表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
14/23

泉 鏡花「春昼」現代語勝手訳 十四

 十四


「これは可笑(おか)しい。釣りと言えば、ちょうどその時、向こう側の岸にしゃがんで、魚釣りをしていた者がいたのでござる。橋の(きわ)にある荒物を商う小さな家の亭主でござって、身体が痩せていて、引き締まった身体には似ず、(ふんどし)(ゆる)い男で、どういうものか、隙さえあれば、いつも釣りをしているのですが、下がはだけていましょう、(ほん)にあぶなッかしい姿でな。

 渾名(あだな)一厘(いちもん)土器(かわらけ)と申すでござる。頭の真ん中の(はげ)具合が、その通りですて――川端(かわばた)にいた一厘(いちもん)土器(かわらけ)――これがその時も釣っていました。

 庵室の客人が先刻(さっき)申した欄干に腰を掛けて、はらはらと(なび)く後れ毛から覗かれる、雪のような襟脚(えりあし)を見送っていますと、ちょうど小橋を渡ったところで、中の十歳くらいのがじゃれて、その腰へ抱きついたのであります。夫人が白魚のような指を()らして、叱るような仕草で、軽くその小児の背中を叩いた時だったと申します。

『お坊ちゃま、お坊ちゃま』

 と大声で呼び掛けて、

手巾(ハンカチ)が落ちましたよ』と知らせたそうでありますが、先ほどの土器(かわらけ)殿も、餌は魚にくれてやるという気なのか、釣りはそっちのけで、粋な後ろ姿を見送っていたものとみえますよ。

『やぁ』と言って、十二、三の一番上の()が、駈け戻って、橋の上へ落としていった白い手巾(ハンカチ)を拾い、懐中(ふところ)へ突っ込んで、黙ってまた飛んで行ったそうで。小児(こども)ですから、お辞儀も挨拶もないでございます。

 夫人が礼を述べる気持ちで顔だけ振り向いて、肩へ(あご)をつけるようにしながら、心持ち唇の両端を上げて、その涼しい目で、(じっ)とこちらを見返ったのですが、どうやら私の(とこ)の客人が言ったと、取り違えたものらしい。その時、客人と、ぴったり目が合ったのでございましょう。

 客人は一瞬にしてその眼に魅せられ、無意識に、はッと礼を返したが、それッきり。夫人の方を見られなくって、誤魔化すように(わき)を向くと貴下(あなた)一厘(いちもん)土器(かわらけ)怪訝(けげん)顔色(かおつき)

 いやもう、じっとりと冷や汗をかいたと言います。――こりゃなるほど、()まりがよくない。

 局外(はた)の者が普通に考えれば、馬鹿げたことではありますが、夫人に対して気があってご覧なさい。第一、野良声の調子ッぱずれも可笑(おか)しいところへ、自分の主人でもない余所(よそ)小児(こども)を、坊やだとか、あの()だとか言うくらいなら()いけれど、へつらったように、『お坊ちゃま』とは浅慮(あさはか)さの極み。言ってみれば、自分の器量を下げた同然。

 また一方、先ほどの土器(かわらけ)殿にも小っ恥ずかしい次第でな。他人の親切で手柄を得たような、変な羽目になったので。

 ご本人は、それほどまでには口に出して言われませなんだが、それから何となく(ふさ)ぎ込むのが、傍目(わきめ)にも見えたであります。

 四、五日は引き籠もってござったほどで。

 (のち)に、何もかも打ち明けて私に言いなさった時の話では、しかしまたその間違いが縁になって、今度出会った時は、何となく両方で挨拶でもするようになりはしないか。そうすれば、どんなに嬉しかろう、本望だ、と思われたそうな。迷いというのは可恐(おそろ)い、情けないものでござる。世間にいる大抵の馬鹿も、これほどのことはないでございましょう。

 三度目にはご本人」

「また出会ったんですか」

 と、聞く方も話の続きを待ち構える。

「今度は反対に、客人が浜の方から帰って来るのと、浜へ出ようとする夫人とが、例の出口の所で会ったと言います。

 大分もう薄暗くなっていましたそうで……土用明けからは、目に立って日が短くなりますところへ、日に日に、散歩のお帰りが遅くなって、()()りでも我慢ができず、私がここへ蚊帳(かや)を吊って(もぐ)り込んでから帰って見えて、晩飯ももう()らない、などと言われることも度々(たびたび)でありました。

 その時も、(はや)黄昏時(たそがれどき)でありましたが、(おぼろ)ながらにぼんやりと月が出たように、ある人の顔が……。あぁ、見違えるはずのないその人だ、と思った矢先、男が五人、中には主人もいたでありましょう。婦人(おんな)はただ夫人一人。それを取り巻くようにして、どやどやと()と急ぎ足で、(なみ)打ち(ぎわ)の方へ(とお)ったが、そんな人数に囲まれていりゃ、当てにしていた目礼など、とても叶うはずもない。というのも、貴下(あなた)、その五人の男というのが……」


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