泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 二十一
二十一
「けれども、その囃子の音は、草を一叢出るか、樹立を一畝越えさえすれば、直に見えそうに聞こえますので、二足が三足に、五足が十足になった。そうして、段々深く入るに従い――ここまで来たのだから、見ないで帰るのも惜しい気がする上に、何だか旧へ帰るより、前へ出る方が路も明るいかと思われ、それで些と急ぎ足になると、路は徐々に上りになって来た。ぐいと伸び上がるように、思い切って真っ暗な中を、身をのけぞるようにして草を毟りながら高い所へ出ると、そこはぼんやりと薄明るく、地ならしがしてある場所である。何だか墓地の縄張りの中ででもあるような、そんな平らな丘の上に出ると、月は曇ってしまったか、それとも海へ落ちたか、一方は今来た路で、向こうは崖か、谷か、それとも浜辺か判然しないが、底一面に靄がかかって、その靄に、ぼうと遠方の火事のような色が映っていて、篝でも燃いているかと、底澄んで赤く見える。その辺りに、太鼓が聞こえる、笛も吹く、ワァという人の声もする。
いかにも賑やかそうだが、さて実際はどことも分からない。客人は、その朦朧とした頂に立って、境は接しても、美濃と近江の、人情も風俗もまったく違うという寝物語の里(*1)の祭礼を、ここで見るかと思われた、と申します。
それも、宵宮にしては些と賑やか過ぎるので、おそらく本祭りの夜なのか? しかも人の出盛りも過ぎた後の、夜更けの景色のようだと思いながら眺めて、しばらく茫然としていたそうな。
と、何となく、心寂しくなった。路も結構歩行いたような気もする。頭が茫乎して、草臥れてしまい、もう帰ろうかと思った時、先刻見た遠方の火事のような火気を包んだ靄が、こう風にでも動かされたか、谷底から上へ、次第に裾上がりに色が濃くなって、向こうの山にかけて映る。それが直き目の前で何かを燃している景色に思えた――もっとも靄に包まれながらではあるがの――
そこで、それが何か見極めたい気もして、その平地を真っ直ぐに行くと、まず、それ、山の腹が覗かれましたわ。
判った! 祭礼は谷間の里から始まって、ここがその終点らしいのだ。見たところ、灯影は今いる場所では薄いが、下に行くに従って段々と濃くなり、次第に賑やかになっています。
そこは、やはり同一ような平らな土で、客人の居られる丘と、向こうの丘との間で、箕の形になった場所。
爪尖も辷らず、静かに安々と下りられた。
ところが、箕の形の、一方はそれ祭礼に続く谷の路でございましょう。その谷の方に寄った、畳なら八畳ほどは、油が広く染んだ状態みたいになっていて、草がすっぺりと禿げておりました」
と言うと、僧侶は瀬戸物の火鉢を縁の方へ少しずらし、俯向いて手で畳の上にある程度の大きさを描いて、
「これだけな、赤土が出た所に、何かこうぼんやり踞ったものがある」
と、足を崩した後、膝に手を置いた。
ふと、外の方を見た散策子は、雲が動くようにして軒端近くに迫って来るのが分かった。
「で、手を上げて招いたと言います――ゆったりとした風にな――客人は引き寄せられたように、ふらふらと前へ出て、それでも間を二、三間隔てて立ち止まって見たのだが、その踞ったものは顔も上げないで、俯向いたままである。草色の股引のようなものを穿いて、でんと胡座をかいた膝の脇に置いてあった拍子木を取ると、カチカチと鳴らしたそうで、その音は何者かが歯を噛み合わせるように響いたと言います。
そうすると」
「はぁ、はぁ」
「薄汚れた帆木綿みたいな破穴だらけの幕が開いたと」
「幕が?」
「さよう、その幕は向こう山の腹へ引いてあったが、靄のように見えていたので分からなかった。けれど、どうやらそのものの手には幕を開ける用意の綱があったとみえます。踞ったまま立ちもせんので、恐らくそうでしょう。
窪んだ浅い横穴じゃが、大きかったと言いますよ。正面に幅一間ほど。もっとも、この辺にはちょいちょいそういうのを見かけます。店の裏口近くにそんな穴のある百姓屋などは、そこに漬物桶を置いたり、青物野菜を育てるなどして重宝がっております。で、幕が開いたからには、それが舞台で」
*1:寝物語の里……美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)との国境の里の名。
つづく




