桜の庭
お庭には桜の木。垣根の先は鬱蒼とした森。その先には世界が落ちる大滝がある。
お父様は私を膝に乗せてそう語ってくださった。
声を持たないばあやが私の髪を梳る。
「私、大滝が見てみたいわ!」
手を合わせておてんばを言う私にばあやは強めに髪を引き、糸のような細い目で私を睨むの。たぶん、睨んでるの。
本当はわかっているわ。
外には野犬やケダモノ、毒虫に蛇がいて庭に出るのがせいぜいの私が案内もなく行けるはずもないって。
お勤めに出てらっしゃるお父様が帰ってこられればお散歩をおねだりするのに。
「あーあ、つまらない」
ある日、ばあやが起きてこなくて私はとても困ってしまったの。
いつもばあやに髪を梳いてもらっているのですもの。困るわ。お父様はお勤めからまだお戻りにならないし。
だからばあやのお部屋に入ったの。
植物の青臭い匂いの香が薄暗い部屋を満たしていて薄い掛け物の膨らみがばあやだと思ったの。
ただ、起きて欲しくて軽く揺すったわ。
「ばあや、朝よ。起きて」
ばあやはいつものあいてるかあいてないかわからない糸みたいな目でうっすら開いた口からはいつもみたいに音はこぼれなくて。
パキンと軽やかな澄んだ音が聞こえてとても驚いたの。
パキンパキンガサッて。
「ばあや?」
持ち上げたばあやの顔に首はついてなくてぐずりと不可思議な感触を手に遺してばあやは消えてしまったの。
ええ。私は困ってしまったの。
ばあやがいなければ誰が私の髪を梳り、装いを整え食事の支度をしてくださるの?
私は困ってしまったの。
どうすればお父様に帰ってきていただけるかもわからないんですもの。
お父様がお勤めから帰ってこられたのはそれからほんの少したってから。
とても疲れてしまって億劫でお出迎えも出来なくて。お父様は私に駆け寄って一人にしてすまなかったと詫びてくれた。
そうしてお父様が私の髪を梳いて服を整え食事を準備してくださるの。
ばあやがいなくなってしまったと伝えた私をお父様は抱きしめてくださった。
お父様はお勤めに出なくてはならなくて、私はお留守番がイヤでたまらない。
「ひとりはいや」
お父様を困らせるのはいけない子だけど、私はひとりはいやだった。おしゃべりできなくてもばあやがいたおうちといないおうちは違い過ぎていやだったの。
お父様は私を撫でて抱きしめてひとりにはしないとおっしゃるの。
お父様の手招きで連れていかれた玄関には人影がふたつ。
ばあやと同じで声のない子供たち。
私は年の近そうなふたりが嬉しくてお父様をすんなり送り出す。
お父様を見送って振り返れば、スッとふたりから視線を逸らされた。
外の匂いをまとったふたりに喋れたら外を教えてもらいたいのにと少しだけ残念で。
それでもいつか打ち解けてくれればいいなと私はふたりに語りかける。
「よろしくおねがいします」
ふたりは三日とたたずばあやと同じあの青臭い香の匂いをまとった。私の髪を梳いて装いを整え、食事を供する。時々、ふたり寄り添ってどちらかが泣いていた。
私はそっと見ないふり。
垣根のむこうに広がる青い森。咲き誇る薄紅色の桜。
「世界が落ちる大滝がないお父様のお勤め先にはなにがあるのかしら?」
ふたりもばあやと同じように私が外に興味を持つことが気に入らない。
いいえ。ふたりはあきらかに私が嫌い。
しくりとおなかが重く、キリキリと胸が痛む。
私は病気なのかしら?
頭がぼぅっとして目元が熱いの。
お父様がお戻りになったら聞いてみなくては。
……あら。
前にもそんなことなかったかしら?
いいえ。きっと気のせいね。
桜の花弁がほろほろと庭を染めている。
私の髪を梳る彼をいつしか見上げる日々。
ばあやと同じで声を持たないけれどその眼差しは存外雄弁で。お世話は恙無くこなしてくださるけれど、やっぱり私を見る目には嫌悪が篭ってる。
だから私は垣根の先にあるという大滝を見たくなる。
私はひとり庭を散策する。
ひとりではないのにひとりではない時よりひとりのようで、そう。きっと淋しい。
パンっと鋭い音に驚いて音の方へ駆け寄れば、お父様が彼女を打っていた。
声のない彼女はその雄弁な目にこれ以上ないほどの怒りと嘆きをのせてお父様を睨んでいた。彼が慌てたようにお父様の袖を引き、彼女の頭を押さえて下げさせる。
なんとなくわかるのはそれが彼女を守る行為だということ。
それが彼女の強い瞳を見た最後の日だった。
珍しくムカデが庭を這っていた。それを追った私は物置きだと聞かされた小屋の前にたどりついた。ムカデがしゅるりと隙間からきえてしまった。
その隙間をそっと覗いたのは好奇心。
灯りひとつなく薄い木板が落とす隙間明かりで浮かび上がる影に「ばけもの」と声をこぼしたのは誰だったのか。いいえ。私しか声を持つ者はいないわ。お父様がお戻りになるまでは。
だから小屋の中に居たのは『ばけもの』なの。
私じゃない。
声を持つのは私とお父様だけだもの。
こわい。
こわいこわい。私は病気なのかしら?
