泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 十五
十五
「眉が太くて、怒ったように鼻の穴を拡げたのがいたり、額が広く、顎を尖らせて、下目で睨むようなのがいたり、反っくり返って、煙も出さず、もじゃもじゃの頬髯の中に葉巻を突っ込んでいるのがいる。くるりと尻を引捲くって、扇子で叩いているのもいる。どいつもこいつも浴衣がけの下司野郎。まぁ、そいつらはともかくとして、その中に浅黄色の兵児帯の結び目を二尺くらい、ぶらりと、ふくらはぎの辺りまでぶら下げ、緋縮緬の扱帯をぐるぐる巻きにして胸高にしている余りにも常識外れなのがいた。兵児帯はご自分のものであろうが、扱帯は、恐らく酒の席あたりで、小間使いのを分捕ってきたものだろう。
これらの様子が、言うに言われず、客人の気を悪くした。多分、夕方の浪が荒れかけた折も折、あの赤や青の洋館に住む赤鬼青鬼なるものが、か弱い人を冥土へ引き立てて行くように思えたのであろう。思いなしか、引き挟まれた夫人は、何となく物寂しく、気分も優れず、滅入った容子に見えて、その哀れさに、命がけでも、そいつらの中から救ってやりたいという気持ちが起こった。家庭の様子も、だいたい分かったように思え、気が揉める、と言われたのでありますが、貴下、そう思ったところで、土台、これは無理じゃて。
地獄の絵に、天女が天降った所が描かれてあるのをご覧なさい。餓鬼が救われるようで尊かろ。
蛇が神の使いじゃと言うのを聞いて、弁財天を、ああ、お気の毒な、さぞお気味が悪かろうと思う者はおりますまいに。男どもに取り巻かれた夫人を見て、そう思うなど、迷いじゃね」
散策子はここで少し腕組みをした。
「しかし何ですよ。女は自分の惚れた男が別嬪の女房を持っていると、嫉妬らしいようですがね、男は反対です」
と、いささか論戦を挑む口振り。
「ははぁ……」
「男はそうではない。惚れている婦人が、小野小町という花で、その対手が大江千里という月であれば、対句通りになっている、と見て安心します。
ただ今の、その浅黄の兵児帯、緋縮緬の扱帯となると、些と考えねばならなくなる。耶蘇教の信者の女房が、主キリストに抱かれて寝た夢を見たと言うのを聞いた時の気持ちと、回々教の魔神に慰められた夢を見たと言うのを聞いたときの気持ちとは、きっとそれは違いましょう。
どっちにしろ、嬉しくないことは、分かりますがね。前者であれば何とか我慢ができるけれども、後者だったら到底堪忍ができますまい。
まぁ、そんなことはさて置いて、何だってまた、そう言う不愉快な人間ばかりがその夫人を取り巻いているんでしょう」
「そこは、玉脇がそれ、鍬の柄を杖に支いて、ぼろ半纏に引っ抱えた、ほら、例の一件で、ああやって大概の華族も及ばない暮らしをして、交際にかけては銭金を惜しまんでありますが、情けないことには、遣り方が遣り方ゆえ、身分や名誉のある人は寄付きませんで、悲しいかな寄ってくるのは、いかがわしい連中ばかり」
「ちょっと待ってください。なるほど、そうするとその夫人というのは、どんな素性の人なんですか」
僧侶はあらためて、打ち頷き、かつ咳をして、
「そこでございます。夫人はな、歳はというと、誰の目にも大体は分かります。先ず二十三、四、それか五、六とか言ったところで」
「それで三人の母様? 十二、三のが頭ですか」
「否、どれも実の子ではないでございます」
「ままッ児ですか」
「三人とも先妻が産みました。この先妻についても、まず一くさりのお話はあるでございますが、それは余計なことゆえ、申さずともよろしかろ。
二、三年前に今のを迎えたのでありますが、それ、そこでありますよ。
どこの生まれだか、どんな育ちなのか、誰の娘だか、妹だか、皆目分からんでございます。金を貸して、そのかたに取ったか、金を出して買うようにしたのか。落魄れた華族のお姫様じゃと言うのもいれば、破産してしまった大家の娘御だと申す者もおります。そうかと思うと、箔のついた芸娼妓に違いないと申すのもいるし、ひどいのになると、高等淫売の末裔だろうと、呆れるような噂をするのもござって、まったく底の知れない池に棲む、ぬしとでも言うように、素性が分からず、今日の今日まで、知る者はいない様子でございます」
つづく




