壱
時は江戸時代―流行病や飢饉が、まだ悪霊や妖怪のせいだと信じられていた時代。そんな時代で求められたのが、祈祷師、または陰陽師と呼ばれる、悪霊や妖怪を祓う仕事をしていた人々。まぁ他にも仕事はあったんだろうけど、あたしはそれしかやったことないし、それ以外に興味はないしねー。
あ、あたしは兼城ミキ。江戸で陰陽師?祈祷師?って呼ばれてるような仕事をしてる女。別に先祖代々由々しきお家!って訳じゃない。ぽっと出の、持って生まれた能力でなんとかおまんま食ってる感じ。
放浪癖があるから、ひとつの家に帰ることはまあ無い。悪霊や妖怪の退治をして、お金をもらって、宿に泊まる。それがあたしの長年の生活スタイル。時々親切な村の人や街の人にお宿を借りることもあるんだよ、みんな親切な人ばかりだからね。
あー、えっと、長々語るのは苦手さ!だから前座はこの辺にして、まあ見ていってちょうだいよ。
あたしの生き様を、兼城ミキの人生の旅路をね。
「今日の依頼は〜ん〜このお団子相変わらず美味いね〜ぇ!団子はここのを食ったら、ほかんとこで食えないよ」
片手に団子、片手に手紙。そして脇差の刀に、露出の多いなんとも奇抜な格好。全てにおいてアンバランスなこの女、兼城ミキはひとり団子を食らう。
「ふふ、ありがとう。ミキさんほど美味しそうに食べてくれる人はいないわ」
おしとやかに笑うのは、傍らにお盆を抱えて佇む女性。この茶屋の一人娘、カエだ。
「そう言って頂いて光栄ですよって!あー美味しいなぁもう!」
もはや手紙そっちのけ。完全に右手の串にしか目がいっていない。
下品に食い散らかすお嬢様に、一言声が囁いた。
『おい、食うか読むか、どっちかにしろ。行儀の悪い』
言われてもむぐむぐ口を動かすのはやめない。今食べるのをやめるということは、生命活動の停止を意味するからだ。それほどミキの食に対する態度は神がかっている。
「うるさいなぁ柳のくせに。あんただってあたしの中で充分お団子味わってるんでしょ」
「…ミキさん?一体誰とお話をされているのですか?柳さんとは、どなたですか?」
可愛らしく小首を傾げて尋ねるカエに、ぎくぅ、と分かりやすい反応。喉に団子が詰まって、窒息死寸前だ。
確かに傍から見ればただの独り言だ。
たらたら変な汗が背中を流れていく。
「た、たははは!ごめんごめん、なんでもないの!カエちゃん、お勘定はツケで!」
ようやく団子を通過させ、慌てて立ち上がるミキに、はぁ、とますますキョトン顔のカエ。
ごちそーさまっ、と慌ただしく席を立つと、隣にかけておいた剣を掴んで、風の如く走り去っていってしまった。
「急なお仕事でも入ったのかしら…」
ぽかんとしたまま背姿を見送るカエは、完全に彼女を見失ったところではたと嫌なことを思い出した。
「ってミキさん!ツケは次来た時に払うって言ってたじゃないですか!」
今更言っても、時すでに遅し。いつになったら、数ヶ月分のツケが払われるのか。
呆れ返るカエの目に、遠くの山の夕日が映えた。
「こ、こんなもんでいいかな…」
まるで追っ手から逃げるかの如く茶屋から飛び出したミキは、人通りのない川辺で息荒く腰を下ろした。
『別に追ってこないだろ、あの娘は』
誰のせいでこうなったと思ってる、とミキは目をつり上げる。
「大体あんたのせいでしょが!あんたが人前で声出すなんて、なんちゅー失態してくれてんの!」
『まあまあいいじゃねえか。別に他人に聞こえるもんじゃねえし』
俺のせいじゃねえ、とおかしそうにクスクス笑う声の主は、どこにもいない。別にミキにしか見えていないとか、そういうわけではない。こいつは、ミキの中に住み着いているのだ。
こいつの名前は柳。出会ったのはつい数ヶ月前。ミキが仕事で倒した妖怪が取り込んだ幽霊が柳だった。
柳はかつては人間で、幽霊だった。実体を持ちたいがために妖怪と契約し、妖怪自身となり、悪さをした。
妖怪というのは、食らった人間の魂・その意思により強さが決まる。妖怪になりたいと望む人間がいるのも事実だ。なぜなら妖怪には寿命がないため殺されるまで妖怪の中でだが生きることが出来る。天国や地獄へ行く必要も無い。ゆえに妖怪になりたいと望む者は幽霊が多い。
悪さをした妖怪達は、陰陽師らの手によって封印されてきた。妖怪たちが封印されている場所というのはだいたい決まっており、そこに行けば誰でも人間の体と交換に妖怪になれる。多くは山や地下など、向かうことが困難な場所にある。
簡単には破れないようになっている封印も、力があれば解けてしまうこともある。それに出るのが困難なだけで、入るのは自由に出来るのだ。これは陰陽師たちが妖怪をとらえ、封印する時に手間取らず中へ放り込めるからである。柳はもともと体を持っていなかったから、いつでもそいつらの中に入り、妖怪になることが出来た。
妖怪は魂が原動力なんだから、魂が欲しいに決まってる。だけど何しろ魂がないから動けない。だから妖怪たちは待っていた、そこに訪れる、妖怪になりたいと願う愚かな魂を。
妖怪は死にもしないし歳もとらないから、病気を持ってるもう余命幾許もない幼い子や少年少女たちが妖怪になりたいと望み、なってしまうことが多い。だが、妖怪になっても、実際体を動かすのはもともとの意思。分かりやすく言うと、妖怪の持つもともとの意思が操縦者となり、後から来た魂が火や油等の燃料になるわけだ。火や油は、操縦者を操れない。ただ黙って、その意思のままに妖怪を動かすだけ。仕事をしていたミキが出会ったのは、その被害者の柳だった。