彼が私の髪を梳る。
彼女は閉じた目で見えているかのように雑用をこなしていく。
不安でこわい。
だから、お父様にすがった。
「置いていかないで」
桜がほろほろ落ちていく。庭を染めていく薄紅色の雪のかけら。
ずっとずっと我慢してきたわ。
ひとりはいや。淋しいのはいや。嫌われているのもいや。
春の風は声高に吹き薄紅色の雪を吹雪かせる。
それは強い水の音のよう。
「そばにいるよ。おちびさん」
お父様の声が聞こえる。
「そばにいてくださるの?」
「……そう、だよ」
悩みつついてくださるとおっしゃるお父様が可愛く感じられて、私はつい笑ってしまう。
「お勤めはよろしいんですの?」
「あまり良くはない。だが、なんとかしよう」
お父様がそう約束してくださるから私はゆるりと安堵できて。
「時々は勤めに出るが今までより多くいよう」
ああ、その約束だけで嬉しくて嬉しくてしかたがないのです。
「嬉しい。お父様大好きです」
「ああ。愛しているよ。我が家のお姫様」
彼が少しはなれた場所からお父様と私を見てる。
私が笑いかけるとそっと視線を外した。
髪を梳る時に語りかけ続けた。声がなくても反応が欲しくて。彼はいつも淡々と私の髪を梳り、装いを整えてくださるだけ。
夜ふけにお父様の声が聞こえて私はそっと声をたどる。彼女がまた打たれていたらいやだと思ったの。
お父様が彼女に頭を下げていた。
私は何が起こってるのかわからなくて私の口を軽く抑える。
「兄様と姉様にはご負担を……」
お父様と私以外声がないのだからお父様に応える音は当然なくて。それなのにお父様は彼女に頭を撫でられる。
私、本当に彼女とも仲良くしたかったのよ?
それなのに彼女はちっとも歩み寄ってはくださらなくてずっとずっと私に嫌悪の目を向けてきたわ。彼女が髪を梳る時はひどくひどく乱暴で私を嫌いだと思い知らされたわ。
森のむこうには世界が落ちる大滝がある。
お父様は私を愛してくださってるはずだった。お父様が愛おしく見てくださるのは私だけだったはずなのに。いつからかしら?
いつからだったかしら?
お父様の声が平坦に感じた日は。
困らせた私が悪いのかと我慢してきたわ。
ひとりはいやというわがままだって、本当に我慢してきたわ。
ばあやは私が大滝を見ることを嫌がったし、お父様は森には野犬や毒虫、ケダモノが居るって仰ったわ。
玄関をそうっと潜ればピリッと肌に痛みが走りリンリンと妙な音が響く。
それでも私は大滝を見たくて。
世界が落ちる大滝が見たくて、途中でケダモノや毒虫に出会ってもかまわないと走ったの。
ひゅうひゅうと吹き付ける風は生ぬるく、濡れた空気がひどく手足に絡みつく。
もしかしたら大滝にたどりつかぬまま倒れるかもしれない。
それでも私は足を止めれなかった。
どこからともなく落ちる大量の水。世界が落ちる大滝はぴくりとも動くことなくそこに在った。
ああ、この大滝は。
「帰ろう」
お父様の震える声に私は振り返れない。
愛していた。確かに愛されていた。
ええ。大好きだったわ。
だから私は私を忘れたの。
ひらひらとふりつもる薄紅色の雪。
あなたが私を閉じこめた?
それとも私があなたを動けなくしたのかしら?
「どうしてお父様なのにお父様じゃないのかしら?」
哀しい。確かに愛しいお父様なのに最初のお父様じゃないのですもの。
カナシイ。
それでも私はお父様が愛おしく、辛い眼差しになってほしくなくて。
それでもやっぱりお父様の手をとりたいと思えない。
それでもそれでもと言い訳ばかりが渦巻いてふつりととぎれた。
ああ、お父様の声が聞こえない。
それでも、それでも。
今度は私がお父様のおうちになるわ。
ねぇ。
お父様。
ずっと一緒ね。
水が森を呑み込んでいく。
ええ。
ずっと一緒。