泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 二
二
何を言い出すのかと、あからさまに歪めた眉を、日にさらしながら、親仁は煙草入れをふらふらさせて、
「へい」と。
「あまり好きな方じゃないからね、実は」
散策子はそう言って、笑いながら、
「その癖、恐いもの見たさで、立ち止まって見ていると、何じゃないか、少時すると身体を半分ほど垣根に入れ、尾を水の中へばたりと落とすと、次に鎌首を、あの羽目板へ潜り込ませたじゃないか。羽目の中は、見たところ湯殿らしい。それとも台所かも知れないが、何しろ内にゃ若い女たちの声がするから、どんなことで吃驚してしまうかも知れない、と思ってね。
あのまま座敷の下へなり、納戸へなり、見えない所にのたくり込めば、別にどうもありゃしない。それまでというもんだけれど、どこか板の間にとぐろでも巻いているところへ、うっかり出会したら難儀だろう。
どっちにしろ、余計なことだけれど、お前さんを見かけたから、ついそこだし、あそこの家の人だったら、ちょいと言っておいてあげようと思ってさ。何ね、ここらじゃ、蛇なんか何でもないのかも知れないけれど」
「はぁ、青大将かね」
と言いながら、大きな口を開けて、あくまでも長閑な陽射しが舌に染むくらいに笑いかけた。
「何でもなかぁねぇだよ。あすこさ、東京の人だからね。この間もその一件で大騒ぎをしたでがす。行って見て進ぜますべい。とうに、はい、何処かへずらかったかも知んねぇけれど、台所の衆とは心安ぅするでがすから」
「じゃぁ、そうしてお上げなさい。しかし詰まらんことで邪魔をしたね」
「否、なぁに、お前様、どうせ日は永ぇでがす。はぁ、お前様ものんびりとお行きなせぇまし」
こうして、人間同士がのんびりと別れた頃には、例の蛇はどこに行ったのやら。蛇というのはおそらく龍のようなものだろうから、その行き先は凡人になど分かろうはずもない。
散策子が踵を返して、来た道を戻って行くと、きりきりはたり、きりきりはたりと、鶏が羽をうつような梭の音が聞こえて来た。それに誘われるように、向こう側の垣根に沿って、二本の桃の下を通り、三軒の田舎屋の前を過ぎたが、その間に、十八、九のと、三十ばかりの婦人が二人、機を織っているのを見た。
納戸の破れ障子が半開きになっていたので、横顔ではあるが、姉さん被りの若い方が、白い腕で梭を投げるのが見えた。歳のいった方は、前庭の乾いた土に筵を敷いて、背向きに機台に腰を掛けていた。それがトンと足を上げると、ゆるくキリキリと音が鳴るのである。
ただそれだけを見て過ぎた。女今川（*1）の口絵でなければ、近頃はあまり見かけない可懐しい姿である。今少し立ち止まって、と言う気もしたけれども、せめて小児でも居ればいいが、どの家も皆、野良仕事に出たのか、この二人以外に人気もない。じっと眺められれば、人馴れない女たちは恥ずかしがるだろう。いや、この男の風采を見ただけでも、怖がったり、驚いたりしてしまうかも知れない。この路を後へ取って返して、今さっき蛇を見たという、その二階屋の角を曲がると、左の方に背の高い麦畠があって、それが斜面沿いに徐々に低くなって行き、下へ一面に颯と広がるのだが、その浅緑に、美しい白波が薄らと靡く渚がある。その渚辺りの雲もない空に、赤や青で鮮やかに彩られている美しい西洋館でさえ、青異人、赤異人と呼んで、その色を鬼のように言うくらいだから、こんな風采の男は髯がなくても『帽子被り』と言うのだと聞く。
もっとも、そんな風に――たとえ村の者から西洋館は青鬼だ、赤鬼だと喩えられるにしても――一方は、蝶が飛んでいても、あれは帆艇の帆か、と思えるくらいに海水浴場として大いに開けているのだ。右の方は昔ながらの山の形で、真っ黒な大鷲が翼を打ち重ねている趣があり、それが左右から一重ごとに苗代田に迫って、峰の裾は次第に狭くなって行くのだが、奥の方の暗く行き詰まったあたりに、いきなり現れるあばら屋の窓は、山が開けた眼に似ていて、あたかも巨大な蟇が徐々に明けて行く海から遁げ出し、谷間にじっと身を潜めている風情がある。
*1：女今川……江戸前期に沢田きちが著した女性のための絵入り仮名書きの教訓書
つづく