でも柳はそれを知っていた。知っていて妖怪になった。彼はそれほどまでして実態を手に入れたかったのだ。
妖怪退治を済ませた後、ミキは柳と話をした。
話を聞けば、家族を亡くし、女と出会い幸せを手にしたと思えば騙されたのだという。美人局というやつだ。そしてそのまま切り捨てられ、さまよっていたのだという。
「あんた、相当苦労したんだね」
妖怪になった魂は、その妖怪が悪さをした以上地獄に連れていかれるのが定めとなっている。柳も連れていかれるはずだった。
だが―困ったことに、変な情が、ミキの中に出来てしまった。
「第二の人生、あたしと過ごしてみない?」
お茶でも行かない?と誘うが如く言うものだから、何を口走っているのか、理解できなかった。いや、理解した、理解したが故に混乱したのだ。
「まあ嫌ならいいけどさ、前世よりはましじゃん?あれ、生まれ変わってないから前世って言わない?ま、体が変われば生まれ変わったも同然か!」
柳はこの時、絶対断ると誓っていたらしい(後日談)。こんなちゃらけた女と四六時中一緒にいなきゃいけないなんて。だったら地獄に行った方がましだと柳は本気で思ったそうだ。
「お前は人間だろう?ひとつの体にふたつの意思を宿すなんて、そんなことをしたら体が裂ける」
それを聞いてミキは、驚くというよりかはむしろ、感激したように目を瞬いた。
「へぇ、そうなの?初めて知った!」
がくっ、と柳の力が抜ける。どうしてよりによってこんなのに声をかけらにゃならんのだ。そしてなんでこんな奴があの妖怪を退治できてしまうのか。初めて柳は理解できない苦しみを味わったらしい。
不意に、お香の香りが、鼻をくすぐった。風の吹く方へ目をやると、かすかに見える人影が、こちらに向かってくるのが見えた。
「地獄の使者だね」
ミキが声をかける。
「よくお分かりになりましたね、兼城ミキ」
ふん、と鼻を鳴らしてミキは腕を組んだ。
「別に。あんた、少しはお香の匂い落としたら?これじゃ、地獄逃れの奴らを探すのに困難なんじゃなーいの」
べーっと舌を出して精一杯の嫌味を言ってやると、使者はさもおかしそうに笑った。
「お気遣い、感謝です」
「別にあんたを気遣っての発言じゃないってぇの。ただ癪に障るだけ」
ははは、と使者は笑い、ミキに一歩歩み寄った。そっと右手を差し出して、
「さあ、兼城ミキ、魂を渡しなさい」
笑みはあくまで崩さない。ミキがすんなり魂を渡すと思っているからだ。
しかし、出てきた言葉は衝撃的だった。
「ごめん、その魂さ、地獄に連れていかないでくれない?」
「…」
使者がその言葉の意味を理解するまで約三秒。柳が理解するまで、あと二秒。
五秒間の沈黙の末、先に口を開いたのは使者だった。
「それは出来ません」
「なぜ?」
「この魂は妖怪の魂となり、たくさんの悪行をしてきました。それは地獄で裁かれるべきことです」
うーんとミキは顎に手をやり、しばらく考える様子。驚きを通り越してもはや、呆れを感じ始めたらしい地獄の使者は、痺れを切らしたように口を開いた。
「あのですね、たとえ妖怪になっていなかったとしても、過去に」
「あーっ、じゃあさじゃあさ、言い方を変えるよ!」
人が話している時に…!と使者はわかりやすい怒りの顔。しかしミキには通用しない。何故ならそれがミキだから。
「この魂、あたしに頂戴よ」
言い方を変えると言っても、言っていることは同じだ。首を振ってため息をつく使者。
「馬鹿馬鹿しい、子供みたいなことはやめて…」
ミキの目を見た瞬間、使者は言葉を飲んだ。
目の奥に燃える、静かな炎。それが怒りなのか、決意なのか、使者には分からない。だが、それが仮に怒りだったとしても、その怒りは使者だけでなく、その背中にある地獄全てに向けられているような気がした。こんなミキを見るのは初めてだ。何も言えない使者に、ミキは静かに言い放つ。
「これは頼みじゃない、命令だよ。今まであたしは何個もの魂をあんたらにくれてきた。それの利益を考えれば、少しはあたしの言い分も分かるんじゃないねぇ?」
聞けないなら、とミキの目がぎらりと輝いた。
「あんたを今ここで斬り伏せて、閻魔の土産にしてやろうか」
使者はごくりと生唾を飲み込み、ミキから目が離せないまま押し黙っていた。勝利の見えた睨めっこだ。どちらが折れるか、既に明らかだ。時間の問題だった。
「あ、あの…」
怯えた様子の使者の声を聞き、ミキはふっと目を閉じた。
「はぁ、慣れてない恫喝はするもんじゃなーいねっと」
「…え?」
再度ミキを見ると、彼女の顔には満面の笑顔。片腕には、いつの間にか柳の魂。柳は状況が飲み込めないまま、ミキの手の中に収まっていた。
「ま、そういうことで!この子は貰っていくね!おさらば〜っ」
追いかけようと一歩踏み出した途端、あがったのは煙。煙玉を足元に投げつけたようだ。なんて古典的なやり方、使者はもう追いかける気も失せてその場にへたりこんだ。
「って、俺は結局どうなんだよ」
「ああ!ごめんごめん、中に入れてあげるからちょいとお待ちよ」
キキーッと足に急ブレーキをかけ、急いでミキは武器を下ろした。片手に持っていた柳の魂をそっと地面に置き、衣装の前をゆるめる。
