桜の蛇(蛇足)
薄紅色の花弁が舞い散る庭に連れてこられたのは姉がトオ私がナナツの時だった。家長である伯父に「姫さまがお淋しいとおっしゃるのだ」と選ばれた。ミッツになったばかりの弟をひとり伯父の下に残すのは不安だったけれど、すでに両親のいない私達にはどうしようもなかった。選択肢などなかった。
姉はこんな庭がなければいいのにと日々機嫌悪く、小さな姫さまを嫌った。
姫さまはいつだってにこにこと囀っていてご機嫌で。その様子がまた姉の気に障ったのだと思う。
姫さまの囀りは意味のないものだと姉は切り捨てるけれど、おとなしく私に髪を梳かれながら楽しげに囀る様子はひどく愛おしくも感じた。
そう、好ましいと私は感じていた。
おとなしく物わかりよい姫さまの世話は次第に私の担当になっていく。
姉に髪を梳かれるより私に梳かれる方を姫さまは喜ぶのだ。
心の底で嬉しく思う私に姉が嫌悪の目をむける。私にはそれが怖かった。姉に嫌われたくなかった。いや、同じ人に嫌われたくなかったのかもしれない。姫様はヒトを模していても明らかに異端だったから。
伯父は時折り訪れる。
姫さまが嬉しそうに伯父の膝にまとわりついて抱きあげられて嬉しそうに囀っているのを私達姉弟はそっと控えて見守っている。
伯父は姫さまを大切にしろとばかり言う。
不満を未だ抑えられない姉に懸念を抱いているのだろう。
菓子も不自由ない食事も小綺麗な服も余暇を慰める本も姫さまが在ってこそなのだと。
困ったように伯父はそっと囁く。
「姫さまは嫌われていることだけを理解して黙認されている」
「そんな理解力あのばけものにあるわけないじゃない!」
伯父の手が姉を打ち据えた。
言い過ぎた姉も悪いがこのままだと伯父は姉を打ち据え続けそうで、それを覗く姫さまに見せるのはよくないと伯父を止めた。
そして姉に頭を下げさせる。
姉が納得できないのもわかるのだ。
伯父の家にいた頃、父母がまだ生きていた頃は友と遊び学び舎で学び、華やかなハレの日の屋台を冷やかし欲しい物をせがんだ。私はまだそれほど未来を望むことはなかったが姉は友と未来を語り合い、希望を夢を持っていたのを手折られたのだ。
この桜の庭では叶わないことばかり。
ハレの日の祭りもなくただ淡々と日々は繰り返される。
身を浄める青臭い香の香りは気を滅入らせる。
「恋だってしたかった。こんな牢獄であんなばけものに仕えて生涯を終えるのはイヤよ」
だからと言って姉にここから逃げ出す度胸はなく、ただ嘆いているだけなのだ。
部屋で反省しているという名目で閉じ籠もる姉の下に伯父がやってきたことを聞いたのはその日の夜だった。私が姫さまの髪を梳り衣装を整えている時間だったという。
姫さまを睨まないようにとえぐられた眼玉を入れてあるという箱からガサゴソと得体の知れない不気味な音が聞こえてくる。
「あのばけもののせいでなんで私がこんな目にあうのよ」
姉は壊れていったんだと思う。
「ああああああああ、いやだぁああああ。中に私の中にばけものがいるぅ。私が消えるぅ」
そう叫ぶ姉に私は何もできはしなかった。
夜な夜な姉は泣きながら疼くまぶたを抑えていた。まぶたの隙間から時々虫の脚が覗くことを私はそう見ぬフリをしていた。
姫さまが伯父になにか囀っていた。
ただ私は見ていた。
強い風が薄紅色の花弁を巻き上げ目も耳も使えない世界で伯父は砕けて消えていった。
しばらくして弟が伯父の跡目を継いだと訪れた。伯父の娘と結ばれ子をなしたのだとか。
