心地がした。
路は一際細くなったが、その代わり、踏む草は柔らかで、きりきりはたり、きりきりはたりと、長閑な機の音に送られて、やがて何事もなく、蒼空が樹の間から漏れる石段の下に着く。
この石段は最近すっかり修復された(従って、上り坂の路も、草が分かれて、一筋に見通せるので、もう蛇も出ないだろう)が、散策子が馬と遭遇したその当時は、大破していて、ちょうど修理にかかろうかという時だったので、馬はこの石段の下にある、寺と言うほどでもない一軒の住職の控家の裏口に石を積んできたのであった。
石段を上ると、ぐらつきはしないかと危ぶむほど角が欠け、石が抜け、土が崩れて、足許も揺らぐので、散策子はよろけながら攀じ上っていった。見る見るうちに、目の下の田畠が小さくなり、遠くなって、それに従い、波の色が蒼く、ひたひたと足許に迫るように思えたが、これは海を臨むこういった山が均しく持つ特徴である。
樹立で薄暗い石段の、石よりも堆く積もった青苔の中に、あの蛍袋という、薄紫で、俯向いた姿の桔梗科の早咲きの花を見るにつけても、何となく湿っぽい気がして、しかも湯滝の跡を踏んだように熱く汗ばんでいたのが、颯と一風吹くと、一瞬にして身体はひやひやとなった。境内はそれほどまでには広くない。
それに、御堂のうしろから左右の廻廊へ、幕を張ったように山がぐるりと取り囲んでいるので、雑木の枝も墨に染まったような暗さである。どこからともなく松を渡る風の音が聞こえてくる。
寄せ来る浪は渚を薄雪のように敷き、続いて砂を撫でて、巌間に消える。その都度、音も聞こえそう。ただ、名残惜しいことに、耳に残っていた、きりはたりという機の音はぴたりと止んでしまった。
ここから見ていれば、織姫の二人の姿は、菜の花の中ではなく、まさに蒼海原に描かれ、浪に浮かんでいるような風情である。
いや、もうお参詣をしましょう。
御堂には五段の階段がかかり、縁の下は馬が駈け抜けそうなくらいに高いけれども、欄干はもはや見る影もない。昔はさぞかし……と思われた。丹塗りの柱、花模様の透かし彫りのある欄間、梁にめぐらされた紺青の波も、金色の龍も色褪せ、昼の月が茅の屋根から漏れて、唐戸には飛び交う蝶の影が映る光景。しかし、古い土佐絵の画面にも似て、しかも名工が筆に籠めた思いは伝わって来て、眩いとまでは言わないが、奥ゆかしく、何となく尊く懐かしい。
格子の中は暗かった。
戸張で閉ざされた御厨子の傍に造花の白蓮が供えられてあり、それを見ていると、お姿は見えないが、気高い御仏を感じ、思わず頭を垂れて、二、三尺引き退き、心静かに四辺を見た。
合天井には紅白の牡丹が数多く描かれている。胡粉は僅かにその白い色を残し、紅も辛うじて色を散り留めて、まるで元から刻まれていたかのようである。散策子はまさに夢の中で花園を仰ぐ思いであった。
それら、花にも白蓮の台にも、もちろん丸柱は言うまでもなく、狐格子、唐戸、桁、梁など見廻せば、どれにもこれにも、巡礼の札が貼り付けられていないものはほとんどない。
彫金というのがある。魚政というのがある。屋根安、大工鉄、左官金というのもある。東京の浅草や深川、そしてまた、周防国、美濃、近江、加賀、能登、越前、肥後の熊本、阿波の徳島からのものもあった。このように、全国津々浦々からやって来る渡り鳥、稲負せ鳥(*1)、あるいは閑古鳥に喩えられるような人など、実際はどんな人だか分からないが、名だけをそこに残しているのである。これらすべての善男子、善女人は、たとえ寒い夜に安宿で眠っていても、雨の夜に苫船に揺られていても、夢の中では、ここを訪れているのだろう。巡礼たちの霊魂は時々ここに来て、きっと思い思いに楽しんでいるのだと思われる。……こうやって見ていると、一枚一枚の札は、一軒に一つ掲げている表札のようで面白い。
*1:稲負せ鳥……稲刈り時に飛来する秋の渡り鳥。
つづく