幼い見た目に合わない豊乳が少し覗き見え、柳は慌てて目を逸らした。
「お待たせ。さぁ、手に乗って」
大人しく手に乗る柳に、くすくすとミキは笑う。
「逃げるチャンスをあげたのにさ。逃げなかったんだから、もう文句は言えないよ」
そういえばこの隙に逃げれば良かったのだ。あの豊乳に目がいって、ついまともな対応ができなかった。一生あの豊乳を恨んでやる、と柳は泣きそうな気分で思った。
だがまあこれも運だ。地獄から逃れられたのも、妖怪から逃げられたのも、こいつのおかげなのだから。この変わった祈祷師についていくのも、悪くは無いと思った。それからもうかれこれ数ヶ月。あっという間だった。
「柳と出会って、もう随分経つねぇ」
同じ体ゆえ、考えることは同じなのだろうか。柳は少し驚いて、ついこんなことを言ってしまう。
『俺も同じことを考えていた。早いもんだなぁ』
こぼす柳に、あら、とミキは少し心外そうに言う。
「あんたと同じこと考えるなんて、やっぱりあたしら運命共同体だね!」
嫌な方向に持っていったものだ。
柳はハイハイと適当に流した。
『ところで、お前、手紙は読んだのかよ。依頼、来てるんだろ』
回想に浸っているうちにすっかり忘れてしまった。夕暮れに差し掛かっていることに今更気づき、ミキは慌てた様子で懐から手紙を取り出す。
随分しわくちゃになってしまったが、まあこいつの元に来た手紙で、綺麗なまま仕事が終わることは無い。まだ読めるだけ十分だ。
バサッ、と乱雑な手つきで手紙を広げる。
『へえ、化け猫かぁ』
「こらっ、勝手に読まない!」
そうは言われても同じ体なのだから、ミキが視線を落とすと自然に柳の目にも入ってしまう。相変わらずなんとも無茶を言う。反抗するのも面倒だから、柳は黙って手紙を見続ける。
「んーと…なになに、最近村で盗難事件が起きています。犯人は化け猫…?化け猫ってそんな金品盗むイメージなかったけど」
猫に小判ということわざがあるように、猫に金品の価値が分かるのだろうか。いくら化け猫といっても、元は猫なのだから。
『化け猫が犯人って、どうして分かったんだろうな』
「誰か見たのかもしれないよ、…あ、ここに書いてある」
家に帰った村人が、自宅を荒らす化け猫と遭遇。抵抗して殺された―
感情を全く含まずに淡々と読み上げるミキに、柳の目は一気に覚める。
『殺された!?』
「らしいよ。抵抗なんてするから…人間が妖怪相手に勝てるわけないのにさ」
手紙を折りたたみ、懐に入れて立ち上がる。
「さ、行こう」
『行くってどこへ』
「決まってるじゃない、その村に事情聴取に行くの。依頼人の村長さんとも、詳しい話がしたいしね」
ミキは歩き出す。村の位置は、同封されていた地図に書いてあった。問題は、何日かかかるか分からない、ということだ。
『また歩くのか?』
いつもミキはどんなに遠くても歩いて依頼主の元に向かう。最近は依頼主の家が近いから、そんな何日も歩くことは無かったのだが、この地図からすると、どうも三日は歩き続けなければならないようだ。
「しょうがないジャーン、他にどんな交通手段が…って、そーだっ!」
突然の大声に、柳はびくっと体を震わせる。
『な、なんだよ…急な大声出しやがって』
いくら同じ体でも、急な大声は予測不可能だ。
「烏に配達してもらおうよ!いっつも手紙を配達してくれる、烏!」
『…え…』
ミキのいう烏というのは、いつも手紙をミキのもとに届けてくれる八咫烏という烏だ。ミキが幼い頃、一度罠にかかって捕まっていた烏を助けてやったことがあり、それから手紙をいつも届けてくれるようになった。いつしか、各地に専用の投函箱まで作られ、そこに依頼の手紙を入れると、ミキのもとまで烏が運んで届けてくれるという話まで出ている。ご丁寧に噂を嗅ぎ付けた烏が、ミキのもとまで手紙を配達してくれるようになった。
だが、あくまで烏は配達の係だ。人間を運ぶほどの力など持っているはずがない。
『あんなか弱い薄っぺらい背中に乗ったら、一発で潰れるだろうさ、あの烏』
「どういうことよ、あんたァ」
目くじらを立てるミキに、柳はさもおかしそうに笑う。謝る気などない柳に、ミキはますます拗ねたように唇を尖らせた。
『それより、烏ってどうやって呼ぶんだ?勝手に投函箱から手紙を持ってきて、勝手に運んできてくれるだけだろ』
確かに、手紙無しに呼ぶ術はない。出会うためには、手紙を運んできてくれる時を待つしかない。
ミキは考え込んで唸り声を上げた。笛もないし、呼ぶための呪文も知らない。そんなミキの頭に、ふといい考えが浮かぶ。
「烏って、どうやってあたしたちの居場所を知ってるのかしら」
言われてみれば、と柳も首を傾げる。
『匂い、とか?』
「やだ、あたし、臭う?」
急いで自らの体の匂いを嗅ぐミキに、柳はもう声をかけてやる気にもならない。
『で、どうするんだよ。このままじゃ、ずっといい方法が見つからないままで終わるぞ』
柳の言う通り、以来受理から依頼達成までの期間が長引けば長引くほど、被害が拡大する恐れがある。今は一人の死者だが、後々何人に増えるか分からない。
「いいや、もうなんでもいいから試してみよう!」
『試すったって、何を』
それには答えず、ミキは口に指を咥えこんだ。そして勢いよく息を吸い込むと、
ピィィィィッ!