弟は姫さまをあやした後、私たち姉弟に深く頭を下げた。
世界を守るための礎として勤めて欲しいと。
弟は伯父に代わり姫さまの『お父様』になった。姫さまが解するのは『お父様』の言葉だけ。無知な私にはその真意はわからない。ただ、弟の苦労を思うくらい。
あの囀りの意味を知れるのは弟が選ばれ私は選ばれなかっただけ。
「ばけものに仕えてばけものになっていつか伯父さまみたいになにも遺さず消えるのね」
姉の言葉に弟が申し訳なさげに苦い笑顔を浮かべる。
「世界ってなによ! 私には縁が、関わりがないわ! あんたまであたしたちに死ねって言うの?」
否定できない弟に告げるには酷だろうと思うことを姉は泣きながら吐きだす。
私にはわからない夢が姉にはあったのだろう。弟を伯父に任せるための務めと騙した自分の心も父の弟が自分たちの主人として立つのが面白くもないのだろう。
そう。どうせなら弟には知らず普通に生きて欲しかった。むしろ姫さまの言葉をわかるその力を譲って欲しい。
私もまた姉に劣らず身勝手だ。
「姉様はここから出れませんよ」
目の中に入れられたムカデがそれを許さないだろうから。
「っわかってるわよ! ああ、あなたは悪くないわ。頼りない姉様と兄様でごめんなさいね」
私に怒鳴り、必死に怒気を抑えた姉は弟の頭を撫でる。
撫でられて照れくさそうに弟がゆるく笑う。別れた幼い頃を思い出し胸が熱い。
シャンっと高い音が響いた。
「あのばけもの!」
姉の声。慌てる弟。私だけが状況を理解できない。
「いけない。姫さまが囲いから出た!」
弟が駆け出す。
「止めなくては。姫さまを囲いのうちに留める事こそが当家の責!」
転んだ。
私は弟を小脇に抱え駆ける。姫さまがいつも見ている方向へ。
「姫さまを止める言葉を持っているのか?」
走りながら弟に問うが弟の顔は困った表情だった。
森はひどく静かだった。
普段の狩りや山菜採り時の静寂の中にある騒々しさとは違う息を潜め恐れているかのような静寂。
漂う空気がひどく痛い。
水結壁を見上げる姫さまを見つけた。
呼吸を整えてゆるい表情をつくり手を差し伸べる。
「帰ろう」
ああ、伯父に比べて表情を作るのが下手だ。
弟は姫さまを大切な存在としてみれていないのだろう。どうして姫さまの表情に気がつかないのだろう。
姫さまの囀りに弟の顔色が悪くなる。
哀しんでいるのだ。寂しがっているのだ。言葉が届かなくてもそばに居ると伝えたいのに私の足は森の緑に囚われて動くことができない。
水結壁がずるりと動き出す。
唖然とするしかない私は必死に姫さまの姿を追う。
声をあげて止めようとしている弟よりも姫さまが気になるのだ。
水に呑まれる弟を横目に見ながら薄情な我が身を笑う。
水が森を押し潰しすべてを呑み込んでいく私が立つ一角を除いて。
水の上に佇む姫さまが小さく髪を揺らす。
『疲れちゃったわ』
「では、帰りましょう。乱れた御髪をきれいにしませんと」
きっと声は届かない。姫さまの囀りが言葉に聞こえるのが喜ばしい奇跡なのだ。
『お父様が梳いてくださるの?』
嬉しそうに笑う姫さまに私は困惑する。
お父様ではないのだから。
『お父様?』
呼吸を整える。
「そうですよ。お家が無事だといいんですが」
『あら、お父様。桜の庭は私の寝所ですもの』
ころころと楽しげに私にむけて手を伸ばしてくる。だっこ。とばかりに。
私は外を知らない。森をこえた故郷がどうなったか想像もできない。
失われた水結壁に背をむけて桜の庭に帰るのだ。さて姉様はご無事だろうか?