泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 十八
十八
「ハックションと、大きな嚔をして、親仁は煙管を落とした。その拍子に、額にゴッツンで、小児は泣き出す。負けた方は笑い出す。涎と何かが一緒に指に付いたのでござろう、鼻を摘まんだ禅僧は苦々しい顔つきでその指を持て余したという格好。
これを機会に立ち去ろうとして、振り返ると、荒物屋と葭簀一枚隔てただけの隣家が、間に合わせの郵便局で、そこの表口からすらりと出たのがその人。汽車が着いたとみえて、馬車や車ががらがらと五、六台。それを見に出たものらしい。郵便局の軒下から往来を誰かを探すように、透かすようにしたその目が、ばったり客人の目と合ったのであります。
そうすると夫人は弁えたように、直ぐに葭簀の陰に身を引いたものの、顔を背けもしないで、そこから向き合ってこっちを見ました。
夫人が軒下に身を引く時、目で引きつけられたような心地がしたから、こっちもまた葭簀越しに……。
その時は、総髪の銀杏返しで、珊瑚の五分珠の一本差し。髪のせいか、いつもより眉が長く見えたと言います。浴衣ながらも、帯には黄金鎖を掛けていたそうでありますが、こっちを透かし見るのに、その鎖が揺れて音のするほど、胸を動かした。その顔がな、葭簀を横に、ちらちらとこちらを透かし見ようとするのが、どこか霞を引いようにも思われ、これに目が眩むばかりになって、思わずちょっと会釈をした。
向こうも、伏し目になって、俯向いたかと思うと、その時リンリンと、貴下、高く響いたのは電話の音じゃ。
夫人はこれを待っていたのでございますな。
直ぐに電話口へ入って、姿は隠れましたが、奥行きが浅いのでよく聞こえる。
『はぁ、私。あなた、あんまりですわ。あんまりですわ。どうして来てくださらないの。怨んでいますよ。あの、あなた、夜も寝られません。はぁ、夜中に汽車が着く訳はありませんけれども、それでも今にもね、来てくださりはしないかと思って。
私の方はね、もうね、ちょいと……どんなに離れておりましても、あなたの声はね、電話でなくっても聞こえます。あなたには私の声は聞こえないでしょうけど。
どうせ、そうですよ。それだって、こんなにお待ち申している、私のためですもの……気兼ねばかりしていらっしゃらなくてもよろしいわ。些とは不義理、否、父さんやお母さんに不義理と言うこともありませんけれど、ね、私は生命かけて、きっとですよ。今夜にも、寝ないでお待ち申しますよ。あ、あ、たんと、そんなことをお言いなさい、どうせ寝られないんだから可うございます。怨みますよ。夢にでもお目にかかりましょうねぇ、否、待たない、待たれない……』
お道か、お光か、女の名前。
『……みぃちゃん、さようなら、夢で会いましょうね』――
と、きりきりと電話を切ったそうな」
「ほう」
と思わず聞き惚れる。
「その日は帰ってから、豪い元気で、私はそれ、『涼しさや』といった句の通り、縁側から足をぶらぶらさせ、客人はそこの井戸端で焚きます据風呂に入って、湯を使いながら、露出しの裸体談話。
そっちとこっちで、高声でな。もっとも、隣近所はござらぬ。遠慮なしで、電話の仮声を交えたりして。
『やぁ、和尚さん、梅の青葉から、湯気の中へ糸を引くのが月影に光ってみえる。蜘蛛が下りてきた』
と、勢いのいいこと、いいこと。
『万歳、万歳、相手は一人、今夜はお忍びか』
『もちろん』
と、そう答えて、頭のあたりにざぶざぶと湯を掛けて、上を向きながら、仰いで天に愧じず(*1)という顔つきでありました。が、日頃の行いから察して、いかに思い死にをしているとしても、いやしくも主ある婦人に、そういう不埒な考えを起こすようなお方ではないと思いましたが、それはその通りで。
冷奴に紫蘇の実、白瓜の香の物で、私と一つの膳に向かい合いながら夕飯を食べ終えると、帯を締め直して、
『もう一度そこいらを』
いや、これはと、ぎょっとしたが、垣の外へ出られた姿は、海の方へは行かないで、それ、その石段を」
散策子が外を見れば、日はそこら一面に降り注いではいるが、蝶が僅かに羽を動かすくらいに、山の草に薄雲が軽く靡いて、軒から透かし見ると、峰の方は暗かった。あまりにも暖か過ぎたからである。
*1:仰いで天に愧じず……心にも行いにもやましいことは少しもない。
つづく