甲高い指笛の音。遠くの山々に木霊し、反響しながら響き渡る。
『本当にこんなもんで来るのか?』
半信半疑の様子で、半ば呆れて柳は言う。しかし、その疑念はすぐに打ち破られることになる。
遠くの山から近づいてくる、黒い塊のようなもの。耳を澄まさずとも間もなく聞こえてくる大きな羽音。
「よっしゃ、きたぁっ!」
『えええええっ!?』
実体があったら目玉が飛び出すのではないかというほど、柳は驚きを込めて叫んだ。
「ずいぶんたくさん連れてきたもんだねーこりゃ」
眉を寄せ目を細め、烏の大群を見つめるミキには、驚きという感情は無いのか。
『やっぱり重いからな』
ミキが驚かないおかげで、柳の驚きも吸い取られる。
「あんた分の体重も込みなのよ」
もう怒る気も無いのか、ミキも適当にあしらう。
バサバサっ、と音を立てて烏たちはミキの前に綺麗に整列する。改めて見ると、凄い数の烏である。軽く百は越えそうだ。
「ありがとうみんな!よく集まってくれたねぇほんとに…」
『というかよく指笛だけで分かったな…』
呆れ半分、感激半分で柳はため息をつく。対してミキは目を輝かせてその大群を隅から隅まで見回している。初めてのものを見て感動するのは、いくつになっても変わらない、ミキの童心に、柳はほんの少し微笑ましい気持ちでいた。
「さて、どうしたものか。どうやって乗ればいいのかーしらね」
ミキは顎を撫でつつぼやいた。
集まってくれたのはいいが、そんなにいては上に引っ張るために掴む場所がなくなってしまう。髪の毛が掴まれては、きっと体重に耐えられなくて禿げになってしまう。
考えても案が見つからないミキに、痺れを切らしたのか烏が一羽、前に進み出た。
カァ、と鳴きながら背中をバサバサ盛んに羽ばたかせている。あいにくミキも柳も烏の言葉はわからないので、烏が何を伝えようとしているかわからな「わかったぁ!」
びくぅ!と柳は久々の大声に飛び跳ねた。
『な、何がだよ』
「背中に乗れってことなんだよ!ほら、盛んに背中をバサバサさせているし、なんかみんな集まってるし!」
気づけば烏の大軍は大きな円になって固まっている。遠慮なしに乗り込むと、烏はゆっくり浮上した。
『ぎゃあああ!』
柳が身のうちで、情けない声をあげる。
「ひょーすごい!結構速度速いね!すっげー!最高!烏!もっと飛ばしちゃってー!」
ミキの言葉に煽られるように、烏はぐんぐん上昇し、それに伴い速度を上げていく。柳の悲鳴は聞こえないので届かない。
到着までに柳の気が失われていたことは、言うまでもない。
烏が降り立ったそこは、小さな農村だった。山々に囲まれ、そこかしこに田畑が広がっている。大きくはないが、小さくもない、そこそこに家のある村だった。
烏に感謝と別れを告げ、ミキは烏から降りる。
「ありがとう烏ーぅ!帰りもよろしくねー!さーてここが依頼のあった村かぁ、そこそこいい村じゃん?」
満足気にぐーんと伸びをしてミキが言う。烏の飛行がよほど楽しかったのだろう、顔色も良い。
『…そうだな、…うぅ』
一方の柳は死にかけだ。死んでいるのだが。今にも吐きそうな声音である。
「ちょっと大丈夫?あたしまで気分悪くなりそうだから早く回復してよー?」
体を共有しているので、柳のネガティブな心境は、ミキにも影響を及ぼしてしまうのだ。体がないので体調不良は無いが、心は影響しあってしまうらしい。
そうこうしているうちに、烏の大群を不審に思った村人たちが続々と家から出てきた。
皆は奇抜な格好のミキを遠巻きに見ている。なるだけ関わりを持ちたくないと思っているようだった。ミキはそんなことは慣れっこなので明るく声をかけた。
「こんにちはー!お騒がせしてごめんね、あたし兼城ミキ!妖怪退治の仕事してるんだけど、今日はこの村から依頼を受けて来たってわけ!早速だけど村長さんいるー?」
当たり前だが、村中がざわつく。妖怪退治を頼んだことは知っていたが、こんな奇抜な格好の奴が来るとは思っていなかった、というような声が、あちらこちらで上がる。本当にこいつに頼んで良いのか?と。間違いでは無いのかと。もちろんそんな反応だって慣れっこだ。
男がひとり、こちらに近づいてきた。初老の、羽振りが良さそうな男だ。ミキが小首を傾げると、男は笑顔で手を差し出してきた。
「よくぞ来てくれましたな、ミキ殿。私はこの村の村長です。依頼したのも、私です」
友好的な態度に、ミキも微笑む。差し出された手を握り返した。
「こんにちは村長さん!こんな奇抜な格好でごめんね?」
「いやいやとんでもない!さあ、こちらへどうぞ、長旅でお疲れでしょう。休まれてください」
村長は先に立って歩き出した。
『人一人死んでる村の村長とは思えねえ』
柳がボソリと呟く。ミキは聞こえていないかのように笑顔のまま村長のあとを歩いた。
案内されたのは、小綺麗な、集会所のような場所だった。村長は手ずからお茶を淹れてくれた。
ると、甲斐甲斐しくお茶をいれてくれた。
「ありがとう。それで、早速だけど、話が聞きたいの」
口を付けることなく、ミキは切り出す。村長は頷き、話し始めた。
「初めは一件、盗難事件が起きただけでした。こんな小さい村ですし、そんなことが起きるなんて思っていなかった私たちは、その人の勘違いだと思ったんです。いつの間にか物が無くなっている、盗られたんじゃないか、っていうのがそもそもの発端でしてね」
村長は一息ついて、また話し出した。
「するとまた、また、というように立て続けに急に何十件も盗難事件が起きるようになりまして。そしてこの間、…この悲しい事件が起こってしまったんです」
村長は見るからに落ち込んだ様子で項垂れた。
「そう…お気の毒に。手紙読んだんだけど、あなたが第一発見者なのよね」
