泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 十四
十四
「これは可笑しい。釣りと言えば、ちょうどその時、向こう側の岸にしゃがんで、魚釣りをしていた者がいたのでござる。橋の際にある荒物を商う小さな家の亭主でござって、身体が痩せていて、引き締まった身体には似ず、褌の緩い男で、どういうものか、隙さえあれば、いつも釣りをしているのですが、下がはだけていましょう、真にあぶなッかしい姿でな。
渾名を一厘土器と申すでござる。頭の真ん中の兀具合が、その通りですて――川端にいた一厘土器――これがその時も釣っていました。
庵室の客人が先刻申した欄干に腰を掛けて、はらはらと靡く後れ毛から覗かれる、雪のような襟脚を見送っていますと、ちょうど小橋を渡ったところで、中の十歳くらいのがじゃれて、その腰へ抱きついたのであります。夫人が白魚のような指を反らして、叱るような仕草で、軽くその小児の背中を叩いた時だったと申します。
『お坊ちゃま、お坊ちゃま』
と大声で呼び掛けて、
『手巾が落ちましたよ』と知らせたそうでありますが、先ほどの土器殿も、餌は魚にくれてやるという気なのか、釣りはそっちのけで、粋な後ろ姿を見送っていたものとみえますよ。
『やぁ』と言って、十二、三の一番上の児が、駈け戻って、橋の上へ落としていった白い手巾を拾い、懐中へ突っ込んで、黙ってまた飛んで行ったそうで。小児ですから、お辞儀も挨拶もないでございます。
夫人が礼を述べる気持ちで顔だけ振り向いて、肩へ頤をつけるようにしながら、心持ち唇の両端を上げて、その涼しい目で、熟とこちらを見返ったのですが、どうやら私の許の客人が言ったと、取り違えたものらしい。その時、客人と、ぴったり目が合ったのでございましょう。
客人は一瞬にしてその眼に魅せられ、無意識に、はッと礼を返したが、それッきり。夫人の方を見られなくって、誤魔化すように傍を向くと貴下、一厘土器が怪訝な顔色。
いやもう、じっとりと冷や汗をかいたと言います。――こりゃなるほど、極まりがよくない。
局外の者が普通に考えれば、馬鹿げたことではありますが、夫人に対して気があってご覧なさい。第一、野良声の調子ッぱずれも可笑しいところへ、自分の主人でもない余所の小児を、坊やだとか、あの児だとか言うくらいなら可いけれど、へつらったように、『お坊ちゃま』とは浅慮さの極み。言ってみれば、自分の器量を下げた同然。
また一方、先ほどの土器殿にも小っ恥ずかしい次第でな。他人の親切で手柄を得たような、変な羽目になったので。
ご本人は、それほどまでには口に出して言われませなんだが、それから何となく鬱ぎ込むのが、傍目にも見えたであります。
四、五日は引き籠もってござったほどで。
後に、何もかも打ち明けて私に言いなさった時の話では、しかしまたその間違いが縁になって、今度出会った時は、何となく両方で挨拶でもするようになりはしないか。そうすれば、どんなに嬉しかろう、本望だ、と思われたそうな。迷いというのは可恐い、情けないものでござる。世間にいる大抵の馬鹿も、これほどのことはないでございましょう。
三度目にはご本人」
「また出会ったんですか」
と、聞く方も話の続きを待ち構える。
「今度は反対に、客人が浜の方から帰って来るのと、浜へ出ようとする夫人とが、例の出口の所で会ったと言います。
大分もう薄暗くなっていましたそうで……土用明けからは、目に立って日が短くなりますところへ、日に日に、散歩のお帰りが遅くなって、蚊遣りでも我慢ができず、私がここへ蚊帳を吊って潜り込んでから帰って見えて、晩飯ももう要らない、などと言われることも度々でありました。
その時も、早、黄昏時でありましたが、朧ながらにぼんやりと月が出たように、ある人の顔が……。あぁ、見違えるはずのないその人だ、と思った矢先、男が五人、中には主人もいたでありましょう。婦人はただ夫人一人。それを取り巻くようにして、どやどやと些と急ぎ足で、浪打ち際の方へ通ったが、そんな人数に囲まれていりゃ、当てにしていた目礼など、とても叶うはずもない。というのも、貴下、その五人の男というのが……」
つづく




