泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 二十三
二十三
「寝衣にただぐるぐると扱帯を巻いた姿で、霜のような白い裸足、そのまま向こうむきに、舞台の上へ崩れ折れたようになって、がっくりと、膝を曲げる。
そこに、カン! と拍子木が入ります。
すると、釘付けされたように立ち竦んだ客人の背後から、背中を擦って、ずッと出たものがある。
黒い影で。
見物人が他にもいたかと思ったが、そうではない。その影が、よろよろと舞台へ出て、夫人とぴったり背中合わせに坐ったところで、こちらを向いたでございますが、顔を見ると自分です」
「えッ!?」
「それは客人ご自身なのでありました。
で、後から私にお話になるには、
『本当なら、そこで死ななければならんのでした』
と言って、溜息をついて、真っ蒼になりましたっけ。
それでも、これからどうなるのか、見ていたかったそうです。もちろん、胸は早鐘を打ち、血が逆流するような思いでな。
しばらくすると、その舞台の自分が、やや身体を捻じ向けて、惚れ惚れと夫人の後ろ姿を見入ったそうで、それから、指の尖で、薄色の寝衣の上へ、こう山形を描いて、下へ一つ線を引き、△を書いたでございますな、三角を。
見ている客人の胸はドキドキして、冷汗でびっしょりになる。
夫人はただ首垂れているだけ。
今度は四角、□、を書きました。
その男、即ち舞台に上がった客人ご自分がです。
と、膝に置いた夫人の指の尖が、わなわなと震えました……とな。
三度目に、○、円いものを書いて、線の端がまとまる時、颯と地を払って、空へ抉るような風が吹くと、谷底の灯の影がすっきりと冴えて、そこに鮮やかに薄紅梅の色が浮き出た。これは浜なのか、海の色なのか、と見る耳許へ、ちゃらちゃらと鳴ったのは、投銭が木の葉と摺れ合う音で、それらが目の前でくるくると廻った。
気がつくと、四、五人が、山のように客人の背後から押被さっておった。いつの間にか他に見物客が出来ておったと。
その時、夫人の顔の色は、こぼれかかった艶やかな後れ毛を透いて、一段と美しく見えたかと思うと、その口許で莞爾として、うしろざまにたよたよと、男の足に背をもたせて、膝を枕に仰向けになった。するとずるずると黒髪が解けて、覆われていた真っ白な胸があらわれた。その重みで男も倒れた。と同時に、舞台がぐんぐんずり下がって、はッと思うと旧の土の上。
峰から谷底へかけて哄と声がする。そこからは、もう夢中で駈け戻って、蚊帳で寝ていた私に縋りついて、
『水をください』
と言うて私を起こされた、が、身体中疵だらけで、夜露でずぶ濡れであります。
それから夜明けまで、私に一切の懺悔話。
翌日は一日寝てござった。昼過ぎに、女中が二人ついて、夫人がこの御堂へ参詣なさったのを見て、私は慌てて、客人に知らせぬよう、暑いのに、貴下、この障子を閉め切ったでございますよ。
それ以来、あの柱に、うたた寝の歌がありますもので。
客人はその後二、三日、石の棺に籠もったように、自ら自身の行動を抑え、謹んで引き籠もってござったし、私もまた油断なく見張っていたでございますが、貴下、少しばかり目を離しました僅かな隙に、どこかへ姿が見えなくなりました。点燈頃、木樵が来て、
『私、今、来がけに、あそこさ、蛇の矢倉で見かけたよ』
と、知らせました。
客人はまたあの晩のような芝居が見たくなったのでございましょう。
死骸は海で見つかりました。
蛇の矢倉と言うのは、この裏山の二ツ目の裾に、水の溜まった昔からある横穴で、『わッ』というと、『おう』――と底も知れない奥の方へ十里も広がって響き渡ります。水は海まで続いていると申し伝わると言いますが、どうでございますかな」
雨が二階屋の方からかかってきた。音ばかりして草も濡らさず、あたかも裾を摺りながら、さわさわと路を通うようである。一連の話に美人の霊が誘われて来たのだろう。黒雲のような髪に、桃色衣の装いで、菜の花の上を蝶を連れて、庭に来て、陽炎と並んで立って、しめやかに窓を覗いた。
(「春昼」 了)
「春昼」は今回で終了しました。
拙い訳を我慢強く、最後までお読みいただきました読者に感謝いたします。
これ以後は「春昼後刻」として、物語は続きます。
(勝手訳も継続しますが、今少し、日数を要しますので、ご了承下さい)
この最後の章には、色々と興味深い事柄が描かれています。△□○を描いたこともその一つ。これについても、色んな面から考察がなされていますが(たとえば、<松村友視 『春昼』の世界>「論集 泉鏡花」)、ここでは触れません。
ただ、いわゆるドッペルゲンガー(Doppelgänger)現象についてだけ、簡単に追記しておきます。多くの読者は既にご存じだと思いますが、いわゆる「二重身」と呼ばれるもので、自分がもう一人の自分を見るという、自己像幻視です。この現象が起きると、その人には近々死が訪れると言われています。
澁澤龍彦がどこかに書いていたように記憶するのですが、ギリシャ神話の中で、ナルシスが水に映る自分の姿に見とれて、遂に死んでしまい、その後に水仙の花が咲いたという話も、結局、彼も自分の姿を見たことによるドッペルゲンガーによって死んだのだといいます。
物語の客人も同様で、自ら『本当なら、そこで死ななければならんのでした』と述べているように、自分でも死を予感していたものだと考えられます。