項垂れながら村長は頷く。
「はい…外を歩いていたら悲鳴が聞こえたもので。家の中に入ったら…」
ミキは同情するように眉を寄せた。
「そう…それは辛いね。奥さんもいたんだよね?殺された人には」
「はい。奥さんの方は外に出ていて無事でした。でもすっかり落ち込んで」
柳は何も喋らない。感想すら漏らさない。
「まだ息はあったんです。そして一言、化け猫が来たと…」
ミキは頷きながら身を乗り出す。
「よく信じたね、それで」
村長は苦笑いを浮かべた。
「すぐ信じた訳じゃあないですよ。すぐ村中に噂は広まって、賛否はかなり分かれていました。けど殺人事件が起きてしまって、二件目が起きる前にということで。本当に妖怪がいるかどうかの証明も出来なきゃ、村民も不安でしょうからね。その証明も兼ねてお呼びしたわけです」
なるほどね、とミキは微笑み頷いた。
「実際にその妖怪の姿を見た者はいたの?」
「いや、後にも先にも見たというのは殺されたそいつだけで」
そう、とミキは頷く。なんの被害もないことは良いが、これでは手がかりが少なすぎる。妖怪の発生条件も分からない。
『どうやって調査するんだ?手がかりは何も無しだぞ』
さすがの柳も心配そうに声をかける。
「おびき寄せることは可能だけど、まんまと罠に引っかかってくれるかな。今まで何十件もの盗難事件起こしといて身バレせず。そんな頭のキレる人がみすみす罠にかかるかしらん」
「おびき寄せることも可能なんですかい」
目をぱちくりさせて村長が言う。純粋なその驚きように、ミキは穏やかに微笑んだ。
「まあね。一応陰陽師の端くれだし」
照れたように肩をすくめるミキに、柳は照れている場合かと鼻を鳴らした。
「さて、どうしようか。でもきっと…相手はあたしを殺しにくるはず。あたしさえ殺しちゃえば、村民は妖怪にかなうわけないし、他の陰陽師がここに来るまで江戸からは時間がかかる」
考え込む仕草をするミキに、柳は何かを感じ取ったように身のうちで囁いた。
『兼城』
一陣の風が頬を撫で、ミキは天井を仰いだ。
「うん、空気が変わった。…来るよ」
そう呟き、ミキは村長の体を一瞬にして抱え込むと、滑りこむように外へ飛び出した。その瞬間、先程までいた集会所が、まるで紙切れのように崩れ落ちた。
間一髪、崩壊に巻き込まれなかった。ミキが大丈夫?と村長に尋ねると、村長は口をあんぐりさせたまま、とある一点を見つめたまま動かない。
目線の先を見ると、この原因の張本人が立っていた。
「へぇ、こいつが化け猫ってやつ?随分可愛い見た目してんジャーン」
まるで巨大な招き猫のような見た目のそれは、動くことも鳴くことも無く、ちょこんと右手を上げてそこに立っていた。鋭い爪がミキを見下ろす。
「ああ、あたし?あたしはミキ、兼城ミキ!あんたは…そうねぇ、マネキっていうのはどう?うん、よしっ決まり!マネキって呼ぶわ!」
これから倒す妖怪だろうがなんだろうが、名づけてしまうくらい自分のペースでいくのがミキだ。どこにも当てはまらないスタイルのミキに、柳はいちいちため息と焦りが止まらない。
「さーてさてさて、この無口なマネキちゃんは、どうしたらお口を開いてくれるのかーしらネェ?」
ミキはゴソゴソ、腰にさげた巾着袋から、何やら丸く黒い玉を取り出した。
『兼城、注意しろよ』
「分かってるって。集中してるんだから、黙っててよ」
ミキはぼそっと囁き、手に取った玉にマッチで火をつけた。
「ほーいとな」
化け猫めがけて投げられるそれは、程なくして、爆風を伴う凄まじい爆発を起こした。ミキの腰巾着から出てきたそれは、爆弾だったのだ。
「うわあっ!」
悲鳴は化け猫の方向からではなく、後ろにいるはずの村長の方から聞こえた。どうやら爆風で転んでしまったらしい。
「あははは!ごめんごめん、もーちっと後ろ下がってた方が良さげかも〜」
振り返り、笑い声を立てる余裕を見せるミキに、声は再度鋭く囁いた。
『危ない!!』
「っ?おぉっと!!」
慌てて化け猫の方を振り返ると、今まさに、鋭い爪で地面ごとえぐろうとしていた。あと一歩遅ければ、あの鋭い爪の餌食だった。
『だから注意しろと!』
さすがのミキも、その言葉に反省の色を見せる。
「うぉうぉセーフ!ごめんごめん、この失敗の埋め合わせは、ちゃんと、するから…」
ミキは飛び上がりざま剣を抜き、剣先を化け猫の方へ向けた。
「…さッッ!!」
ぐっと足を曲げ、勢いをつけて真っ逆さまに落ちていく。ミキの小柄な身長の更に半分しかないような剣の切っ先が、化け猫の頭頂部を向いた。
軽々しく見えるその剣は、そのまま重力に従って化け猫の頭に落ちていく。そしてそのまま、硬そうな化け猫の頭をいとも簡単に貫いた。
重い陶器を割ったような、バキン!という音が辺りに響き渡る。たちまち立ち込める砂埃をはらい、化け猫の様子を確認すると、割れた胴体の中は空洞になっていた。おかしい、魂がどこにもない。
「っかしいな、中に何も無い?この大きさと力で人を食ってないのは変だしな…」
降りてまじまじと中を観察する。文字通りの空洞で、何か隠されているというようなことも無い。
(普通は同化しているはずなんだけどな…壊れた瞬間逃げたとか?)
今までの経験からして、妖怪を斬った時、中から魂が浮遊してくるか、中に閉じこもったままかのどちらかだ。それなのに、その気配は全くない。本当にこの化け猫は魂を食っていないのか?ひとつも?それとも、これほどまでの力を発揮出来るほどの何かがあったのか?
「ミキ殿、大丈夫ですか!?」
村長の声が外から聞こえてくる。近い、声が近い。
「大丈夫ー!危ないから離れてて!!」
ここにはなさそうだ。だとしたら、一体どこにあるというのか?
「ミキ殿!」
ひょこっと化け猫の半分に割れた胴体から顔を覗かせたのは村長だ。離れていろと言ったはずなのに、心配して来てしまったのか。
「危ないって言ったでしょー!あたしは大丈夫。あんたは?無事?」
息を切らして村長は返事をする。
「へぇ、大丈夫です!何かお手伝い出来ることはありますか?」
ちら、とミキは村長の顔を見た。
何一つ変わらない村長の顔色。ミキの頭の中で、先程村長と会話した話の内容が整理される。
最初は一件、それがどんどん広がって何十件も盗難事件が起きるようになった。そしてついに殺人事件まで。
ん?じゃあそれまで村人たちは、なんの抵抗もしなかったのか?今までずっと?ただ見ていただけ?それともみんながみんな、家を空けていた?
ミキはパッと顔を上げ、村長に向かってニッコリ微笑んだ。
「ありがとう!詳しく聞きたいことがあるから、ちょっと降りてきて!」
「へぇ、なんでございましょ?」
ミキに声をかけられ、依頼人がトンと下に降りた。と、その時、突然地面が青白く光出した。
「なっ…ミキ殿、これは…!?」
「やーっぱりね、それっ!」
ミキは懐から出した札を、人差し指と中指で持ち、動けない村長に向かって投げつけた。白い札一枚から何十枚にも増え、村長の体にまとわり、足元からグイグイと締め上げていく。
「あんたが殺したんでしょ」
喉元まで到達した札に声を遮られ、村長は苦しげに呻く。
「おかしいと思ったんだよねー。化け猫がいきなり村に侵入。いつの間にか盗まれている金品財宝。誰も今まで抵抗しなかった。これはあたしの推測だけど、あんただれがいつ家を空けるか分かっていたんじゃない?でも今回の場合、奥さんだけが出かけた…これは誤算だったね。あと、あの化け猫、丁寧に入口から入れるようような体格じゃなかったでしょ?それなのに村の家々が壊されたような形跡も見えない。修理したようなあとも無かった。人間がやったのは間違いないと思ってたけど。まさか台本通りあんただったとはね。」
この札は妖怪の息のかかったものを炙り出すためのものさ、普通の人間にはかからないよとミキは胸を張る。村長の顔はもはや目しか見えないが、最後の虚勢を張っていることはわかった。じっとミキを睨みつけ、目だけで殺そうとしているようだった。
「あんたは窃盗がバレたことに怯え、妖怪の存在をでっち上げた。あんたは村長だ。信頼は厚いし、金には困ってなさそうに見えるし、誰も自分を疑わないって分かってたんだろうね」
でも、気づかれてしまった。最後の最後で、村人に。
「だいたい、第一発見者があんたっていうのも結構怪しいもん。で、気づかれたあとはどういう経緯か知らないけど、化け猫に頼んで罪を被ってもらい、あたしに化け猫が犯人だと思わせ封印させようとした。つまり、村長さん。あんたは妖怪と契約をした。きっと何かしらの報酬と引き換えに、自分の言う通りに動くよう言ったんだろうさ」
ミキはニコッと笑い、パチンと指を鳴らすと、札の拘束を解いてやった。自由になった村長は、訳が分からないと言いたげな瞳でミキを見上げる。
「どういう経緯で妖怪と知り合ったかは私には分からないけど。人ひとりの命を殺めた罪と、私利私欲のために妖怪と契約を結んだ罪は重い。殺す時は自由にしてあげるのが、兼城ミキのルールなんだぁ。じゃぁねぇ〜」
一瞬にしてその瞳が怯えた色に変わる。堂々と暴れ回っていたマネキの欠片もない。
ミキは口元に不気味な笑みを湛えたまま、スラリと剣を抜いた。
「待ってくれ」
ミキは剣を首筋に当て、村長を…男を見下ろした。
「なに?命乞いならごめんだよ」
「違う。俺は、妖怪を売りつけられたんだ」
ミキの眉がぴくりと動く。動きが止まったまま、問いかける。
「どういうこと?」
青ざめた顔で震えながら、村長は口を開いた。
「俺は盗みに入った。それは事実だ。金欲しさにやってしまった。それを後悔していたんだ。だが、ある時とある不思議な風貌の奴がこの村にやってきた…正式には、俺の元に来た」
まるで昔話のような話だ。
「何それ、なんかの物語?」
『黙って最後まで聞け、兼城』
柳が鋭い声で注意する。むくれたように、ミキは言葉を噤んだ。
「続き」
促され、村長は再び話し始める。
「そいつは俺のしたことを全部知っていやがった。それで、この罪を無かったことにしたくないかと持ちかけられ、俺はその方法を聞いた。そしたらそいつ、妖怪のせいにしてしまえばいいと言い出して。俺の魂を、兼城ミキに勝ったら化け猫に与えると契約を交わした」
「それで魂を売ったわけか」
ミキは顔を歪め、嫌悪するような顔で見下した。項垂れるように村長は頷いた。
『初めて聞く話だな』
「うん…にわかには信じられないけど、今更嘘を言うようにも思えない」
ミキはふうと一息つくと、哀れんだような瞳で村長を見つめた。
「でも、人を殺した事実は重いよ」
低く唸るような声に、村長は顔を上げた。
「宝は返す!俺は悪くない!そそのかされたんだ!」
『何を言う。そそのかされたのはお前と契約した妖怪の方だろうが。せっかく人の魂を食らえる機会だったのによ』
すらりと剣を振りかぶり、情を全て無くした顔で罪人を見つめる。
「すまない、悪かった、だから…!」
「ごめんね、村長さん。謝るなら、向こうの国で、自分の殺した人に謝って」
何か言おうと村長の口が動く。だが、ミキはもう、その最後の一言さえ聞いてやる気はなかった。
ズバ、と綺麗な真っ二つ。血飛沫が上がるが、ミキは顔色ひとつ変えない。
憎々しげに死体を睨みながら、ミキはフンと鼻を鳴らした。
「村長はあなたが化け猫を倒すことを見込んでいた。化け猫を倒せば、魂は奪われることは無い。契約は破棄されます。村長として、また変わらず日常を送ることができます。あなたが化け猫を倒すところまでは見抜けても、その先の推理までは予測できなかったようですね」
ハッとしてミキは顔を上げた。微かに香るお香の匂い。砂埃の向こうに見えるシルエットは、「あいつ」に違いなかった。
「…ルイ。こいつも片付けるつもり?」
砂埃が晴れ、顔がはっきり見えた。その顔は、やはりその人だった。にっこり微笑んで言う。
「ええ、もちろん。どんな者も、悪さをした以上地獄に連れていくのが掟ですから」
ルイは地獄の使者だ。毎回仕事のたびに出てきて、最後に魂を持って帰っていく。地獄に連れていかれた魂たちが、どんな辛く苦しい永遠を味わうのは、ミキには想像が出来ない。
「…ふぅん」
素っ気ない態度のミキに、ルイはニヤリと笑う。
「なんです、また私を恫喝しますか」
面白くなさそうにミキはそっぽを向き、もう返事をしなかった。
「冗談ですよ、では」
風が一陣吹き起こり、お香の匂いもスっと消えた。ちらりとわざわざルイの居た場所を見て、もういないことを確認してから、ようやくミキはルイの去った方角を仰いだ。
(別に、あんな奴に情なんて湧かないよ。でも…)
ミキはちょっと下を向き、ふぅとため息をこぼす。
(あたし、あっちで謝っとけって、言っちゃったのにな)
きっと村長に殺された人は、殺された恨みを持ち続けたまま、ここにいる。死んでしまった以上、二度と和解できないから、ずっとさまよったままだ。下手したら悪霊になってしまうかもしれない。
(あいつに、謝らせてから、地獄に連れて行ってもらえば良かった)
何を思おうが後の祭りだ。
ミキは剣をしまい込むと、その場を後にした。
あなたの旦那さんを殺したのは、村長さんでした。
ミキの身のうちで、その言葉を咎める声が響く。
『おいお前、その言い方はないだろ!』
「黙ってて柳。他にどういう言い方があるのよ」
ミキは小声で囁くと、再び目を上げた。
周りの村人達は、理解しがたそうにどよめいている。殺された村人の死を嘆いて泣く者や、ただ悔しそうな顔をして俯く者、周りの者達と話す者、その反応は様々だった。
「そう、ですか…」
村長に殺された村人の奥さんは、そう言って静かに項垂れた。
怒るわけでもなく、悲しむわけでもなく。きっと、人間は本当に落ち込む時、または理解できない時、こんな風になるんだろうな、とミキは他人事のように思った。
「ありがとうございました」
奥さんはそう言うと、丁寧に腰を折った。
『…っ』
やるせなさそうな柳の声に、ミキは顔色ひとつ変えない。むしろ、じっとそれを見つめ続ける。
「もう、涙も出ないんです。夫が殺されてから、一回も泣いていない…」
時折笑いを含んだ声で、奥さんはそう言った。
「泣いてあげられないなんて、ひどい妻ですよね。きっと夫も、あの世で後悔してるわ、こんな薄情な妻と結婚した覚えはないって」
ミキはゆっくり瞬きをしただけで、何も言わない。ミキの中の悲しい感情は、きっと柳のものだろう。何も感じていないような表情で、ただただ奥さんを見つめていた。
「…会って、聞いてみればいい」
どこからともなく、そんな声がした。村人のざわめきは止み、皆じっとその声に聞き入った。ざわめきで聞こえるはずのなかったその静かなる女の声は、なぜだか、その場にいた全員の耳に聞き届けられていた。
「誰?」
ミキは問いかける。ミキの視線の先―奥さんの隣には、浴衣姿の少女が立っていた。
いつの間に、と奥さんは驚いた表情で少女を見た。ずっと奥さんやミキに視線を向けていた者でも、その少女の登場に驚きを隠せなかった。
まるで風の如くやってきた少女は、周りの声にびくともしない。その代わりに、奥さんの方へ向き直った。
「会いたい?旦那さんに」
少女の口から、そう声がした。静かで無機質なその声は、不気味ながらも鈴のような美しい響きを持っていた。
「会えるの?」
少女は、ひとつ頷く。
「あの人は、地獄に流されていないから」
その一言で、ミキははたと気づく。この少女は、何かしら地獄に関与している者であると。
でも、だとしても、そんな簡単に浮遊する霊を呼べるのか。
「ちょっとちょっと葵様!」
唐突に現れる、聞き覚えのある声ひとつ。
「さっき退場したばかりじゃない、ルイ」
呆れた声でミキが呟く。またよく分からない奴が出てきた、と村人はまた騒ぎ出す。しかし、ルイはそんな声やミキにルイは一切反応しない。
「何してるんですか!地獄流しの橋渡しがいないから、今軽い渋滞が起きてるんですよ!」
ルイの言葉に、やはり、とミキは納得する。地獄の関係者であることは、間違いなかったのだ。
それにしても渋滞が起きるほどとは…一体この世界には、どれほどの悪人がいるのだろうか。
「別にいいじゃない、少しくらい休息をくれたって」
ひねくれたようでも、拗ねたようでもなく、淡々と少女―葵は言い返す。
「でも、みんなに迷惑がかかるから…」
必死に葵を連れ戻そうとしているのが見え見えだ。ふぅ、と葵は軽くため息をついた。
「じゃあ、さっさと村長の件で亡くなった人を呼んできて」
「え、えぇ!?僕がですか」
急な指名に驚くルイを、冷めた目つきで葵は見る。
「他に誰がいるの。もし出来ないと言うのなら、いいわ、私が探す。でも、その代わりどれくらいかかるか分からない」
なんて感情のない脅し。それでも、それはルイに言うことを聞かせるのには、十分な力を持っていたようだ。
心から呆れたようにルイはため息をつくと、
「今回だけですからね」
そう言って、すっと消えた。
「あ、あなた…一体?」
呆然とする村人達の疑問符を代弁するように、ミキが口を開く。只者でないのは間違いないから、つい口調もよそ行きのものになってしまう。
答えない少女は、ふぅとひとつ息を吐いた。その口から言葉は何も出てこない。
代わりに、
「…早かった」
目線はやや斜め上を向く。釣られてミキもそちらを見る。村人は寒そうに震えている。
確かに今、ここは震えるほどの寒さで満ちている。しかもその寒さは、ただの気温の寒さではないのだ。体の芯から冷えるような、いうなれば「夜中に墓場に行った時に感じるような寒さ」なのだ。その寒さはとても着込んで凌げるような寒さではない。
思わずミキは両腕で肩を抱いた。唇がわなわな震え、じっとしていられない。
「っ、辰吉さんっ!」
唐突に、叫び声が聞こえた。
ミキは反射的に立ち上る煙を見上げた。その煙の中にぼんやりと、浮かび上がったのは人の顔。初めは曖昧だった人の輪郭が、徐々にハッキリと象られていく。
それはかつて、化け猫に殺されたはずの村人の顔だった。
あちらこちらからざわめきが上がる。ミキはただ唖然として、言葉も忘れて煙の中の人影を見つめた。
「辰吉さんっ、辰吉さん!」
急ぎ駆け寄る奥さんに、辺りはしんと静まり返った。
「辰吉さん…辰吉さんなんですよね?」
煙の中に見えた顔は、閉じた目を静かに開けた。
「辰吉、さん…」
「…聞きたいこと、聞かなくて良いの?」
葵の声が冷たく響く。奥さんはまだ動揺しているようだった。足が震え、立っているのもやっとのようだった。
大丈夫、と声をかけようと歩み寄りかけるミキに、柳が制止の声をかける。
『お前が行っても何にもならない。今はあの人に任せろ』
「…っ…」
唇を噛み、差し出しかけた足を引っ込める。
いきなり死んだはずの旦那が出てきて、聞きたいことを聞けといきなり言われても、言葉が出ないのは当たり前だ。
「辰吉、さん」
囁くようなその人の声に、村人のざわめきは止み、ミキの目もそちらに向けられた。葵は表情一つ変えない。
「…辰吉さんは、私を恨んでいますか」
煙の中の辰吉が、目を開ける。ゆっくり開けられたその目は、確かに目の前の妻を捉えていた。
「あの日、私が外に出なければ…私が家にいたら…辰吉さんは、」
「藍子」
遮るように、声がそう言う。
藍子と呼ばれたその人は、はっとした表情で言葉を飲んだ。
「辰吉、さん…」
ぼんやり呟くように、その人は、藍子は夫の名を呼ぶ。
「…あなたを失って一度も泣いていない、あなたを失っても当たり前の変わらない日常を送る、そんな私を、あなたは恨んでいますか?」
真っ直ぐ夫を見据えたまま、それでも藍子は言葉を紡ぐ。辰吉から少しも目をそらさず、黙って返事を待つ。
ミキも村人もルイも、葵でさえも、その光景に目を奪われたままだった。
「あなたは、恨んだまま…」
「藍子」
再び、声が言葉を制する。
「俺は、お前を恨んでなどいない。むしろ…」
辰吉の、少しの感情をも含まない表情の中に、わずかに揺れるものがあった。揺れる視線を、藍子は追う。
「あの時、お前とお前との大切な家を守れなかったことを、俺は、お前に恨まれているんじゃないかと…それが怖くて。その、不甲斐ない夫であることが、その…」
どもる辰吉に、くすっ、と笑い声が上がる。
「あははは、あはははっ!」
辰吉は、驚いたように目を見開いた。突然の藍子の笑い声に、ミキは眉根を寄せる。まさか何か頭をおかしくしてしまつたのではないかと思ったのだ。でも、それは間違いだった。
「…私は、絶対あなたを恨みません。あなたと結婚したことも、後悔しません、これからも絶対に」
彼女の声が段々と震えていっていることに、もう周りは気づいているだろう。
「…藍子」
優しく彼女を呼ぶ声に、藍子は笑って顔を上げた。その頬には、幾筋にも涙のあとがついていた。
「辰吉さん…私は…やっぱりあなたと一緒にいたかった」
いづれ死が二人を別つことは分かっていた。永遠に繋がっていられることなんて、ありえないことくらい。でもまさか、こんな形で、しかも第三者に人生をめちゃめちゃにされしまうなんて。
藍子の心の中に、どす黒い思いが募っていく。今まで感じなかった避けられぬ運命への恨みが、沸々と胸の中に滾り始めていた。
「…憎い?あいつが」
葵が口を開いた。それまで辰吉に目を向けていた藍子は、思い出したようにそちらを見やった。
「…憎い」
もはやその顔に愛する人を思う気持ちなど微塵も残っていなかった。ただ憎しみと悲しみが混ざり合い、赤い怒りをたたえていた。
背筋に冷たいものがぞくりと走り、思わずミキは駆け寄る。
「ちょっ…藍子さ」
「時間ね。ルイ、壺をしまって」
ミキの言葉を遮るように葵が言う。まるで自分が制されているかのように、ミキの足も止まってしまう。はい、とルイは厳かに返事をすると、壺の蓋を丁寧に閉めた。同時に浮かんでいた辰吉の顔も消える。しかし、藍子は少しも悲しげな顔をしなかった。最後の別れの言葉も言わなかった。その目にもう愛する夫の姿は写っていなかった。
「色々後味悪い事件だったね」
江戸まで烏に送ってもらいながら、ひとり呟く。柳は何も言わないが、少し気分が悪そうだった。それは酔いによるものではないとミキは分かっていた。
「妖怪を売りつけた奴の話も気になるし、…てか、何のために村長は金品を盗んだんだろ」
寝転がり、伸びをしながらミキは言う。
『いくら満ち足りていたとしても、欲はそれを上回っていく。永遠に満足しない、それが人間ってもんさ』
「…」
答える声はない。柳が言うと、重みが違う。肯定も否定もなんだか上面だけの言葉なような気がして、ミキは口を噤んだままでいた。
烏たちが下降を始める。もうじき江戸に着くのだ。
向こうの山は夕暮れの緋に美しく染まっていたが、心はちっとも晴れやしない。似つかわしくない険しい顔のまま、家路を辿ることになった。